六章、残月と、雲路の果て



 十六、


「ゆきくん!」

 ゆっくりと血を流しながら倒れていく少年を見たとき、目の前で何かが砕け散ったような錯覚にあった。地面にうずくまる、透一の小さな身体の前に跪き、颯音は愕然と自分の前に立つ青年を仰ぐ。月を背に、赤い返り血を浴びて立つ暁には普段とは異なる、ぞっとするような凄みがあった。

「驚愕、動揺――、そしていかがですか絶望の味は」

 口元にうっすらと笑みすら湛えて暁はこちらを見下ろす。

「すべてあなたのお父上が味わった辛苦だ」
「お前は……」

 青年の笑みの意味に瞬時に気付いて、颯音は言葉を失った。
 やられた、と痛恨の念が広がる。

「そうです。月詠と通じていたのはこの私。――あぁ、何なら仔細から述べて差し上げましょうか? あなたが隠した空蝉の居場所を月詠に教えたのも、自分は疑いを免れるために彼に斬られたようなふりをし、真実に気付いた真砂さまを撃って崖から突き落としたのも、すべて私がやったことであったと」

 答える側はあっさりとしたものだった。
 透一の身体を引き寄せ、「どうして」と颯音は歯噛みする。

「“どうして”? どうしてと訊かれますか!」

 眸を細めたかと思うと、暁は額に手をあてがって弾けるように笑い出した。喉を震わせ、眦にうっすら滲んできた涙をぬぐう。森に木霊する笑い声はもはや常人のものとは思えない。

「……父を討った。俺のことを恨んでいたの?」
「さすがのあなたとて気付かなかったでしょう。私が、あの日からこうすることを何度夢見たか。残念でしたねぇ颯音さま。あなたは二度と葛ヶ原には帰れない! 何故ならばあなたはここで、お父上と同じように、命を落とすのですから!」

 暁が手を振るや、ばらばらと百川の兵たちが出てきた。その中にはかの百川漱の姿もある。誘導をされていたのだ。颯音は彼らに一瞥を送ると、透一の身体を抱え、印を組んだ。

 緊張が走る。先の二の舞は踏むまいと思っているのだろう、警戒した様子で百川の兵たちは槍を構え、離れた場所からこちらの隙をうかがう。ひぃふぅみぃ、と颯音はすばやく兵の頭数を数えた。ぜんぶで二十と少し。ひとりならなんとか煙に巻けたかもしれないが、透一を抱えた状態でもそれは可能だろうか。
 兵を牽制しながらそんなことを考えていると、不意に袖端をきゅっと握り締めてくる手があった。意識は前方へ向けつつ、横目をやれば、焦点の合わない灰色の眸がそれでもこちらを探そうとしているのがわかった。ゆきくん、と呼びかければ、馬鹿ですかという苦笑い混じりの声が返ってくる。

「……らしくないです。勝敗の決まりきった勝負をするなんて。らしくない」
「――決まりきった、なんて言わないでくれるかな。気分が萎えるから」

 透一の笑っている意味がなんとなく理解できてしまった颯音は、少し憮然となって呟いた。

「それに勝つよ、俺は」
「ここを切り抜けたってまた追っ手がきます。それを切り抜けても、また。きりがない。そのすべてに、勝ち続けるっていうんですかあなたは」
「勝ち続ける。それしか道がないんなら」
「……だから、馬鹿だっていってるんです」

 透一は目を細め、顔だけを動かして颯音を仰ぐ。

「あなたは葛ヶ原へ帰るんです」
「ゆきくん」
「薫ちゃんや柚ちゃんや雪瀬のね、もとに帰るんですあなたは。帰らなきゃならない。あなたは皆の“風”だから。あなたがいなくなれば、すべてが終わる。まだ、終わらせるわけにはいかないんです。そのために僕を捨てればいい」

 予想はしていたものの、いざ面と向かって言われればやっぱり動揺してしまう。是とも否とも言わず颯音が固く口を閉ざしていると、透一はどうしてこれしきのことがわからないのかな、とでも言いたげに息を吐いた。
 喘ぐのと一緒に、ね?と駄々っ子をあやすように言われる。たまらない気分になってきて、颯音はこぶしを握り締めた。

