六章、残月と、雲路の果て
十七、
その晩は夜に強い嵐が来たせいで、朝日が射し込む頃には狂い桜の花はすべて落ちてしまっていた。紫陽花は桜の樹の根に落ちた折鶴を拾い上げ、ふぅと物憂げな嘆息をこぼす。目元が隠されているためその表情はうかがい知れないが、少女の背にはどこか疲れ果てた老婆がごとき気配が漂っていた。
「桜も皆散ってしまったのう」
ぽそりと呟き、紫陽花は樹をまっすぐに見上げる。風は止んでいた。折り重なった花片を踏みしだきながら、――ほんに憐れな皇よの、とかつてこの桜の木の下で語り合った日の青年のことを思い返して紫陽花は独語した。
*
幾日ぶりに見る橘颯音の姿は以前よりもずいぶんやつれて見えた。何せ、野山を一昼夜彷徨った挙句、漱によって捕らえられてからは式ノ家の奥座敷に幽閉されていたのだから、当然ともいえる。
「ご加減はどうかの?」
それでも紫陽花が訊いてやると、颯音はそっけなくお茶がまずいですと返した。
「茶か」
「お茶です。うちの雪瀬はもっとうまく淹れますよ。思うに、百川の方は湯を注いだ後茶葉を寝かしすぎるんじゃないですかね。だから苦い」
颯音がこれみよがしに滔々と語るものだから、今まさに湯飲みを運んできたところであった使用人は気分を害したらしい。差し出しかけた湯飲みをお盆に戻そうとするので、颯音はくすりと笑って、いいよありがたくいただきますよ、と湯飲みを受け取る。その右手は今は包帯でぐるぐる巻きにされている。
紫陽花は、青年が身にまとうていた風がひどくか細くなっていることに気付いた。まるであるじの命運を知っているかのようだった。紫陽花がそちらに気を取られている隙に、隣で受け取った湯飲みをすすっていた漱が口火を切った。
「もうおおかた察しておられるんでしょうけど。今日、わたしたちがここへ来たのは他でもありません。あなたの処遇について伝えに参った」
「――であるが、その前に」
漱の弁を遮るように、紫陽花は手を上げる。
背後で不満そうな気配がしたが、ひとまずこちらに譲ったらしい。使用人に視線をやると、心得た風に部屋の中にいた者を外に出す。中には颯音と紫陽花と漱、最小限の護衛である柊が残るだけになった。
紫陽花は帯元から一本の懐刀を取り出し、颯音の前に置いた。
「おぬしも都までの道中、晒し者となるのは辛かろう。私とここの漱は幼少の頃、目の前で父と母が処刑されるのを見ての。幼すぎた私はともかく、こやつなどは、一時期物も食えぬわ寝ることもできぬわひどいありさまだった。胸が痛うてたまらんかったよ。だから、これは私なりの情けと思え」
わざと並べ立てた。案の定、幼少時の恥をあげ連ねられた漱は押し黙るしかできなくなり、代わりに紫陽花は恨みがましい視線を背後から容赦なく浴びせられた。颯音は尋ねる。
「ここで自害せよと?」
「介錯に柊をつける。柊はこれでこの家に古くから仕える大切な家人じゃ。異存はなかろ」
話に名が上ったことで背後にいた柊が背筋を正す。
是とも否とも言わず、颯音はしばらく感情のない眸で目の前に置かれた刀を見つめていた。やがてそうしていることに飽きたのか、おもむろに刀を取り、鞘を引き抜く。
磨き抜かれた刀身があらわになる。
颯音はうっすら目を細め、それからその刀を。紫陽花めがけて振り払った。
「紫陽花さま!!」
飛び出た柊が刀の鞘で懐刀を受け、声に驚いて駆けつけた護衛たちが颯音を羽交い絞めにする。槍の柄に叩きつけられ、懐刀が落とされた。さらには身体を畳に押し付けられ、もはや動けないと悟ったのだろう。抵抗を止めて颯音は軽く舌打ちした。
「あなたを人質にして、ゆきくんと逃げようと思ったのに」
「この期に及んでなんともふてぶてしいことよの」
紫陽花は暗い眸で呟く。
「ええ、往生際悪いんです俺」
畳に押し付けられたままの格好で颯音は嘯いた。
