六章、残月と、雲路の果て



 十三、


 『何を望み、何を捨て、あるいは何を厭い、何に殉じるのか。
 武器が問い、持ち主が答える。外にはない。答えは常に己の内にこそある』


 



 一羽の白鷺がばさばさと羽音を立てて空を飛んでいった。
 雪瀬は椿棚の前にひとりでいる。何をするわけでもなく、あえていうならば思索にふけるようにかがんで雨露に濡れた椿の花弁をいじっていた。その足に一匹の黒猫が長い尻尾を絡めてまとわりついてくる。雪瀬はそれに気付いて少し表情を緩め、戯れる猫を抱き上げた。外を駆け回る野生の猫がいっとう好きな彼は、猫を見つけると決まって鼻先がくっつくくらい顔を近づけるので、むずがった猫が少しうっとおしそうに首を振った。白い呼気が猫の濡れた鼻先をかすめる。
 そのとき、背後で板敷きの軋む音がした。

「長老たちが桜の処罰を求めている。五條の娘が事態の収拾にあたっているが、まぁ無理だろう。打ち首か磔刑か、内通者とあっては死罪は免れまい」

 淡々と事実だけを告げ、無名は雪瀬の背中を見た。
 その背が動くことがなかったので、首を振って、「厩から馬が一頭なくなっていたぞ」と別の報告を続ける。本意でないとはいえこの家の使用人として働いている以上、雇い主は橘の名を持つこの少年であり、自分には事実を伝える義務があった。無名はそう考えている。

「それで調べてみると、暁がいない。昼、門番のひとりが栗毛の馬を引いて宗家を出て行く暁を見たという。なくなったのも栗毛だった。左に古傷の入った」
「そう」
「驚かないな」
「部屋に見張りを置いておいたら、天井裏から逃げ出したんだ。念のために颯音兄のところへは扇を飛ばしておいた」
「お前はあいつが内通を働いていたと考えるのか?」
「考える。もう今となってはどっちでもいいけども」

 風が吹いて椿の花弁をゆらりと震わせた。
 雪瀬が手を離すと、猫は庭の向こうへ駆けていく。

「――さて、俺たちはどうしようか」

 乾いた冬風に濃茶の髪をそよがせていた少年はそこではじめて無名を振り返った。その腰にはひとふりの刀が差されている。無名は老練した武器職人の眸を眇め、口端を上げた。

「よい刀を持ってきたではないか」
「さっき、刀工が研ぎ直したのを持ってきたんだ。颯音兄は刀を使わないから、俺がもらった」

 淡然と説明をすると、雪瀬は黒漆鞘を抜き払った。流水紋を描く鍔に、水鏡がごとき刀身があらわになる。刀工に研ぎ直させた刀は生来の輝きを取り戻し、いよいよ美しかった。切れ味のよさに至っては言うまでもない。
 ――名刀『白雨』。橘初代華雨が生涯肌身離さず持ち歩いた刀。それは今二百年のときを経て風の恩恵に預かれなかった少年の手に渡る。

「腹はくくれたか」
「一応」
「言っておくが、俺の勝負に情けはないぞ。迷いがあれば命を落とす」

 無名は袖を手早く紐で巻き上げると、脇に置いていた大刀をとった。

「命の保証はしない。それでも?」
「かまわない」

 無名の口元に愉快げな笑みが浮かぶ。
 すっと両者の刀が構えられた。雪瀬は怜悧な眸を上げ、言った。

「――勝負しよう。無名」






 薄墨の闇に桜の花びらがはらはらと散っている。満開であった桜はもはやほとんど花を落としたに近かった。白い花びらが地に折り重なり、風のざわめきに応えて、西へ西へと流れていっている。西とは彼岸の方角。薄闇に消え行く花びらはほんに死者の眠る向こう岸へと流れていっているのやもしれなかった。そう思えるほどに浮世じみた光景だった。
 ――夕刻。
 百川漱はひとり桜の木の影で、まもなく現れるであろう人物を待っていた。誰かは知れぬ。颯音を呼び出すくらいなのだから橘一族の何者か、あるいは内部の者か。その素性を突き止め、場合によっては排除するのが漱の役目だった。何気なく腰に挿した刀の柄に手を添えながら、漱は思案をめぐらせる。
 ふと花の流れが止まる。風向きが変わった。

