六章、残月と、雲路の果て



 十二、


 雪瀬のめったにない剣幕に、騒いでいた長老たちがはっとした顔で口をつぐむ。ひそひそと言葉を交し合っていた衛兵や家人たちも皆黙り込み、あたりはしんとなった。

「――雪瀬」

 後ろから手首をつかまれ、こぶしを下ろさせられる。薫衣はふぅと息をついて暁を振り返った。

「お前の話はわかった、暁。桜を疑わしいと思った理由も心に留めておく。でも、そこにいたのは本当に月詠だったの? 見間違いじゃなく? 言っておくが、黒衣だからってのは決め手にならないぞ。宮中の連中はみんな黒羽織を着てるんだから。――そもそも」

 怜悧な光を湛えた眸が暁を眇め見る。

「桜は帝の夜伽だろう? 黒衣の占術師とどんな繋がりがあるっていうんだ」

 長老たちがそういえばといった顔でうなずきあう。
 だが、水を向けられ、上げられた暁の顔には薄い笑みが湛えられていた。

「……その繋がりがありますと言ったら?」
「は?」
「ありますと言ったらどうします薫衣さま」

 昏い眸が狐のように賢しく光った。暁はおもむろに立ち上がると、床に力なくうずくまっていた桜のかたわらにかがみこみ、その衿首をつかんで衣を引き暴いた。

「この娘は、――今は滅びし白雨一族の末裔!」

 高らかにその言葉は宣言された。
 驚愕を通り越して呆気に取られた一同を振り返り、暁は言う。

「薫衣さまや長老さま方ならば、ご存知でしょう。黒衣の占術師である月詠が白雨の出であること。その月詠が執着し、寵愛する者こそこの娘。人形師がその屍を人形とする前――生前は名を鵺といいました。系譜をなぞれば、白雨一族に確かにその名があるはずです。系書には、こうも記されているはず。緋色の眸とは、白雨一族宗家直系の娘にしか出ない世にも稀なる彩(イロ)であると。そして肩にはその名が刻まれるのです。このように――」

 暁はあらわになった桜の右肩を指し示し、そこに刻まれた火傷のような痕を指でなぞった。

「『夜』、『鳥』、あわせて『鵺』」

 その場に集まった皆が息を呑む。

「――十数年前、白雨一族が何故滅ばなければならなかったか、その理由を長老さまがたならば覚えておられるはず。当時、白雨一族ではその直系であり次期当主である少年と、実の妹との間で禁忌を犯して交わりが持たれ、あまつさえ娘は子を。実の兄との子を胎に宿したのでございますから。彼らが黎と鵺。これに端を発して一族内で内乱が起こり、周囲を巻き込んだ争いの渦は瞬く間にあたりを焼き尽くした。胎の子とともに一度は死んだという話でしたが……それにしても、この娘」

 肩に引っかかっていた衣が滑り降りてあらわになった白い背には、点々と赤い痣が情事のあとのように散っている。濡れた髪が張り付いた肌にうっすら垣間見えるそれは、身体じゅうが冷たくなるくらいに、淫らであった。

「未だ実の兄と情交を重ねていると見える。……――これが証拠です、薫衣さま」

 衛兵や長老どころか、薫衣すら口をつぐむ。
 あたりに凍りつくような沈黙が落ちた。

「――……雪瀬」

 固く閉じていた眸を開くと、薫衣はこちらを振り返った。

「お前、知ってたろう」
「……何を」
「火傷。『鵺』。知っていて、どうして隠してたんだ」

 その声は淡然としていながらも、こちらを非難する響きがある。
 少女の射るような視線から逃れるように雪瀬は目を伏せた。

「……べつに、隠してたわけじゃない。鵺のことだって、それは月詠の話で、桜には関係」
「関係、あったじゃないか!」

 怒声が爆ぜた。薫衣の手が胸倉をつかみ上げる。ぎりぎりと締め付けてくる手は血の気が失せ、どころか震えていた。

「ふざけんなっ、関係あったじゃないか……! ばっかじゃないの、また騙されたんだお前」
「いつ、どこで、俺がひとに騙された」
「わかんないなら言ってやる。空蝉が襲われたとき、あの生臭庇って後ろから刺されたのはどこのどいつだ。五年前、凪が死ぬまで月詠の背ぇ追い掛け回してたのはどこのどいつだ! なぁ、どうしてお前いつもそうなんだよ。馬鹿じゃないの、お前がそんなんだから真砂の馬鹿が死んじまった! もう帰ってこない! わかってんの? 取り返しつかないんだよ、どうするんだよお前!」
「鵺のことを言わなかったのは薫ちゃんの言うとおり俺だ。彼女を、桜を拾ったのも、ここへ連れてきたのも、鵺のことを知りながら屋敷に置いたのもぜんぶ俺のしたことで、それがおかしいってんなら責任はぜんぶ俺にある。桜じゃない。彼女はなんにも知らない」
「桜は真砂と暁を撃った!」
「ちがう! 桜はひとを撃ったりしない!」
「――雪瀬さま」

 今にも火花を散らしそうなその場に制止をかけたのは最長老であった。
 床につけていた杖を伸ばして薫衣と雪瀬を離すようにすると、「まぁまぁ双方落ち着かれませ」とこほんと咳払いをする。

「雪瀬さま。そう必死にお庇い立てになると、逆に皆から卑しい憶測をなされますよ。何せこの娘は美しい。共に暮らすうちに親愛以上の感情を抱いたり、親愛以上の関係を持たれてもおかしくない」
「――それが?」

