六章、残月と、雲路の果て



 十五、


 一昼夜休んでは歩くのを繰り返した。
 追っ手から隠れながらであったので、なかなか手間取ったが、それでも道程の半分はいったのではないだろうか。張り出した枝をあまり音を立てないように注意深く払いながら、颯音と透一は歩く。本道を避け、獣道に近い道を山歩きをしたせいで、お互い、袴は膝が見えるほど無残に裂かれ、足や腕には細かな傷を数え切れないくらいこさえて、それはひどいありさまになっていた。

 きゅるるるる……、としかしこういうときにも元気よく活動をしている透一のお腹が薄情な音を立てる。背と腹がくっつきそう、というのを目下体感中のお腹を押さえ、透一はうーと眉間に皺を寄せる。
 いちおう、物を入れてはいる。岩の間からちょろちょろ沸いた水を飲んだり、草の芽を食べたり、あとは土の中でお休み中の幼虫とか幼虫とか幼虫とか。
 火を焚いているのが見つかるといけないので、もちろん生だ。透一は最初かなりの抵抗があったが、当主さまのほうはそういうのはさっぱり気にしない性質らしい。橘宗家の嫡男として育てられたひとが幼虫を食卓に出されたことなどないはずだったが、そういえばこのひとは味音痴というすばらしい特技があったのだと透一はなんとなく思い出した。味音痴と虫も平気で食べられるのとは別問題だと思うが、もうこの際どちらでもよい。

「……そういえば颯音さん」

 先を歩く青年の腰に何気なく差された懐刀に気付いて、透一は囁きかけた。

「それ、五條紋がついてますよね」
「ああ刀? そうだろうね」
「薫ちゃんにもらったんですか?」
「葛ヶ原を出る前にね。借りただけだけど」

 ふぅん、と透一はうなずく。
 颯音は普段ほとんど刀を携帯しない。その代わり、紙を切るなどのちょっとした手作業に必要な小刀を腰に差しているのだが、今はそれが五條紋の懐刀に取って代わっていた。

「早く薫ちゃんに会いたいですねぇ」

 呟くと、返事が返って来なかったので、「あれー?」と透一は笑った。

「“年明けも みな揃うことの しあわせよ”じゃないんですか?」

 げほっと前を歩くひとが唐突にむせた。
 颯音は透一に恨みがましそうな視線を送る。

「……ゆきくん」
「ハイ」
「――見たね?」
「俳句の練習帳なんてオイシイものを棚の奥に隠した上、『無用』なんて紙を貼り付けておくあなたが悪いんです」

 えへ、と悪びれずに笑うと、問答無用で頭をはたかれた。
 
「痛っ!?」
「棚の奥に隠した上、『無用』と貼り付けまでしたブツを開いた君が悪い」
「なー!? ひどい! 僕、颯音さんの歌、大好きなのに! 薫ちゃんだって笑ってましたよ! 特に『柚と風呂』のあたりのもはや三級としか思えない洒落なんて――」

 ごんっ。
 
 さらなる追撃を受けて、ついに透一も口をつぐむ。
 涙目で見上げて、「オーボーだぁ」と訴えると、颯音は涼しい顔で「三級の洒落で悪かったね」と言った。――訂正。涼しくなんかない。黒々と渦巻く底知れない何かを背後に感じる顔だ。……やっぱり『薫ちゃんだって笑ってました』はまずかったか。

 そのとき、急に背後の木々に止まって眠っていた鴉がばたばたと騒ぎ出した。
 生来の勘のよさで足を止めた颯音が背後を視線を投げやる。

「ゆきくん」

 前へ出ようとすると邪魔だとばかりに後ろに押し返された。
 草の葉を鳴らして、暗がりからひとりの青年が顔を出す。その横顔に月光が射す。濃茶色の眸を眇め、やがて「――暁?」と颯音は男の名を呼んだ。
 現れたのは、暁と一頭の馬だった。




「話はわかりました。それなら、ついてきて下さい。葛ヶ原へはこちらのほうが近い」
 
 瓦町が実は自分たちを裏切っていたこと、今彼らから逃げている最中なのだというようなことを透一がかいつまんで説明すると、暁は物分りよくうなずき、すぐさま先ほどとは逆の進路を取った。透一はあれれと首を傾げる。

