終章、風花
二、
薄曇りの空の下、桜はとたとたと若干危うげな足取りで前を歩く少年を追いかけていた。
雪瀬の足は速い。いつもは桜に合わせて歩調を落としてくれるのだけども、今日に限ってはついてこられないのなら置いていかんばかりだった。“待って”とも“もう少し足遅くして”とも言えず、桜は懸命に雪瀬を追う。
朝から歩き通して、ずいぶんたった。ここずっと食べ物も飲み物もろくに摂取してなかった桜はすでにくたくたになってしまっている。一歩進むだけでも身体が泥濘にとらわれたかのように重い。
意を決して桜は、雪瀬、と小さな声で前を歩く背中に呼びかけてみた。何、と返してくる少年はもちろん歩みを止めなかったし、こちらを振り返りもしなかった。その背中に思い切り拒絶されたような気分になって、桜は怯えた末何でもないという風に小さく首を振った。気配で桜の仕草を悟ったらしく、雪瀬は何も言わずまた落としていた歩調を元に戻した。
それをまた追いかけながら何も歩けないわけじゃないんだから、と桜は自分を励ます。痛いのなんて我慢すればいいだけだ、置いていかれてしまうよりずっといい。
道は次第に細くなり、あたりは林間に入って陰鬱な趣をかもし始める。冷たくなった風に身をすくめ、桜は薄い袷の衿をかき寄せた。
と、そこで雪瀬の足が不意に止まる。それがあまりにも唐突であったので、桜はきょとんとして雪瀬の横顔を仰いだ。濃茶の眸が警戒した風に細まる。その対象を探す暇もなかった、数瞬後には、桜はぐいと腕を引っ張られて茂みの前に伏せさせられていた。
――いたか?
――いや、いない。
頭上でひそひそとそんな会話が交わされる。そこに変な既視感のようなものを覚えて、ああと桜は思った。以前葛ヶ原の宗家の牢から逃げ出したときと似ている。今回も同じように五條のお屋敷からいなくなってしまった桜を皆で探しているのだろうか。――このときまで桜は、雪瀬は五條のひとに許可をもらって牢を開けたのだと思っていたので、ますます彼の考えていることがわからなくなってしまった。
「おい、毬街のほうで見たという人間がいたぞ」
聞き慣れた声がちょっと離れた場所からした。
「むみょ、」
思わず上げかけた声を両手で押さえてのみこむ。幸いあちらには聞こえなかったらしい。無名の言葉に、そうか、毬街か、と納得した風に男たちはうなずきあってきびすを返してしまった。一団が去り、あとには桜と雪瀬の微かな息づかいだけが残る。それでも注意深くあたりを見回してから、雪瀬は腰を上げた。
「っあ! …の」
今を逃したらもう次はないと思った。桜は両手で雪瀬の上着端をぎゅっとつかむ。思ったよりもずっと温度の低い視線を返され、桜はたどたどしくあの、と言いよどんだ。
「これから、どこ……」
どこに行くのか、と訊きたかったのである。先の一件で雪瀬がどうやら無断で桜を連れ出したらしいことはわかった。けれど今歩いている道は宗家からは遠く隔たった場所であったし、そもそもこんな東の奥深くまで桜は足を運んだことがなかった。
「鎮守の森」
雪瀬の答えは揺るぎなく簡素だった。
「ちんじゅのもり?」
聞いたことがあるようなないような。
首を傾げてしまった桜をよそに、雪瀬は桜の頭越しに視線を投げやって、「あぁいたいた」と言った。
「沙羅、空蝉。あと無名」
茂みの先に立っていた巨漢の影がこちらを振り返る。その隣には、いつの間に現れたのだろう、沙羅と空蝉がいた。無名の姿は普段とあまり変わらなかったが、沙羅のほうは桜の見慣れぬ、大きな深い編み笠を頭にかぶっており、手には荷物を抱えている。足にはしっかりとわらじが結われていたし、とても近くに遊びに行くといった風体ではなかった。旅装というのが一番近い。
沙羅たちがまた旅に出るのだろうか。それを見送るために雪瀬は桜を五條のお屋敷から連れてきてくれたのだろうか。そんなことをのん気に考えていると、待ちくたびれましたよ、といつもの悪態をつきながら沙羅がこちらに駆け寄ってくる。
「ごめん。わりと追っ手をかわすのに手間取った」
「五條家だったら馬は借りてこられなかったんですか」
「だって俺も桜も馬乗れないんだもん」
軽い応酬を交わして、それから雪瀬は桜の背中をとんと押した。
「じゃあこれで俺の仕事はおしまい。お三方、桜のこと、よろしくね」
――仕事? よろしく?