「――……それがきみの望み?」
「いいえ、のぞみじゃない……、わがまま、です。たまには僕の言うことも聞いてくださいよ」

 眸にからかうような色が乗る。口端に薄く笑みが浮かんだところで、灰色の眸は閉ざされた。袖をつかんでいた指先が落ちる。か細く息はしているものの、意識は途絶えてしまったらしい。
 腕に重くもたせかかった身体を抱えて、颯音は「……そう」とひとり呟く。
 その間も止まることなく流れ続けている鮮血は、この身体から命が流れ出ていっているしるしだ。置き去りにしなくとも、このまま担いで運んだところで、遅かれ早かれこの少年は死ぬのだと颯音にはわかった。颯音はそれを見取っている自分の姿が鮮明に想像できた。自分はきっと泣きも笑いもせず、遺体を置いてひとり葛ヶ原に戻るのだろう。そして父や母が眠るあの墓地に、小さな墓をひとつこさえるのだろう。――できる。颯音は、そういうことを平然とできる。とても現実味を帯びた、腹立たしい想像だった。

「――……この子を」

 水を飲んでいないせいでからからの喉から紡がれる声は自分のものでないかのようだった。颯音は印を解いて、それから透一の身体をそっと地に横たえた。

「この子を助けてあげてください」

 羽織を脱いで懐刀で切り裂くと、止血点を探してそこを布きれで結ぶ。血を失って冷たくなった身体に羽織をかけ、颯音はその隙に四方から向けられた槍と、その奥にたたずむ百川漱を仰いだ。

「あなたは、欲しいのは俺の首だと言った。なら、この子は助けてください。たとえ助かっても、この子は何もできません。術が使えるわけでもなければ、あなたにひと泡吹かせるだけの胆力もないでしょう。何の役にも立たない、そういう子です」
「そういう何の役にも立たない子を、あなたは助けてあげたいの?」

 颯音は苦笑した。

「役に立たないけど、すごく可愛い子なんです」

 なんともくだらないことをしている自覚があった。
 一昼夜に及ぶ山歩きで自分は頭がおかしくなったのだろうか。
 このような真似を、大真面目にするなど。
 ――けれど透一を、こんな葛ヶ原でもない、冷たい冬山で、まるで飢えた鳥がそっと冷たくなるように寂しく死なせたくなどないのだった。あのくるくるとよく動く表情の人懐っこい気質の持ち主がこんな場所で血を枯らして死ぬなどあまりにもふさわしくないではないか。あまりにも、あまりにも、むごいではないか。

「まぁ、悪くないかな。あなたに暴れられるとそこの兵が少なくとも幾許かは命を失うことが避けられないでしょうし。その死にかけの子供ひとりの命なら安いもの」
「……必ず、助けると誓えますか」
「瓦町一の名医を呼び寄せ手を尽くさせよう。ご心配なく。わたしは卑怯者ですが、橘一族と違って嘘吐きじゃあないので」

 くすりと品よく笑ってみせると、漱は「捕えて」と兵たちに命じた。それでもはじめ警戒しきった顔つきで遠巻きに威嚇を続けていたが、颯音が両手首を差し出したのを見取ると、そさくさと縄を結び始める。

「万が一にでも印を組まれるといけない。念のため右手の……そうだな。人差し指を切り落として」

 漱はちらりと颯音を見るなり、すげなく命じた。
 
「ひ、人差し指でございますか……?」
「そうですよ」

 たじたじとなった兵のひとり――柊に漱はうなずいてみせる。

「風術師というのは油断なりませんからね」

 最後の台詞は颯音に向けたものでもあった。
 颯音は目の前の男へ向けて手を差し出す。
 双方に促される形で、柊はとりあえず刀を抜いてみるものの、やはり怯えきった様子でかたかたと刃を震わせている。

「あ、あの……」
「貸して」

 ぐずぐずしている男から、颯音は刀をもぎ取る。一瞬自分の手を見た。そしてひっと息を呑む柊の目の前で颯音は指を切り落とす。
 鮮血が見る間に吹き零れる。刀に跳ねた血を片手だけを使って若干不恰好に袖で拭き、颯音は柊に刀を渡す。

「これでいいでしょう。早く蕪木透一を運んで」
「は、」
 
 柊は自分の主人を忘れて叩頭し、透一のほうへと駆けて行った。兵たちに抱き起こされ、背負われる少年を目を細めて眺め、颯音は縄を持って待っていた男へと今度こそ手首を差し出す。男はしばし困惑した風にこちらを見つめ、それから首を振って、縄を結んだ。