「でも暁さん、北はあちらですよ。こっちじゃ葛ヶ原から遠のいてしまうんじゃ……」

 星を見れば、ある程度方角というのは測れる。
 暁の向かう方向は葛ヶ原の間逆だった。

「そうですね、方向の上ではそうなりますが。しかしこちらの道のほうが最終的には近道です」
「――でも、」
「颯音さま」

 なおも食い下がろうとした透一から颯音のほうへと目をやって暁は言った。

「どういたしますか。私と透一さま、どちらを信じます?」

 当主に向けるにはずいぶんと意地の悪い問いかけであった。
 透一はむっと顔をしかめる。だが、颯音のほうはほんの少し眸を眇めただけで、思案げに左と右とを見比べたあと、「暁の言うとおりにしよう」とこちらに向けて言った。颯音がそう言うのならば、透一に異存はない。はい、と素直にうなずき、ふたりを追う。

 しかし妙であった。ここに現れた理由について暁は、颯音たちを迎えに行くよう雪瀬に命じられたためだと語った。また、真砂を殺めた内通者が見つかったのだとも。それが桜だというのも透一にはにわかに信じ難い話であったが、それはおいおい葛ヶ原に帰ってから考えるとして、雪瀬がそんな言伝くらいに暁を遣わすだろうか、という疑問がまだ残る。扇で事足りるし、それに。
 透一は葛ヶ原を出るときに雪瀬に言ったのだ。この地を守ることを考えろ、そう何度も念を押したはずだ。もしも透一の意図を雪瀬がきちんと汲んでいるのであるなら、瓦町関連のことは透一に任せるだろうし、貴重な駒をそうそう外に出したりはしない。今ただでさえも葛ヶ原は人手が足りずに困っているところなのだから。

 そのあたりの事情を鑑みず、雪瀬が暁を送ってくるとは透一には到底思えないのだった。だとしたらこれは暁の単独行動? でも何のために?
 歩くほどに疑念は膨らむ。同時に透一の中では得体の知れない不安が頭をもたげ始めていた。

「――……暁さん」

 どんどんと遠ざかっていく北極星を仰ぎ、透一はついに覚悟を決めて口を開く。

「道、ですけど。本当にあってますよね?」
「……どういう意味でしょう?」

 ややあってこちらの問いをいぶかしがるような声が返った。図星を指されたというよりは純粋に不思議がっている様に近い。とたん罪悪感のようなものに駆られ、決めたはずの覚悟が萎えかけてしまう。

「いえ、深い意味は。ただ僕、心配で」
「ご安心ください。道は間違っておりませんよ」
「そう、ですか……」

 半ば押し切られた形になって、透一は目を伏せる。
 暁の言動におかしいところはない。だとしたら、自分が疑心暗鬼に陥っているだけなのだろうか。また臆病者の自分が顔を出した?
 ――ええい!
 もう考えるのやめ!と透一は自問自答を放り投げ、代わりに自分の信頼する少年にすべてを賭けることにした。

「それじゃあ暁さん。ひとつ聞かせてください。雪瀬は本当にあなたにここに行くよう命じたんですよね?」
「何を訊かれるかと思えば。ええ、もちろんですとも」
「――何と言って命じました?」
「はい?」
「隠しているようだけど、暁さん、あなた肩の動き方がおかしいですよね。怪我をなさっているんでしょう? 申し訳ないけど僕、そういうのには目ざといんです。生傷絶えない三兄妹に十五年間付き合ってきましたから。――暁さん。雪瀬は、僕の知っているあのお人よしは、いったい何と言って、怪我をしているあなたを、ひとりで、ここに送り込んだんでしょう」

 前を歩く青年の肩がぴくりと動いた。
 透一は黙って青年の返答を待つ。

「まるで私をお疑いになっているような物言いだ」
「そんなことは」

 言いかけ、透一は息を呑む。
 振り返った青年の手に握られていたのは月光に輝く白刃、だった。

「――まさかあなたさまが先に気付くとは思いませんでしたね」

 薄く、笑う。

「そうです。真砂さまを殺した裏切り者はこの私!!」

 刃が煌く。心の臓が凍りつくようだった。颯音さんっと血を吐くような叫び声を上げて透一は太刀筋へと躍り出る。瞬間、首が熱く鞭打たれたのを感じた。血管のどこかを斬られたのだとわかる。いっそ馬鹿みたいに吹き出す鮮血を眺めながら、自分の身体が傾いていくのを透一は意識の端で捉えた。

『きみは橘宗家本流なんだから、』

 脳裏によぎった言葉はいつかの。髪から雫を滴らせながら、大人げなく馬を睨みつけている少年へ向けたもの。

『葛ヶ原から出ちゃだめ。颯音さん不在の今、葛ヶ原を守るのはきみの役割なんだよ?』

 そして。
 そう、そして。

『きみたちを守るために僕らがいる』