いったい雪瀬が何のことを言っているのかわからず、桜は瞬きばかりを繰り返す。ただ生来の、動物的な勘だけが桜に恐ろしい予感を告げていた。きよせ?、と桜は控えめに少年の袖を引く。
「わ、わからない。しごとって、何? “よろしく”?」
「何って言ってもね。桜はこれから無名の案内で、沙羅たちと一緒に葛ヶ原を出て行くんだよ」
ずくんと心臓が跳ねる。一気に血の気が引いていった気がした。
「でていく」
少年の言葉を鸚鵡返しになぞって、桜は微かに首を傾ける。
「雪瀬は?」
「俺は一緒には行けない」
「……い、つまで?」
「いつまでも」
そこでいったん言葉を切り、雪瀬は言った。
「桜はここを出て行くの。もう二度と帰ってくるな」
鋭利な、刃物のような言葉であった。
それで桜はようやっと理解する。沙羅や無名とともに旅立つのは自分なのだと。桜は今雪瀬に別れを告げられているのだと。
「嫌!」
ぶんと大きくかぶりを振って桜は雪瀬の腕にしがみついた。何度も、首が折れるんじゃないかというくらいに何度も何度もかぶりを振る。
「嫌! 行かない! 行きたくない!」
「――桜」
背後から沙羅がたしなめるような声をかけ、桜の肩を引き寄せようとする。その手から必死に逃げ、桜は雪瀬の腕を抱きしめた。嫌だ、出て行けなんて嘘だ。出て行けだなんて。雪瀬とはなれるなんて。もう、二度と会えないだなんて。
「つらいでしょうけど、桜あのね。このまま葛ヶ原にいたらあなたは濡れ衣を着せられたまま殺されてしまうの。だからその前に私たちは――」
「嫌!」
「……桜」
「じゃあしぬ、わたし死ぬ。ここで死ぬ、雪瀬のそばで死ぬ……! だから」
だから、と桜は雪瀬に訴えた。だから、出て行けなんて。
沙羅と無名が顔を見合わせて首を振る。雪瀬は――、雪瀬はおもむろに袖を振り、ぺんと桜の頬を軽く叩いた。ごくごく力加減のされたそれは、けれど桜を怯ませるには十分だった。あっけにとられて目を瞬かせることしかできないでいると、怜悧な眸が自分を捉えた。
「俺は死ねなんて言ってない、出て行けといったの。言うことを聞かないなら、今ここで眠らせて無名に運んでもらう。どっちがいい」
あまりの物言いに桜は表情を強張らせた。
いったい何が、何が起こっているのだ?
どうして雪瀬はこんなにひどいことばかりを言うの?