 


「これでようやくあなたさまの仇討ちも叶いましたね」

 引き立てられる青年を呆然と見つめている暁へ、漱は静かに言葉をかけた。聞こえているのかいないのか、暁は心ここにあらずといった様子でその場にたたずんでいる。だが、颯音の姿が小道の暗がりに消えそうになるにいたって、茫洋としていた眸が急に焦点を結んだ。暁は猛然と駆け出す。

「ちょ、暁さん、」
「離し……離してください!」

 止めようとした漱の手を振りほどき、暁は叫んだ。途中泥に足を取られて何度も転びかけそうになりながらそれでも走って、なんとか列の後方へ追いつく。行く手を阻もうとした兵を突き飛ばして、暁はついに颯音の腕を捉えた。そして、その胸倉をつかみ上げた。

「なんですかこれは……」

 血を吐くように声を絞り出す。暁は腹の底から沸きあがる何かに突き動かされるがまま叫んだ。

「なんなんですかこの茶番は!? ふざけるな、あなたは、いったいなんだっていうんです! 今さら、今さらこんな始末のつけ方など認めない! 偽善者め! 八代さまを見殺しにしたのなら、透一さまだって同じように見殺しにしてくださいよ! こんな、中途半端に……、こんなこと許さない! 私は認めない!」

 気付けば涙が頬を伝っていた。どうして、泣くのか。何が悲しいのか。
 橘颯音は暁の罠に嵌まって死ぬのに、ずっとこの光景を夢見ていたはずなのに、何故、何ひとつ満たされない。

「――なら、許さなければいい」

 声は静謐と頭上から降った。
 颯音は身じろぎし、暁を自分から引き離すようにする。

「一生、許さなければいい。そして、憎んで憎んで憎み尽くせばいい。死ぬんじゃないよ、暁。俺はそんなの、許さない」

 目を見開き、暁はいやいやするようにかぶりを振る。
 けれど颯音は。幼い頃暁の毛を引っこ抜いて戯れた“若君”は首をすくめるだけで暁など振り返りもせずに歩き出してしまうのだった。



「あーあー素直じゃないなぁあのひとも」

 颯音を連れた一団がいなくなるのを見送ると、漱は苦笑気味に呟いた。
 暁は目を瞬かせ、問うような視線を漱へと投げかける。

「そもそも、ひとを見捨てられる腹の持ち主ではないでしょうに。あのひとは」
「どういう……意味です?」
「おや。あなたときたら十九年もあのひとのおそばにいたのにそんなこともわからないの? 橘颯音はすごぉく情が深いじゃない」

 嘘だ、と暁は呻いた。
 嘘だ嘘だそんなわけがない。そんなことがあってよいわけがない。橘颯音は、冷たい。温情なんて欠片もひとにかけない、そういう人間だ。でなければ、自分はいったい何のために――。
 そこまで考えて暁はやにわに立ち上がった。

「お待ちください、颯音さま!」

 聞かなければ。問いたださなければ。半ば悲鳴のような叫び声を上げ、暁は颯音の消えていったほうの方角へ走り出そうとする。だがすぐに木の根に足を取られて転んでしまった。水たまりに頭から突っ込み、泥まみれになりながら、暁は低く呻く。颯音の消えていった方角を見、背後の漱を見、もはやどうすればよいかもわからなくなって暁はそのどちらでもない崖に飛び出ようとした。だがそれを伸びてきた手が止める。

「逃げるんですか」

 耳元で囁かれた声は、いつもの温和な青年とは思えぬほど冷たく厳しい。漱は暁の身体を引きずって、残っていた兵に四肢を拘束させる。――いったい、何を。強張った表情になる暁の顎をとり、漱は言った。

「だめですよ。死なせて楽になんかしてやりません」
「なっ」
「だって、あのひとはこれからこの何倍もの恥辱と苦痛を味わうのだから。目をそらしてはならない。耳を塞ぐことも逃げ出すこともこのわたしが許さない。――あなたはこの結末を見届けなければならないんです、暁さん。だってすべてはあなたが蒔いた火の種なのだから。これはその代償。これから始まる一部始終、すべてを見届けなさい。あなたにはその義務がある。ねぇ――」

 裏切り者、と漱は冷笑して暁に耳打ちをした。