六章、残月と、雲路の果て



 十四、


 きん、と高らかな音を上げて弾かれた刀が宙を舞った。
 茜に染まり始めた空に大きく弧を描いた刀は、ほどなく自然の理に絡め取られたかのごとく垂直に落下して地に突き刺さる。軒下から出てきた黒猫がのんびりと鳴いて、勝敗の鐘の音を告げた。

「――弱いな」

 肌裏にたぎる熱を感じながら無名は打ち合いの末、地に手をついた少年を見下ろした。乱れた呼吸に合わせて肉付きの薄い両肩が上下を繰り返す。汗で張り付いた衣はところどころ切れて血が滲んでいた。
 顎からとめどなく伝い落ちる汗を肩口で拭いやると、雪瀬は重たい顔を上げた。鼻先には刀の切っ先が突きつけられている。

「お前の負けだ」

 極度の疲労に襲われると、身体は動かすのを拒むようになるのだと雪瀬は知った。息を吸い込むので精一杯で声すら出てこない。

「もう気ぃ済んだだろ。俺の太刀は戦場でひとの命を潰しながらそうやって叩き上げていったものだ。お前のご遊戯用の美しい型じゃ話にならん。――仕事に戻る。ここにとどまるって話もなしだ。金も稼げたし、雪で閉ざされるのを待たず、俺はここを出る」

 袖をはしょい上げていた紐を解き、無名はきびすを返そうする。
 翻ったその上着端を雪瀬は両手でつかんだ。

「……もっかい」
「は?」
「もっかいやって! 真剣勝負」
「何を……」

 無名は顔をしかめ、上着にかかった手を振り払おうとする。それだけで危うくよたつきそうになりながら、雪瀬は男の袴裾に慌ててすがりついた。無名が無理やり足を引いたので、引きずられる形になってべちゃっと地面に潰れる。

「見苦しい!」

 地を震わせるような怒声が頭上から落ちた。

「真剣勝負を二回やれってのか! 馬鹿が。笑わせるな!」

 瞬間、左肩に熱い衝撃が走った。反対の足で蹴りつけられたのだと遅れてわかる。それでも雪瀬が袴裾から手を離そうとはしなかったので、無名はますます苛立った風に雪瀬の肩をもう一度蹴りつけ、足を返した。その袴裾になんとか動くほうの手を伸ばす。布をつかむ手はさっきより弱々しくなってしまって、思い通りに動かぬ身体が今はひどく疎ましかった。

「そんなに死にてぇのか」
「……ちがう」
「じゃあなんだ」
「――お前の力が欲しい」

 考えるよりも早く言葉が出た。
 無名は微かに目を瞠る。雪瀬はぐっと男の袴裾を引き寄せた。

「俺はよわいから! だから、力が欲しい。力が欲しい。力が欲しい。もう、あんな風に、ぼろぼろに傷ついたみたいな顔で笑わせたくないんだ。俺は力が欲しい。そのために刀を握るんだ」
 
 冷えた沈黙が返った。
 無名はおもむろに身じろぎをして、腰を上げる。地面にへばったままの態で雪瀬は男を仰いだ。逆光でその表情は見えない。ただ、袖をはしょい直す仕草だけが見て取れた。

「――もっかい、するんだろ」

 ぶっきらぼうに男が言った。
 腰に差していた刀をすっと抜く。

「ただし、手加減はなしだ」

 上等、とようやく雪瀬は少しだけ笑った。




 はじめて刀を握ったのはあれはいつだったろうか。
 記憶に定かでない。
 それでも自分は物心つく頃には身の丈におよそ合わない竹刀を引きずって兄の稽古にくっついていっていた。刀で遊ぶのは楽しかった。取っ組み合いの喧嘩になったら絶対に勝てないような大柄な子供でも、刀なら呼吸ひとつでいくらでも組み伏せることができる。
 だいたい、雪瀬は同年代に比べても、小さくて、ほそっこくて、術師の一族に生まれたのにひとつも術が使えなくて、おまけにその頃はびっくりするとよくびゃーっと馬鹿みたく泣いたので、どこに行っても真砂によく苛められたのだった。でも、そのお化け柳みたいにでかい真砂だって、竹刀を持てば、たやすく地に伏せられる。刀を持った雪瀬は無敵なのだった。

 一度、あんな野蛮なもののどこがそんなに好きなのかな、と兄に苦笑されたことがあった。その頃、兄は剣術の道場には通わなくなり、すっかり弓のほうへと傾倒していたのだけど。じゃあ颯音兄はなんで弓が好きなの、と訊いたら、あれは当てるのが物だからいいのだ、という答えが返った。
 ならば、稽古のたびばったばったとひとを薙ぎ倒し、青あざを作らせている自分はやっぱり野蛮なのだろうか。雪瀬は首を傾げる。……俺、ちゃんと手加減してるんだけどな。

 たぶんその頃雪瀬はわかってなかった。
 武器を持つということ。それをひとに向けるということ。その重み。覚悟。
 何も考えてなかった。だから、一度つまずいたら怖気づいて戻れなくなった。