「おひとりですか」

 夕闇に小さな灯火がひとつ生じる。三つ巴紋のついたそれは提灯であった。漱はそこに立つ人物へ目を凝らす。

「こんな時間に、こんな場所で、どなたをお待ちですか、漱殿」
「……若君」

 現れたのは橘颯音そのひとであった。青年の背後からもうひとり、蕪木透一が顔を出す。まだ幼さの残る顔には何ともいえぬ複雑な表情が乗っていた。腰にはきちんと大小の刀を佩いており、己のあるじを守るように一歩前へ踏み出す。

「……これは驚いたなぁ」

 ふたりの顔を見て、漱はどうやら白を切ることが無理そうであると悟った。なので、さっさと開き直ってしまう。

「扇さまからの言伝を隠していたこと、ばれちゃってました?」
「ええ、ばれちゃってました」

 颯音は呆れた風に苦笑した。

「そもそもあなたの受け取った言伝からして嘘なのです。扇はとても頭のよい鳥でしてね。他人には絶対に言伝の内容を明かしたりしない。もしも内容を聞いてくる輩がいるようだったら、でたらめを話せときっちり弟に躾けられているんです」
「ほーう、まんまとしてやられたわけですか。あやかしだからって少し油断したかな」
「扇ひっくるめ橘一族を騙そうなんて百年早い。――それで? 扇からの情報を断ち切って、どうするつもりだったんです。雑感ですが、あなたは俺を葛ヶ原から引き離し、瓦町に閉じ込めておきたいみたいだ」

 濃茶の眸が探るように漱を見る。
 刀斎の体調不振にかこつけ、屋敷を転々とさせたことを暗に指しているのだと気付いた。そのとおりであって、刀斎が都で人質になっている件を隠し、颯音をあちらこちらへ引きずり回したのは、漱である。紫陽花ではない。漱が考え、漱が実行した。
 颯音が瓦町にやってきた日、漱は弟たちが止めるのも聞かず真っ先に出迎えに行った。この男をさて如何にして飼いならすべきであるか、器を見極めに行った。伊達にずる賢く生き抜いてきたわけではないので、ひとを見る目だけはあるつもりだった。

「そうだね。あなたの見解はとても正しい」

 漱は顎を引き、薄く笑った。

「その鋭さを恐れ、わたしはあなたにどうにか首輪をつけられないものかと思案した。できないと気付いてからは屋敷という檻に閉じ込めた。さながらひとの子が獣にそうするように。――まぁそれもこれもわたしひとりの考えじゃない。黒衣の占術師さまの仰るままに致したことですが」
「『黒衣の占術師』……またか」
「おや、存外驚いてらっしゃらない」
「紫陽花さまのお話の中で、あなたと氷鏡藍が接触を持ったって聞いたとき嫌な予感がしていたんですよ。しかしつくづくいろんなところに出てくる男だね」

 はー、と颯音は息をつく。
 
「――聞いておられましたか、柊さん」

 そこでおもむろに颯音は背後を振り返った。
 木陰から紫陽花の屋敷の家人である男が現れたかと思うと、百川兵たちが姿を出し、ばらばらとあたりに散らばる。彼らに四方から槍を向けられ、漱は早々に両手を上げた。見る間に腰に差されていた刀が奪われ、地に捨てられる。

「たったおふたりでいらしたのかと思いきや。こんな数の衛兵、どこから連れてきたんです」
「紫陽花さまに事前にお話を。あなたが怪しい行動を取っていることを含め」
「隅に置けないひとだなぁ」
 
 苦笑し、漱は首をすくめた。彼のそんなちょっとした動きにもあたりに動揺が走り、兵たちは槍を握る手に力をこめる。

「でも百川の兵たちまで連れてくるなんて。あなたってばひねくれているようでその実とても直球なお方でございますね」
「……意味をはかりかねますが」
「清廉だ、と申し上げているのです。あなたは強い。わたしごときの人間、力にものを言わせて屈服させるくらいわけないことでしょうに。それをなさらず、公前で糾弾なさる。卑怯や不正が本当は大嫌い。――そう。であるから、」

 漱はにっこり微笑み、槍の柄のひとつを手の甲で払った。

「わたしのような卑怯者に騙される」

 瞬間、漱に突きつけられていた槍がすべて颯音と透一へ翻された。四方を槍の切っ先で囲まれる。細く息をのみ、颯音は漆黒に近い眸を眇めた。

「そう怖い顔をなされますな。ふふー聡明な若君はお気付きだったかな。否、ご存じなかったでしょうねぇ。あのね。百川すべて、もうあちら側に寝返っているんです」
「すべて?」
「そう、すべて。最初から」

