終章、風花
一、
木格子の中でうずくまる少女はぴくりとも動かないで眠り続けていた。
五條の家人は閂の鍵をこちらに渡すと、頭を下げて外へ出て行く。それを見送って、雪瀬は視線を中の少女へ向けた。
力なく横たわっている姿はさながら手負いの小鳥が羽根を休めているようでもある。頬は青白く、身体の線に沿って背を流れている髪は一部がざっくりと切られて変に短くなっている。不揃いな毛先を取り、それを少し弄ってみてから、雪瀬は涙の痕の残る頬に指の背をあてた。頬はまるで陶器のように冷たい。
痩せた、白くてちいさな身体じゅうに残された陵辱の痕暴力の痕がつかの間瞼裏によぎって消えた。彼女は自分を呼んだだろうか。それともいつもみたいに、手負いの獣がそうするように歯を食いしばって声を殺して耐えていたのだろうか。
「ん…」
つと長い睫毛が震える。閉ざされた緋色の眸がうっすら開くのを見取って雪瀬は手を離し、懐から銃を取り出した。
ややあって眸が焦点を結ぶ。桜は驚いたように雪瀬を見、そして自分のほうへ向けられている銃口を見つめた。撃たれると思ったらしい。緋色の眸に色濃い諦観がよぎり、睫毛が力なく下りる。雪瀬は銃を桜の腰紐に突っ込んだ。
持っていた鍵で扉を開けると、不思議そうに目を瞬かせる少女の腕をぐいと引っ張った。はやく、と言ったが、桜のほうは意味がわからないといった顔で座り込んでいる。ここで押し問答をしている暇はない。雪瀬は有無を言わさず桜の身体を中から引きずり出して、ぽいっと地面に針金を落とすと、あらかじめ指示された経路を脳裏で反芻しながら外に出た。
*
屋敷の中はちょっとした騒ぎになっていた。なんでも五條家の座敷牢に入れられていた少女がいつの間にか錠を外して逃げ出したというのである。そばに針金が落ちていたので、おそらくそれを使ったのだろうということだった。
「どういたしますか、薫衣さま!」
「追って。たぶん桜のことだから、西の毬街方向だ」
薫衣は剪定ばさみで花を切りながら答える。黒い花瓶には庭に咲き綻んだ椿の花が生けられていた。
西方向と言ってはみたものの、実際の雪瀬と桜はもう数刻も前に東の果てと呼ばれるこの地のさらに東、鎮守の森の方向へ逃げていることを薫衣は知っている。何せ信頼できる家人に手引きさせた上、五條家の見取り図まで教えてやったのだ。それでも幾許かの追っ手は東の方角にも向かおうが、そこは雪瀬の数少ない味方がうまく煽動していることだろう。
……結果的に、雪瀬と薫衣は内通者は暁だったのではないかという結論に達していた。さりとてもう証拠はないし、長老会が決議を翻す気がないことは明白であったのでどうしようもないのだけども。今になって、颯音不在の際の全権を長老会に委ねたのが失策のように思えた。彼らの多くは実直に年を重ねた矍鑠たる老人たちであったが、なにぶん頭が固いきらいがある。
「薫衣さま!」
「だから桜なら、西の毬街だって」
非常事態になると命令と拝命がとかく混乱しがちになる。辟易とした気分で薫衣が先回りした答えを返すと、襖の外にいた家人はそうではありませんときっぱり首を振った。
「じゃあ何?」
「薫衣さまに目通りを求めている輩がいます。素性が知れぬ以上、一度は追い返そうともしたんですが奴らなかなかしぶとく、薫衣さまが出ないのなら次は蕪木の屋敷に行くと言っており……」
「ほーう。透一んところねぇ」
どうせ向かったところで主人はいないだろうが。それでも彼の家族や家人たちは残されているだろうし、女子供の多い蕪木の屋敷に妙な輩を向かわせるのはいささか気が引ける。どうしたものかと薫衣が思案していると、家人は「それから」と声をひそめた。
「どうやら奴ら、“虱”の連中らしく」
「――それを早く言え」
薫衣は剪定ばさみを置いて、席を立った。
男たちを屋敷の中に入れるよう命じ、加えて、よく切れる刀をひとふり持ってこさせる。それを無造作に引っさげ、座敷へと向かう。以前宴にも使ったことのある広い座敷には見慣れぬ男が三人ほどちょこんと座って薫衣を待っていた。彼らのひとりは小さな風呂敷を大事そうに抱えている。
「待たせてすまなかったな」
「いえいえ。あたしらこそ勝手に押しかけちまって。最初は宗家さまのほうに行ったんですが、門前で追い返されてしまいこちらへ」
「あぁそれは悪かった」
薫衣は家人に茶を持ってくるよう言いつけて、男の前に座る。
「して、今日は何用だ?」
「さァて、あたしらからは何も」
変ななまりのある男であった。身なりも汚く、もうずっと身体を洗っていないのか、黒ずんだ肌からは独特の臭気がたちかおっている。
「『何も』、ね。なら、訊き方を変える。どんな情報をひっさげてやってきた?」
男の濁った眸に生き生きとした光が差したのを薫衣は見た。
「そうそう。そう訊いてくださらんと」