 ひゅ、と風を切る音がした。耳で聞くよりも早く風の動きを肌で感じて、雪瀬は後方へ飛び退る。刀は上皮一枚をかすめて空を切った。体勢を整える間を与えず、刀が横から飛んで来るので、がぎんと高い音を鳴らせて打ち合わせ、また離れる。
 無名の刀は重い。本人が戦場で命を潰して叩き上げたとのたもうただけあって、型などは無視しためちゃくちゃで荒々しい振り方ではあるものの、それだけに次の一手を予測できない怖さがあった。また、力強い。直線的で単調でありながら、ひとを無理やりねじ伏せる、強さ。それは無名の言ったとおり、雪瀬にはないものだった。
 
 雪瀬は無名にあのあと三度負けた。ぜんぶで、四回だ。ぼろぼろの、ぐだぐだの、目も当てられない惨敗だった。それでも立っていられるのはひとえに打撃がすべて峰打ちだったからだ。
 斜陽はすでに山に隠れ、あたりは青い宵闇に沈みつつある。完全に暗闇になってしまえば、打ち合いを続けることはできない。正真正銘、これで最後なのだと雪瀬にもわかった。

 じりじりと無名との距離を測りながら反撃の道を探す。
 身体はどこもかしこも打ち据えられてぼろぼろなのに、感覚は頭のてっぺんから指の先に至るまで鋭利な刃物のように冴え渡っていた。外と己の内とが繋がっている錯覚すら覚える。それくらいに、さやめく風の音、葉の動き、淡い日の光、すべてが自分の内で脈打つ鼓動と変わらぬもののように感じられた。
 ――風術師とは天地と声を交し合えるもの。
 落ち着いた女性の声が甘い乳の匂いと一緒に蘇った。小さな自分の身体をぎゅっと抱き締めながら耳元で語りかけている、それは母の声だった。天地と声を交わしあうもの。森羅万象への通り道を持つもの。術師でなくとも、その感覚は流れる血が覚えている。――だから、雪瀬は風を読む。風とはその場を支配する時であり、ひとの息であり、あるいは草木の息吹であり、天地万物の声であった。『彼』は問う。何を望み、そのために何を捨てるのか。あるいは何を厭い、何に殉じるのか。『彼』が問うので、雪瀬はこたえる。こたえは外のどこにもなく、ただ己の中にだけある。

 無名の刀が唸る。正面からかち合わせて同時に離れた、そのとき男の拍が微かに乱れるのを雪瀬は感覚で捉えていた。好機はいまなのだと身体ぜんぶが言う。踏み込んだ。もう――、戻れないのだとわかった。
 雪瀬は男の懐へともぐりこみ、刀を薙いだ。









 さわさわと。さわさわと。
 風の音がする。
 何もない、真っ白な空の下を風だけが吹いている。初夏の爽やかさを含んだ、不思議と懐かしい匂いのする風だった。髪を撫ぜ、瞼の上をさわりと吹き抜ける。

『いた、雪瀬。みーつけた』

 ふと穏やかな、懐かしい声が蘇る。
 雪瀬は風に抱きしめられるのを感じた。ぎゅうっと力いっぱい、幼子がそうするように背後から抱きすくめられる。

『よかった。ずっと迷子になってたから、心配してたんだ。やっと見つけた』

 苦笑する声が背中を通して伝わる。自分を抱き締める懐かしいその腕を。背中に触れる柔らかな髪を。あたたかい体温を。思い出して振り返ろうとしたとき風は。空の果てのほうに吸い込まれて消えた。









 どうと重低音を響かせて、大きな身体が倒れる。
 それを眇め見、雪瀬は刀を鞘に納めた。――と思ったら、そこでふつっと視界が暗転して、気付けば地面に蛙みたいに伸びていた。
 ぱちぱちと下手な拍手が頭上から降る。

「――勝負あったな。肩、壊したんか?」

 濡れ縁から降りてきたのは小さなわら人形である。
 平気、と答えつつ、身体のほうは少しも動かないので素直に伸びておく。
 
「……見てたの?」
「途中つまんなくなって寝てたけどな。ふふん、いい男じゃねぇか。真剣勝負。最後まで一歩だって勝ちを譲りやしねぇ。きっと今頃夢の中で悔しがってるぜ」
「無名っていう。これからあなたたちと行動する男だから顔覚えといてやって。目を覚ましたら、話をする」

 あいよ、と軽い調子でうなずいてから、空蝉は少し沈黙した。

「……いいんか」
「何が」
「俺は金がもらえるってんならなんでもいいけどよ。お前はこれで、いいんだな?」

 雪瀬は虚をつかれた風に目を瞬かせ、それから濃茶の眸を苦笑に細めた。

「いい。考えて決めたから、後悔はしない」





 梟が遠くでもの悲しげに鳴いている。
 夜は更け、ざわめく木々がまだ少し雨でぬかるんだ大地へ濃密な闇を作る。踏み出そうとすると、足元でぱしゃんと軽い水飛沫が上がった。水たまりに足をつっこんでしまったのだ。透一は慌てて泥濘から足を引っこ抜くと、先を歩く颯音を追った。
 夜陰に紛れるようにして移動し、蔓草が絡む倒木をまたいで急坂を降りる。そのとき、木々の間からちらちらと揺れる明かりが見えたので、透一は颯音の袖を引いた。彼は心得た風にうなずいて、すっと前方の茂みを指差した。
 腰を落とすと、ほうぼうに伸びた羊歯がちくちく衣越しに身体を刺した。透一は葉や枝のせいで傷だらけになってしまった手の甲をもう一方の手で包み、膝を抱くようにして息をひそめる。