 兵たちを遠巻きに眺めて、漱は紅鳶の眸を弓なりに細める。

「わたしたちの目的ははなからあなたのみしるしただひとつ。そう、勇猛果敢にして清廉なるその首です。これを斬って帝へ差し出せば、都に囚われた刀斎さまは救われる。わたしたちは朝廷と密約を交わしていた。月詠の動きが遅かったのはこのせいです。わたしたちはね、ずっとずーっと網を張り、時を待っていたのです。黒衣の占術師が毬街へと姿を現し、橘颯音の首を斬れ、そう命じるのを」
「――……そういうわけじゃ、当主殿」

 かさり、と木の葉擦れの音がして青年の背後にそびえる桜の樹からひとりの少女が現れた。艶やかな下駄足が提灯の明かりに黒光りする。

「すまぬのう。稀代の策士はむしろこの男。霊が視えるだけしか能のない、凡庸な娘こそが私よ」

 亜麻色の髪をなびかせた少女――百川紫陽花は大輪の椿を綻ばせた漆黒の袷をはためかせ、さながら椿花の精のごとく漱の隣に立った。老帝などに、と颯音は歯噛みする。

「まこと心苦しゅうがの。さりとて刀斎殿を捕えているのはあちら。おぬしとて弟か妹を人質に取られれば同じ決断をしよう」

 紫陽花は漱の前へ出、女でありながらもよく通る声で言った。

「さぁ当主殿。ぬしができうる選択はふたつにひとつ。すなわち今この場にて我らに投降するか、命を賭して抗うか。賢明なのは前者だと思うがの」
「……颯音さん」

 それまで息をひそめて成り行きを見守っていた透一が不安げに颯音を仰ぐ。
 俯き、前髪が目元に影を作っているせいで颯音の表情は見えない。それにいっそう不安を募らせ、透一はあるじであるひとの袖端をきゅっと握り締めた。

「……そんなの決まっているでしょう」

 濃茶の眸がふと閉じられる。
 あとに続いた声はこもりがちで少し離れていた紫陽花たちには聞き取ることができなかった。近くにいた者は音自体は拾えていたが、異国語のような調べを理解することができた者はまた同様に皆無だった。ただ勘のよい者は背筋がぞわりとあわ立つような感触に身震いし、わずかにあとずさる。刹那、である。無防備な身体を鞭打つような衝撃が走った。
 風、だったのだとわかる。気付いたときには幾人かは後方に転び、たたらを踏んだ幾人かの槍の刃も柄を残してすべて地に落ちていた。

「なっ……!?」

 手元を見て驚いた男が柄を離し、脇差しを抜く前に、颯音は落ちた柄をつかみとって反対に男の腹へと一撃を叩き込む。呻いて男がよろめいたはずみにさらに追撃を加えて倒し、その隙に背後に回っていた別の男から繰り出された太刀を柄で受ける。

「颯音さん!」

 男たちの輪から逃げ出た透一が地面の砂をひっつかみ、颯音と相対する男の目元へ向けて投げた。砂で目がくらまされ、動転した男の太刀を払い、颯音は後ろに二三歩飛びのく。息の乱れはない。着地をしたところで花弁すら舞うことがなかった。まるでしなやかな獣のような動き。怯んだ表情になる残りの男たちから視線を移し、颯音は流れるような所作で桜の木の下で静観を決め込む青年へ柄を投げ打った。寸分違わず柄は青年の腹へ食い込み、彼は呻き声を上げる間もなくその場に倒れる。

「漱さま!」

 場に動揺が走った。橘主従にとってこれを逃す手はない。

「ゆきくん、おいで!」
「戦いますか!?」
「いや、逃げる。こんな大勢いちいち相手にしてたらたまったもんじゃないもの!」

 裾野にちらちらと灯る提灯を見て命じると、颯音は印を組み、呪を詠唱した。風が巻き起こり、足元にうずまっていた花弁を舞い上げて視界を閉ざす。吹雪く風音のせいで足音が途絶える。薄闇に舞う白い花弁が収まったとき、すでにそこに颯音と透一の姿はなかった。