「どうぞ、刀でも何でもくれるんならください。次は失敗しませんから」
「――安い情けなどかけるなという意味か?」
「へぇ、“安い情け”だと思ってたんですか?」
颯音は濃茶の眸を細めて薄く笑む。逆境に追いやられるほどに鋭利さを増す眸は本当に獣か何かのようだった。これは飼いならせる器でないのう、と以前と同じようなことを呟き、紫陽花は首を振った。
「あいわかった。では――」
「皆の者聞け。伐採した樹木を合わせて十字となし、それを広場に立てかけよ。時刻は明日の昼九ツ。磔刑に処す。絶命したのち遺体は臓腑の欠片まで山犬に喰らわるように」
紫陽花は瞠目する。
隣の優男から滔々と紡ぎ出された言葉は耳を疑うほどに恐ろしかった。
――磔刑とは極刑とも称されるほどの、数ある刑罰の中でも特に残虐なものだ。木柱に受刑者を杭で打ちつけた上、肩から脇までを何十回と槍で突かせる。最後に喉を突かれるまで受刑者は死ぬに死ねず痛みにのた打ち回るのだ。
この男は。
よもや自分の親と同じ方法で橘颯音を処断する気か。
それは泰然とした紫陽花の背を冷たくさせた。
しかし、それよりも。
「待て! おぬし、漱……!」
「なんでしょう紫陽花。きみの女々しいわがままはもう聞いた。いい加減、わたしの言うことを聞いて欲しいんだけど」
漱は冷たく言い放ち、数々の問いたげな視線を振り切ってきびすを返した。それを追って部屋を出ながら、紫陽花はほんの刹那、そこへ座る橘颯音へ目をやる。しかしあちらは無表情に正座をしているだけで、心を凝らして見つめてみたところでやはりその横顔からは何の感情も読み取ることはできなかった。
*
「漱! 漱!!」
何度も叫んでようやく足音が止まった。
男の背を捕まえ、紫陽花はきっと顔を振り上げる。
「瓦町自らの手をもって磔刑など、明らかな越権行為じゃ! 朝廷に使いを、何故出さぬ漱!」
「越権行為?」
何を馬鹿なことを、というように漱は鼻で笑った。
「『橘颯音の首を差し出すように』と命じてきたのはあちらだ。その首がついてようがとれてようが構わぬこと。『首』は『首』なのですから」
「そのような屁理屈! 馬鹿め、とち狂ったか。あやつは都に運ばれ、正規の手順を取って裁かれるべきじゃ」
「――相変わらずの正論武装ですね」
返した漱の声は冷たい。
「さっきあーちゃんだって言ってたじゃないですか。都まで晒し者にされるのはつらかろうって。あいにくとわたしはね、都の狸どもに手柄の分け前を与えてやる気はないんです」
「漱!」
紫陽花は諌める声を出した。
「よもやお前、本気でそのようなこと言っておるのではあるまいな……?」
漱は答えなかった。
細く、長く、疲れたようなため息が吐かれる。次に上げられた漱の顔には親しい者だけに見せる気弱さが透けて見えた。
「ねぇ、十年以上わたしと組んでるきみならわたしの腹くらい読めるでしょ。いいからわたしの思惑通り動いてよ」
漱さま、とそのとき別所から呼ぶ声が聞こえたので、青年は微かに姿勢を正した。困った様子で話をする家人にうなずき、漱は紫陽花に軽く目配せだけをして歩いて行ってしまう。はっとなったのは直後だった。見れば、漱は背中を向けたままひらひら手だけを振っている。
「この! クソだぬきとはお前じゃな漱!!」
悪態をついて、こぶしを壁に叩きつける。
紫陽花はきびすを返した。その重い残響だけが暗い廊下にいつまでも響いていた。
*
その夜はぱちぱちと炭の爆ぜる音とともに、静かに更けていった。
「……あなた、馬鹿でしょう」
受刑者が勝手に逃げ出したり死んだりすることのないよう、見張りに置かれた柊は対面に座る青年に向けてぽそりと呟く。
ひとり碁をしていた颯音は「馬鹿ってなんですか」とさも心外そうに言った。柊は颯音の前に座り、碁笥を取る。どうやら颯音は黒星を使っているようだったので、自分は白石を手に持ちながら、馬鹿ですよ、ともう一度繰り返した。