 ほどなく馬の蹄の音が近づいてきて、少し先にある山道を幾人かの男たちが通った。松明の炎が頭上のほうで動く。見つかりませんように、どうか見つかりませんように。透一は祈ることしかできない。
 ――と、ひやりとした水滴が葉を伝って首筋に落ちた。

「……うみゃっ、」

 思わず悲鳴を上げかけ、慌てて口を両手で塞ぐ。悲鳴自体はすんでのところで止まったものの、腕を動かした際に、側近くに伸びていた草を大きく揺らしてしまった。

「誰だ!」

 音を聞きつけ、男のひとりが誰何する。透一は恐怖から震えてきそうな身体をなんとか颯音の袖を握ることで抑えこむ。

「誰だ! 名乗りを上げよ!」

 男は松明を掲げ、茂みを分け入ってくるようだった。それを見ていた颯音が不意に何がしかを唱え、立てた指を折る。近くの樹で休んでいた栗鼠(リス)が横殴りの風を受けてぼとりと樹から落とされ、そさくさとまた樹の上に上っていった。

「――なんだ。獣の子か」

 男は呟き、一度あたりを見回してからまた山道のほうへ足を返した。その背を見送り、颯音と透一はつめていた息をほうと吐き出す。行きましたね、と囁き、透一は山道のほうへやっていた視線を戻した。

「だけどあのひとたち探すってより、むちゃくちゃ殺るって目ぇしてますよ? こわぁああ」

 今になってようやく震えが襲ってきた身体をぎゅっと抱き、透一は沈黙している颯音のほうをうかがった。

「颯音さん? どうしましょうか、このあと。これじゃあ関所はまともに通してもらえないと思うし……」
「うん。俺も今考えてた。百川漱なら、関所はとっくに封鎖していると思うんだよね」

 それからまたしばらく考え込むように瞑目し、颯音は仕方ないなと呟いた。夜闇のせいで漆黒にも近い色に染まった眸が開かれる。

「このまま、山道を突っ切ろう」
「ほっ、本気ですか!?」

 できないではないが、何せ冬の山だ。隣接した土地とはいえ歩き通したって葛ヶ原まで一日二日では済むまい。万一にも迷ったら遭難しかねない……、と顔を蒼白にした透一にしかし颯音はいたって軽い調子でいけるよ、と返した。

「耳を澄まして。風の音が聞こえるでしょう。そっちが葛ヶ原だ」

 何かとても断定的に言うが、一生懸命耳をそばだててみても透一にはどこから風の音が吹いているかなんてわからない。だけど、颯音には何かがわかるようで、澱みのない足取りで歩きだす。

「……あのう、一個聞いていいですか」
「何?」
「あなたっていったい何者なんです?」

 きょとと珍しく面食らった風に濃茶の眸が瞬く。
 やがて不敵な笑みとともに返ってきた答えは簡素かつ揺るぎなかった。

「橘宗家当主さま。そしてきみの主人」

 ――確かに、透一にはそれで十分なのである。






 扇は勢いを上げながら空を翔けていた。
 暁が内通者だった可能性、その彼が瓦町に向かったかもしれないからくれぐれも注意するように、との雪瀬からの報せを颯音に伝えるためである。何しろ火急の報せなので、一度も休息を入れず、一晩翼が折れんほどに飛び続けた。そうしてようやく瓦町の関所が見えてくる頃には疲労も頂点に達していた。それをなんとか精神だけでねじ伏せ、扇は翼を動かす。
 ふと視界に何か違和感のようなものを感じたのは、瓦町に入った直後のことだった。下方へ目を落として、ああとすぐに理由に気付く。関所の前に立つ兵たちが常の倍くらいに多いのだ。――はて、何かあったのだろうか。扇は速度を少し緩める。颯音たちが今晩漱を糾弾するのは聞いているが、もしや何か不測の事態になったんじゃあるまいな。

 こんなときに、と舌打ちしながら扇はひとまず百川諸家へ向かうべく空中で方向転換する。だが刹那、ひゅうんと風を擦り合わせるような独特の音を聴覚が捉えた。背筋がぞっとあわ立つ。反射的に身を翻そうとするも、その前に身体に重い衝撃が走った。
 矢で翼を射抜かれたのだと遅れて理解する。なんとか羽ばたこうとするも、折れた翼は動かすだけで悲鳴を上げ、どころか矢の重さで身体はぐんぐんと地面へ落下していく。地上を振り仰げば、桜の木の下で弓を下ろしている少女が見えた。――百川、紫陽花……!

 その名が浮かんだとき、扇は地面に激突した。