半ば呆然としてしまった桜から腕を抜き取ると、雪瀬は沙羅たちに通行証となる木鈴を三つ渡し、何か道順のようなものを説明した。ぜんぶ説明し終えると、こちらを少し振り返る。
「大丈夫、安心して平気。無名はこのへんのことには慣れているから、きっと絶対、うまく連れて行ってくれる」
最後に軽く、いつもと同じように桜の頭を撫ぜ、雪瀬は足を返した。
「待っ…!」
桜は肩に添えられた沙羅の手から抜け出し、雪瀬を追いかけた。だがあと少しというところでぶざまに地面に転んでしまう。
小さく呻きはしたものの、擦りむいた腕や膝には目もくれず、桜は転がるようにして目の前にあった少年の袴端にすがりついた。それでやっと足が止まる。落とされた視線が冷たい。身体中が凍りつくような気配を感じながら、桜は震えがちに袴の裾を握り締めた。
「ど、うして? どうしてそんなこと言う……わ、わたしが、暁撃ったから? わたしが“ないつう”していたから? わるいことしたから、いけないことしたから、だから出て行けって、」
どうすれば、『出て行け』を取り消してもらえるだろうかと、それだけが混乱する頭の中を回っていた。桜は暁を撃った。月詠にも会った。よくわからない、でもいけないことなんだろう。少なくともひとを撃ったのはいけないことなのだろう。雪瀬はそれを責めているのだ。だからこんなことを言うのだ。桜はそう思った。
「わたし……、わたし、ごめんなさい、もう撃ったりしない。誰も撃ったりしない。……つくよみ、も、」
きっと桜が二択を差し出されて、すぐに銃を選ばなかったのがいけなかったのだろう。小指を折られたくらいで怯えて泣きじゃくったのがいけなかったのだろう。
「つ、次はちゃんとじゅう選ぶから。ちゃんとすぐ、銃選ぶから。もう痛いのいやだなんておもわない、から。わ、わたし、ほんとう……嘘じゃな」
「――桜」
遮るような声に、桜はびくりと肩を震わせた。
「もういい」
返ってきたのはあまりにもそっけない、冷淡な言葉だった。
「い、い?」
「うん。いいから、もう」
そう言うと、雪瀬はかがんで、袴端をつかんでいた桜の手を離し、小さく笑った。
「だから、早くいきなよ」
ぎこちなく首を振る。離された手をもう一度つかもうとすれば、その前に手をつかんでまた離される。とん、と両手が少し湿った地面についた。桜は驚いて雪瀬を仰ぎ、地面を見た。はたはたと手の甲に丸い雫がいくつも落ちる。頬に触ると、そこはしとりと冷たく濡れていた。
「……、」
雪瀬、と名を呼ぼうとしたのだけども、小さく喉が震えたきり、声が消えてしまう。強張った喉はそれ以上言葉を連ねることを怯えて拒んだ。
「――、――、」
口を動かすのだけども、肝心の声が出てこない。
こんなときに、どうして。桜はおずおず喉に手をあてがい、きつく眉根を寄せた。いやだ。声、出さなきゃ。雪瀬がいってしまう。声、だして、ちゃんとはなさなきゃ。こえ、こえ、こえ、こえ、こえ。どこ。私の声、どこにあるの。焦燥に駆られるがまま、桜はおもむろに喉へと爪を突き立てた。力任せに肌に爪を食い込ませ、かきむしる。
「…う、」
ようやく出た弱々しいそれは、けれどひしゃげたような音にしかならなかった。息を乱しながら、それでも必死に言葉を紡ごうとしていると、若干乱暴に両手をつかまれ、喉から離された。桜はふるふると何度も首を振る。がむしゃらに手を動かし、喉を裂いた。爪の中に変な感触が残る。見れば桜の手は血だらけになっていた。桜はそれでもなお身をよじり、喉に手を伸ばす。
なんで。どうして。焦燥が胸をつく。
だれか声かえして。雪瀬いっちゃう。雪瀬がいなくなっちゃう。雪瀬がいなくなっちゃうよ。ねぇ誰か――
そうやって声を絞り出そうと開きかけた唇を、無理やり唇で塞がれた。
ぐっと腰を引き寄せられ、吐き出しかけた吐息を深く吸われる。乱暴に、無理やりに、開かされて、こたえようとして、それすらも強引にねじ伏せられて、苦しくて、切なくて、泣きそうになる。
