序、凍えた鳥



 雪が舞う。
 今はまだ暗き空の果てから、静かに、音もなく、散りゆく花のような軽やかさをもって薄闇を舞い、夜明けの街を白く染め上げていく――。



「きつねうどん二杯、お待ちどうさま!」

 しんしんと降り積もっていく雪を見ていた沙羅(さら)は、頭上から飛んできた威勢のいい声に気付いてはたと顔を上げた。街道茶屋の店主は湯気のたったどんぶりを沙羅の前に置いて、それから寒いだろうと奥にあった七輪を持ってきた。七輪の中ではぱちぱちと赤黒い炭が爆ぜている。

「まぁ、ありがとうございます」
「悪いな、ここ隙間風がひどくてよ。嬢ちゃん、その格好、旅人さんかい?」

 沙羅がありがたく七輪に手を差し出していると、店主はお盆を膝に置いて反対側の席にあぐらをかいた。時期が時期なので、他に客はいない。

「ええ。昨日毬街のほうへ入ったんですけど、この大雪じゃないですか。乗った船がここの港で泊まって、動かなくなってしまったんです」
「それは災難だったなぁ。どこへ向かってるんだ?」

 どこから来たのだ、と訊かず、どこへ行くのかと尋ねるのはひとびとが流れ着いては離れていく毬街の住人ならではの気配りだろう。旅人には何かと言うに言われぬ事情がある者も多い。それは沙羅とても例外ではなかった。

「今連れが船頭さんに話に行ってます。できれば乗り継ぎの船を探して、西の霧井のほうへ向かいたいのですが……」
「あぁーだめだめ。そりゃあ無理だ」

 店主は大仰なそぶりで頭を振る。

「海が時化ってる。たぶん、この雪が落ち着くまで船は出ねぇよ」
「……ですか」
「それまで野宿ってわけにもいかんだろ。いい船宿を紹介しようか?」

 店主はひとがよさそうな眸を細めて、にっと笑った。その好意に甘えることにして、沙羅は店主が教えたいくつかの船宿を手早く書き留める。

「あと、今このあたりは出入りがことさら厳しくなってる。あっちこっちで黒羽織が目を光らせていてな。煩わしい思いをしたくねぇんなら、しばらく船宿でおとなしくしてるのをおすすめするぜ」
「黒羽織が?」
「おうよ。ほら、ひと月前。例の事件があったろ?」
「『例の事件』と、いいますと……」

 沙羅がいぶかしげな顔をしたので、店主はおやと片眉を上げた。

「ああそうか。お嬢さん、昨日毬街に入ったばかりって言ってたもんな。船の中じゃあ、噂も入らんか。――ほら、うちの隣に葛ヶ原ってのがあるだろ? ずっと朝廷と対立していた」
「ええ」
「ひと月前に陥落したんだ」

 ぽろりと沙羅の手に抱えられていた湯飲みが落ちた。

「うっわ! あっち! お嬢さん大丈夫か!? 火傷は――」
「陥落……」
「……お嬢さん?」
「葛ヶ原が陥落。それは、それは本当に、真のことなのですか……!?」

 そこで別のことに思い至り、沙羅ははっと顔を上げた。

「――桜。桜?」

 沙羅の愛娘は店の外の縁台で雪を見ていたはずだった。しかしながら今、沙羅の呼びかけに応える声はない。店の外に顔を出し、沙羅は表情を変えた。

「う、空蝉(うつせみ)さま?」
「おい沙羅! 起こしてくれ!」

 沙羅の夫であるわら人形は雪の上に置き忘れられたように埋まりこみ、もがもがと四肢を動かしている。他に人影はない。縁台でわら人形を抱え、ぼんやり街道を見ていた少女は忽然と姿を消してしまっていた。






 真っ白な新雪に影が射す。
 雪の上にうずくまって、ひらひらと天から舞い落ちる雪を仰いでいた少女を現へと呼び戻したのは、彼女がよく知る声の持ち主だった。海老茶の番傘に、蘇芳色の頭巾を目深にかぶったそのひとは、少女を見つけると、ふっと目元に憐憫にも悲哀にも似た儚い翳りを浮かべて、そこにかがみこんだ。
 空のほうへ向けられていた緋色の眸がゆるゆると焦点を結ぶ。少女の顔色は青白いを通り越して血の気といったものがなく、見れば、黒髪や細い肩にもいくらばかりか雪が積もっていた。
 現れた人物は眉をひそめて、いくつかの問いを口にしたが、少女がそれに答える気配はない。髪や肩に乗った雪を払われても、ほんの少し眸を細めただけで、声ひとつ上げずになされるがままになっている。少女の喉のあたりには古くなって少し黄ばんだ包帯が巻かれていた。

 そのひとは諦めたように首を振ると、少女の冷たくなった手を引いて立たせた。特に抗うこともなく少女はのろのろとそれに従う。けれど、その足取りは到底自発的なものとはいえず、ほとんど相手に身体を預けてしまっているといってよい。手を離したら、少女はそのまま雪の上に倒れてしまうのではないかと見る者に思わせる歩き方だった。

 思いついて、そのひとは尋ねた。
 名を、尋ねた。確認する風だった。
 いつもは前をまっすぐ見ている濃茶の眸は、そのときだけわずかに気弱さを孕んだかのように見えた。

 桜は、だから、ただ、「さくら」と。
 それは桜の手に今かろうじて残された唯一の持ち物だった。