小物らしく揉み手をして男は膝に抱いていた風呂敷包みを差し出した。近くで見ると、何か箱のようなものが包まれているのだとわかる。
「こりゃあ特級品です。いつものネタとは質が違う。何せあなたたち全員の命運がかかってるともいえるんですから。『これ』を毬街でも都でもなく、まず葛ヶ原に持ってきたあたしらの広く深い心を汲んでもらいたいもんですね。ええ、できれば。――それで五條さま。いくらで買いなさる」
臭い息を吹きかけられ、薫衣はわずかに眉をしかめた。
――彼らのような者をまとめて『虱』という。どこの領地にも属さない流れ者で、情報の売買を生業とする人間だ。領地間をぴょんぴょんと飛び回り金子を吸ってまた何処かへゆくので、『虱』という蔑称がついたのだという。このような輩から情報を買うということが過去少なからず薫衣にもあった。
「――まずは中を見てからだ」
薫衣が言うと、それもそうだと愛想よく男はうなずき、薫衣のほうに包みを押しやった。家人が風呂敷を開く。包まれていたのは、小さな木箱のようなものだった。
刹那、唐突に薫衣の背筋を悪寒が駆け抜けた。どくどくと鼓動が高鳴り、手が震える。……なんだろう嫌な。嫌な予感がする。みてはいけない。そんな気が。
本能が木箱を取る薫衣を制止したが、生まれた不安はよりいっそう蓋を開けよう開けようとする。薫衣は震える手で箱を開いた。
そこに収まっていたものを見て。薫衣の呼吸は止まった。
それは人間の手だった。
「――っいったい何の冗談だ……?」
薄笑いを浮かべる男のしまりのない口元を見た瞬間、頭がかっとなった。薫衣はかたわらに置いてあった刀を抜いて男の首筋に突きつける。ひぃと薄汚れた男は蛙が潰されたような悲鳴を上げた。
「答えろ! これは何だ!」
「ひ、ひとがせっかく善意で……」
「答える気がないなら斬る!」
宣言通り垢まみれの首の皮に刃を食い込ませてやると、男は泣きそうな顔になってこくこくと首を振った。
「わ、わかった、言う、言う! 言うから殺さないで……だ、だってあたしら見たんだ。しんだんだ、橘の当主さま。しんだんだ、磔にされて山犬に喰われてよう。あたしらぜんぶみてた。なかまと一緒にみてた。臓腑に蛆がたかってひどかった。そしたらももかわさまがやってきて……」
ふと男の声が途切れる。目の前が真っ赤に染まった。
肩で息をしながら床に転がっていく男の首を眺め、あれなんでこの男胴体と首がわかれてしまったんだ、と薫衣ははたと目を瞬かせた。胸倉をつかみ上げただけなのに、なんで。なんでだ。ああもしかして最初から首と胴体が離れていたのか? 我ながらおかしな想像をしてしまって薫衣は小さく吹き出す。
「――……薫衣さま!?」
残りの虱たち、薫衣のかたわらにいた家人は目を瞠るばかりである。
誰も身動きの取れなかったその場の空気を破ったのは、異変に気付いて駆けつけた家人の悲鳴だった。
「どうしたのです。何があったのです。く、薫衣さま、お気を確かに」
駆け寄った家人に肩を揺さぶられ、薫衣は低く呻いた。背筋がぐんと引っ張られるような感覚があり、次の瞬間にはその場にしこたま腹の中のものを吐く。ぜんぶ吐いて、それで、逆に少し頭が冷えた。
「薫衣さま……」
「案ずるな、お気は確かだよ。あいにくと。……あいにくと」
「薫衣さま、お身体は」
「――そやつらを捕らえろ」
「は、」
「残りの虱だ。捕えて、――この際拷問でも何でも手段は選ばない。とにかく知ってること洗いざらいぜんぶ吐かせろ!」
薫衣は血に染まった刀を袖で拭って鞘に納めた。血を真正面から浴びたせいで肌が生臭い。くそ気持ち悪いな、と舌打ちし、ぐしゃぐしゃと頭をかいて、薫衣は外に出ようとする。それを家人が止めた。
「お待ちください。そのようなお身体でいったいどこへ行くっていうんです」
「馬を出して」
「……ですが」
「馬を! 今すぐに!」
語調の荒さに驚いた様子で、家人はぱたぱたと馬小屋に向かっていく。まもなく連れてこられた青毛の馬を見て、風音、と薫衣は泣きそうな声でその名を呼んだ。
風音は悲しそうな眸で薫衣を見つめている。その背に鞍を乗せると、薫衣はひらりと馬にまたがった。腹を蹴れば、風音は屋敷を出、慣れた道をぐんぐんと疾走する。馬の背で強い風を身体いっぱいに受けながら、うそだ、と薫衣は思った。うそだ。橘颯音が死んだなんて嘘だ。あのふてぶてしい、煮ても焼いても死ななそうな男がこんなにもあっけなくいなくなってしまうなんて。嘘だ。嘘に決まってる。しんじない。私、この目で見るまでしんじない。
「風音、走って」
唇を引き結び、薫衣は走った。
長老会の緊急招集と、雪瀬を探し出す必要があった。
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