 冷めた視線を寄越すと、老翁は微かに瞑目し、苦笑気味に首を振った。

「ところであなたは先ほど責任はすべて自分に、と仰った。責任は自分に。重い。実に重い言葉です。つまりあなたは、真砂さまと暁の殺傷事件、さらには月詠との密通についての責任をすべて引き受けてくださるということですな?」

 老翁が軽く手を上げると、杖に仕込まれていた刃が飛び出した。
 ひゅ、と風が空を切る。

「セキニンセキニンと軽々しく口にするでない、小童が」

 老翁は瞼の下から冷厳とした眸を光らせた。
 鼻先にあった刀が下がって、布越しに脇腹をなぞる。

「責任を引き受けるということがどういうことであるのか身をもって示していただきましょう。どうです、試しに腹でも斬りますか。ここで」

 衿の合わせから入った刀が衣を袴から引き出す。素肌にひたりと冷たい刃が当たると、背筋がすぅっと冷えていった。
 雪瀬はしばし目を伏せて黙考し、そして刀を取った。細く息をのんだ老翁を横目に刃を引き寄せて柄をつかみ、一度床に突っ立てると、袖をまくって腕の辺りをぎゅっと裂いた布で縛った。刀を抜いて、二の腕のあたりに刃を這わせる。

「今ここで腹を斬るわけにはいかない。最長老。ただし兄が戻ってきてそうせよと言ったらそのとおりにする。だから今は、代わりに腕を。腕なら一本くらいなくなったって死にゃしない」
「ま、待て。待て、雪瀬」
 
 薫衣が焦燥した様子で刀を持っているほうの腕に取りすがろうとする。それを払って刀を逆手に持った。
 そのとき、ふっとひとの笑い声が聞こえた。雪瀬は引き寄せられるようにそちらを振り返る。

 暁がいた。

 暁が陰鬱な顔にうっすら笑みを湛えてこちらを見下ろしていた。そこには、獣に追い詰められた人間が他の人間が食われているのを見て胸を撫で下ろしているときのような、暗い安堵と愉悦があった。その目をかつて雪瀬は見たことがあった。記憶の底にこびりついている。それは、雪瀬の腹に短刀をのめりこませ、この首を斬れ、と差し出したときの空蝉の目とまったく同じなのだった。

 ――どうして、気付かなかったのだろう。
 ことんと胸に何かが落ちる。
 こんなに、そばにいたのに。こんなにずっと、そばにいたのに。
 俺また、見抜けなかった。

 さっきの白雨一族への深い知識や、桜の肩の痣の既知。今の行動。銃声の夜に暁が持っていた大きな包み、桜の直後の行動。考えれば、あっけないほど綺麗に、散在していた点が一本の線となる。
 ――月詠と繋がっているのはこの男だ。
 頭を思い切り殴られたかのように雪瀬の中に重い衝撃が広がっていった。

「――……ちが…う」

 消え入りそうなか細い声が耳朶を打ったのは直後だった。
 それまで身じろぎひとつしないでうずくまっていた少女はふらふらと雪瀬と長老との間に這い出る。返り血を浴びた襦袢は、加えて泥水でもかぶったのか、ひどく汚れていた。それすらも今はずり落ちて、ほっそりした肩や白い背中がのぞいている。長い黒髪は何故か一部が変に短くなって濡れた背中にまとわりついていた。

「ちがう、きよせ、わるいことしてない。ちがうの……」

 桜はやりにくそうに右手だけを使って、頼りなく引っかかっていた腰紐を解いた。そうするとまとわりついていた衣も落ちて、もはや彼女を隠すものは何もなくなる。痩せた、貧相な、赤い痣と擦り傷ばかりが目立つ白い身体だった。

「わたし、わたしをきって」

 細い腕が伸びて、思わず一歩のいた最長老の上着にすがりつく。

「わたしのおなかをきって。うでもあしもてもゆびもかみもおなかもいらないからきって。おねがい、きよせきっちゃいやだ。きよせのうでなくなっちゃいやだ。わたし、なにもいらないから、きよせいがいなにも、ほかのものはもうなにもいらな…」

 ――もう。
 やめてくれと思った。

 雪瀬はちんと音を鳴らして刀を納めた。
 桜が驚いた風にこちらを仰ぐ。
 助けてと呼び求めるにはその眸によぎる色はあまりにも弱々しかった。濡れた緋色はたくさん傷つけられたせいで、もはや微かに怯えた様子でこちらを見つめてくるだけだ。だからこそ。だからこそ彼女の身体ぜんぶがたすけてとそう言っていた。

「こいつを牢に入れて」

 雪瀬は言った。
 目を瞠る一同を前に続ける。

「牢に入れて。罪状は内通及び橘真砂殺害及び暁の傷害。どうしようもない。もう疑いようがない」

 はたはたと自分を見上げる緋色の眸が不思議そうに瞬いた。
 色を失った唇が何か物言いたげに開く。声は、なかった。たださざ波が引くように透明に澄んでいく緋色を雪瀬は眺めた。やがて熱を失ったそれは硬質な紅玉がごとくなる。そろりと双眸を伏せ、彼女は不意に花が散り逝く刹那のような、儚い微笑を見せた。それも次の瞬間には何もなくなった。

「連れて行きなさい」

 長老の誰かが命じる。雪瀬は衛兵に腕を捕まれて引き立たせられる少女から視線を解き、きびすを返した。