「あれは紫陽花さまの最後の譲歩だったのに。何故棒に振られたんです」
「懐刀のこと?」
「ええ」
「言ったじゃないですか。懐刀を渡されたら俺は何度だってその首を狙いますよって。自分で命を絶つだなんてまっぴらごめんだ」
「だからって……!」
磔刑の恐ろしさは時間にある。
杭で手を貫かれ、自重で肩を脱臼しても、死ぬに死ねない。まだ幼かった漱とその兄弟、紫陽花たちを連れて、柊は自分の産みの親であるしらら視――紫陽花の父が息を喘がせ、内股を濡らし、しまいには涙を流し、口端からだらんと舌をはみ出させ涎を垂らしながら死んでいくのを見ていたものだ。鷹揚で快活な当主としては、あまりにもみじめな最期であった。
身を乗り出して訴えようとすると碁盤の碁石が揺れる。
それで我に返り、柊は拳を握るともとの位置に戻った。
――思えば、百川方である柊がどうこう口を挟む問題でもないのだ。柊は紫陽花たちの意志を第一に尊重すべきであるし、敵方である颯音をたしなめるなど差し出がましいことこの上ない。
……されど、曲がりなりにも短い月日を共に過ごした青年に対して同情のようなものを抱いてしまうのもまた仕方のない話なのだった。どうにも割り切れないものを感じて目を伏せ、柊は悩んだ挙句、こっそり忍ばせて持ち込んだ懐刀を颯音のほうへ差し出した。
「これ……」
「あなたが懐に差していた刀です。俺が預かっていた」
懐刀を碁盤の上――ちょうど自分と颯音から等距離の場所に置き、どうしますか、と柊は問うた。ここまできたら、もう賭けといっていい。もしかしたら先ほどと同じように飛び掛かられるかもしれないし、あるいは気を変えて自害をする気になるかもしれなかった。いったいそのどちらを望んでいるのか自分でも判然としないまま、果たして期待と不安のない交ぜになった眸を上げると、颯音は懐かしそうに刀を取り上げていた。鞘に刻まれていた家紋を指でなぞり、それから颯音は柊へ刀を差し出す。
「これは君が持っているといい」
「は。俺……ですか?」
「そう。そしてこの騒動が収まったら、葛ヶ原の五條薫衣に届けてもらえないかな。あの子のなんだ」
あの子の、という呼称には隠しても隠しきれない親しみの色がのぞいていたので、きっと五條薫衣とは彼の許婚か想い人なのだ、と柊は勝手に思った。刀を受け取って大切に布に包む。
「で、では、何か言伝などは……?」
「必要ない。何ひとつ」
颯音はぱちりと碁を打った。
息をひそめてその横顔を伺い――、柊は不意に目頭が熱くなってくるのを感じた。慌てて目元を押さえる。いい年をした男が何を、と歯を食いしばって耐えようとするが、何故だろう。涙はあとからあとから溢れて止まらなかった。柊は喉を震わせて嗚咽する。考えた。かつての百川の当主たちがそうであったように、きっとこの方も、ほんとうは伝えたいことがたくさんあるはずなのだ――。そう思ったら、嗚咽をやめることができなかった。
*
夜が明けようとしていた。
火鉢のそばで身体を温めていた颯音はつかの間短い夢を見た。起きて、窓を仰ぐとすでに空は白み始めていた。
『ふん……力を欲するか、颯音』
懐かしい男の声が耳奥に蘇ったのはそのときだ。低い、ごろついた、嘲笑まじりの声。その声を颯音は知っている。嫌というほどによく知っていた。何故なら、それは。自分の。
『巨大な力は己が命を削るぞ』
瞼裏に不敵に笑う男の顔が浮かぶようだった。
そのときの自分の表情、言葉とを順繰りに思い出し、颯音は口を開く。
『構わない』
「――“構わない”」
『そんな覚悟は――』
「“そんな覚悟はとうに決めた”」
かたわらにすっと痩身の影が立つ。男は腕を組みながら無表情にこちらを見下ろしていた。やがてその口端に見ようによっては意地悪くも見える淡い笑みを載せる。
『この父を殺した上、志半ばで倒れようとも?』
「……」