ひどい、口付けだった。こたえることも、手を握り返すことすらもぜんぶ頭から拒否した、ただ奪っていくだけの口付けだった。身体の力ぜんぶを持っていかれそうになって、桜は目の前の上着にしがみつく。そのとき涙で歪んだ視界に垣間見た、傷ついた幼子みたいな彼の表情に、自分はいったい何を読み取ってあげればよかったのだろう。
「――……て」
何かを弱々しく懇願するような声が耳朶を撫ぜ、次の瞬間、ぐっと肩を押して引き離される。ぺたんとその場に尻餅をつき、桜は目を上げる。そのときには雪瀬はこちらに背を向け、歩き出していた。
「きよせ、」
追いかけようとして立ち上がるも、けれど少しも行かないところで地面に倒れてしまう。
「きよせ、きよせ、きよせ、」
呼ぶほどに影は遠くなってしまう。
声が、もうちゃんと自分の喉を震わせているのかも桜にはよくわからなかった。立ち上がることすら忘れて桜は地面を這った。それを沙羅が後ろから抱き止める。いや、と沙羅の腕をほどこうとしながら、桜は何度もかぶりを振った。
「きよせ、」
土と塵に紛れて、やがて影が見えなくなる。
なくなる。
何もなくなる。
「いやだ、いかないで。おいていかないで」
声が届かない。
とどかない。
もう何も、とどかない。
「おいて、かな…、」
呼び求めても呼び求めても、あの苦笑まじりの優しい声が返されることはない。それを、知って。
知って、思考は、意識は、こころは、途切れ落ちた。
「やだぁぁあああああああ……っ」
血を吐くような慟哭が空を裂き、ふらりと力を失った小さな身体が傾いで地に倒れる。けれど応える声はなく、ただ天からひとひら、ふたひら、舞い降り始めた雪片が優しく少女の頬を濡らすのだった。
*
「あー雪。初雪だ」
山道をひとり下りていた雪瀬は天を仰いでぽつりと呟く。
何かに引かれるように背後を振り返った。そこには舞う雪と乾いた地面があるだけですでに少女の姿は見えなかったのだけども。
――どこからか泣き声が聞こえた気がした。くるおしそうに自分を呼び求めるか細い声が聞こえた気がした。
とてもひどいことをしたのだ、と雪瀬は思った。ぼろぼろに傷ついて、それでも必死に差し伸ばされた手を雪瀬は振り払って捨てた。引き寄せたときのほっそりした身体の感触がまだ腕の中に残っていた。不揃いな髪もいつもよりもずっと冷たくなってしまった体温も弱々しい息遣いすら、ぜんぶ残っていた。小さくて、つめたい身体と思った。それを自分はめちゃめちゃに傷つけて突き放すのだ、と思った。
それでもきびすを返して追いかけようとは思わなかった。
雪瀬はここですることがあった。颯音も透一も真砂もいない。柚葉と薫衣を残して雪瀬ひとりどこかへ逃げてしまうというわけにはいかなかった。
だから、代わりに、雪降れ、もっと降れ、と雪瀬は思う。
その傷口を優しく埋めるように、その悲しみをすべて包みこむように、もっともっと、雪が降ればいい。何もわからなくなるくらい真っ白に染めればいい。そしていつか。厚い雪の下からふきのとうが顔を出し、空が澄み渡り、花が芽吹く季節が来るように、君がまた微笑える日が来ますよう。
祈ってる。
ずっと、祈ってる。
なんにもあげられなかった代わりに。
――それは何を噛み殺した時間だったのだろう。固く閉じ入っていた眸を開くと、雪瀬は深く息をつき、あとはもう立ち止まることも振り返ることもなく己の向かうべき道へと歩き出した。その足跡の上に雪は降り積もり、やがて彼の影すらも白の向こうへ消した。
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『それで』
『……それで』
『いつか、また、わらって』
愛しきひとよ。
二譚、花【完】
Thank you for reading !
From Karasameyadori with love.
連載期間/2006.1.7〜2008.11.9
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