口をつぐんだ颯音を、そらみろとばかりに男は鼻で笑った。
『後悔しているんだろう』
「してませんよ」
『こんなところで暁ごときに陥れられて。悔しさでいっぱいだ』
「そんなことはない」
『同時に傷ついてもいる』
「いいえ」
『蕪木透一なんて助けなければよかった。あんなもの、勝手に庇ってきたほうが悪い。自分ひとりならうまく切り抜けられたのに、ああ本当は今も、身一つ逃げ出したくてたまらない』
「まさか」
まさか、と繰り返し、颯音は苦く笑った。
観念した風に息を吐く。
「…………ええそうですとも。ぜんぶあたりです父さん」
手元の蜜蝋がじじっと炎を揺らす。父親は明かりのほうへ姿を現して颯音の隣に腰を下ろした。こんなときに現れるのが薫衣や透一でも、まして雪瀬や柚葉でもなく一番厭うていた父親だなんて俺はつくづくついていない、と颯音は思った。嘆息し、そっとうかがうようにして父の横顔を仰ぐ。
――巨大な力は己が命を削るぞ。
あのときは負け惜しみくらいにしか取ってなかった言葉が今は別の趣を持って胸に響く。
父は、案じていたのだろうか。自分を。
生き急ぐ自分を、案じてくれていたのだろうか。
「――……父さん、さぞや今愉快なことでしょう」
尋ねる代わりに颯音は悪態をつき、文机に突っ伏した。
「あなたの恨みは果たされた。ええ、この上なく、見事に。あなたのもうひとりの『子』であった暁の手によって。俺はもう間もなく殺されます。あなたよりも何倍もみじめな形で、――そう、腹から腸をはみ出させ、失禁をし、涎を滴らせながら汚く死ぬのでしょう。本当は、逃げることもできたのに、今さら変な情に駆られて蕪木の子どもなんかの身代わりに。俺はなんて阿呆なんだろう。――だって、そうでしょう? 俺がいなくなったら誰があの地を守るんです? 残してきた者がいっぱいいるんです。雪瀬や柚や、それから彼女。いったい誰が守るんです? まだ幼いあの子たちをいったい誰が。それを、わかっていて俺は情に流された。こんなの正しくなんかない。暁の言うとおり、とんだ茶番だ。俺は間違っていた。こんなに弱い男が当主なんぞにつくべきじゃなかった。俺は自分の器を見誤った!」
がん、と机が叩かれたはずみに蜜蝋の灯りが落ちる。
暗闇の中で、近くの男が微かに身じろぎをしたのがわかった。大きな手のひらが伸びてきて頭の上に置かれる。くしゃくしゃと荒っぽく髪を撫ぜられた。言葉はない。ただ、ひどくつたなく、頭を撫ぜ回そうとする男。俺の、どうしようもない親。
苦笑し、颯音はこぶしを握りこんで固く目を瞑る。少しの間、頭の上にあった手のひらはやがて射し込んできた朝の光に溶けて消えてしまった。颯音は動かない。ただ机に突っ伏したまま、か細い、呻き声にも似た嗚咽を何度となく漏らした。その背へもゆっくり朝を告げる光が射す。やがて光は満ち満ちて、朝告げ鳥の鳴く声がした。
*
昼九ツ、太陽がちょうど南中した頃であった。
橘颯音は帝への反逆の罪科で磔刑に処せられた。その身体は絶命したのち最後は臓腑にいたるまでを野犬に食い荒らされる。かくして歴史に名を刻む天才風術師は刑死した。
数日後、小さな騒ぎが収まった頃にひっそりと人目を忍ぶようにして広場に向かう青年がいた。青い目に黒髪のその青年は一見浮浪者と見まごうほどに薄汚れ、頬もこけ、やつれきっている。気味悪がってその場から逃げ出した子供たちには目もくれず、青年はまっすぐ死体が放置されている広場へ向かった。蝿のたかっているひとつの筵を見つけて、青年は――暁は息をのむ。筵からは人差し指をなくした手がぶらんと飛び出ていた。
さおとさま、と声にはならない声が喉を震わせる。足元に転がるだけの肉塊を見て暁は絶叫した。
その後の、男の行方はようと知れない。
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