一章、虜囚



 一、


 
 ――話はひと月前に遡る。




 風がごうごうと唸っていた。昼下がりにちらつき始めた風花はすでに様相を変え、冷たい氷の塊と化している。吹き付ける氷の粒に眸を眇めながら、五條薫衣(ごじょうくのえ)は愛馬を走らせていた。風音(かざね)の立てる息は白く、汗をかいた全身からはうっすら湯気が立ち上がっている。とうに日は失せ、足元は暗く、前を走る男の掲げる松明がかろうじて道を照らしていた。馬の扱いに慣れた薫衣たちでなければ、到底叶わぬ疾駆だろう。

 『虱(しらみ)』の男を斬り捨てた薫衣は屋敷を出るなり宗家に向かって、長老会の招集をかけ、さらに宗家の護衛兵の隊長・紫藤(しどう)に橘雪瀬(たちばなきよせ)の捜索を命じた。雪瀬には悪いと思ったが、彼が東の鎮守の森方面に向かっていることも伝えた。紫藤という老人は、おそらくその思慮深げな眸の奥で、五條の屋敷を逃げ出したとされる桜と雪瀬の関係について思いをめぐらせ、さらには真相をも見抜いたはずであったが、ことが危急を要するためか、言及はなかった。

 ――橘颯音(たちばなさおと)刑死の可能性。

 もたらされた情報の重大さに反して、それを吟味する時間は限られていた。薫衣は蕪木家から隠居した前当主――透一の父を引っ張り出し、最長老を交えて短い話し合いをすると、指揮権を最長老に託し、自分は馬の扱いに長けた者を率いて南の関所へと向かった。

 橘颯音が死んだか否か。この時点で、薫衣の冷静な頭は、五分、と踏んでいた。もちろん、胸のうちでは、激しい慟哭にも似た衝動が渦巻き、否!と叫んでいたが、それが己の願いに過ぎぬことを薫衣の頭の冷えた部分は理解していた。
 拷問した『虱』から、新しい情報は引き出せなかった。こちらの動揺を誘う朝廷側の罠かとも考えたが、颯音が存命ならば、すぐに露見するはずの嘘なのである。わざわざこのような手の込んだことをする理由がない。――とにかく、瓦町にいるはずの橘颯音、蕪木透一(かぶらぎゆきひと)のふたりに何か異変が起きたことは確かのようだった。


 前方から幾重にも連なる蹄の音を聞こえたのは、関所まであと少し、というところでであった。相手は明かりを持っていない。いちおう警戒をして、薫衣は馬の手綱を引き締めながら、「誰だ!」と誰何の声を闇に向けて投げる。

「薫衣さま……」

 弱々しく返ってきた声は、薫衣が自分たちに先立ち南の関所の探索に行かせていた兵のものであった。篝火を声のほうへ向ける。浮かび上がった男たちの様相を見て、薫衣だけではなく、その場にいた者皆が息をのんだ。
 血の臭気が鼻腔を刺す。男たちは揃って憔悴し、中には血を流している者もいる。疲弊した馬の尻に刺さるのは葛ヶ原ではあまり見慣れない形の矢であった。

「な、なんだ。いったい何があったっていうんだ?」
「……り、を…」
「あか、り? 明かりか?」
「け……」

 明かりを消してくれ、と懇願する男の声は、言葉通り明かりが落ちたせいで最後まで薫衣の耳に届くことはなかった。あたりが一瞬にして真っ暗闇になる。星明かりも月明かりもないせいで、薫衣には完全なる闇になったかのように感じた。他の者とてもそれは同様であったろう。最初に馬が驚いて飛び上がり、数瞬後、空気をこすりあわせるような独特の音が前方から打ち鳴った。

「――伏せろ!!」

 そう叫んだのはほとんど反射のようなものだった。長年この音に慣れ親しんで育った薫衣には前方から飛んでくるものの正体が頭で考えるよりも早くわかった。直前の馬の様相が脳裏に閃く。
 ――矢だ。
 とっさに風音の首にしがみついたものの、降り注ぐ矢の雨は容赦なく薫衣と周りの男たちに襲い掛かる。明かりをつけていたせいで、襲撃者にこちらの位置は知られている。対してこちらはどこから矢が飛んできているかもわからず、逃げ惑うことしかできない。薫衣は舌打ちし、風音の腹を蹴ってきびすを返させた。それにならって他の者たちも馬の首を返す。

 ――走れ!

 渾身の思いをこめて風音を蹴るが、刹那、左肩にどんと押されるような衝撃を感じた。やられた、と思った。思ったが、薫衣は風音の腹を抑える両足の力を抜かなかった。落馬すれば、死ぬ。死、という生々しい感覚が薫衣の頭を明瞭にした。ぐぅっと力の限りに奥歯を噛んで焼け付くような激痛に耐える。死んで、たまるか。落ちてたまるか。こんなしょうもない場所でくたばってたまるかってんだこんちくしょう。

 乗っているというよりはほとんどしがみついているというのに近かったが、風音はよく言うことを聞いた。少しもしないうちに、襲い掛かる矢が途絶えたことに気付く。飛距離外に出たらしい。とはいえ、油断は禁物である。

「いったい何が……。どう致しますか、薫衣さま」
「……あぁ」

 自分につき従う男がたったの三人に減ってしまったことに薫衣は少なからずの衝撃を受けたが、表面上は無表情を取り繕い、首を振った。

「私にも、事態がよく見えない。ただ、もうあちらへ戻るわけにもいかない。ひとまず宗家だ」

 薫衣は熱く重たい息を吐き出した。
 三人を見回し、一番浅い傷で済んだ者に目を向ける。

「いいか、宗家に行って、このことを、伝えろ。私は、遅くなるから、おまえが行け。いいな。わかったな?」

 若い、まだ少年と言っても差し支えのない年頃の兵はこくこくとうなずき、その場から離れた。遠ざかっていく足音を聞き届け、薫衣は汗ばんだ額を馬の首に寄せた。



 だが、薫衣は知らなかったが、このときすでに南の関所は破られており、関所を守っていた葛ヶ原の兵たちはすべて捕虜になったあとなのだった。




 大地が唸っている。低い、低い、狼の唸り声にも似た声で大地が唸っている。雪瀬はすっかりひどくなってしまった吹雪から身を守るように上着の衿をたぐり寄せ、かじかんだ手のひらに唇を寄せた。そっと息を吹きかけると、ひゅるりと白い呼気が儚く立ち昇る。雪瀬は目を細めて、吹雪の音を聞いた。

「――雪瀬さま! 橘、雪瀬さま!」

 切迫した呼び声とともにいくつもの激しい蹄の音がしたのはそのときだ。
 ひやりと肝が冷える思いがして立ちすくむ。雪瀬が本来ならば長老会によって罰せられるはずだった少女を外に逃がしたのはほんの数刻前だ。よもやと思うが、その事実が露見してしまったのでは、と思ったのだった。

「ああ、いらっしゃった。お探ししました……」

 だが、馬上でほっとした風に肩で息をついたのは宗家の馴染みの老兵であった。紫藤は馬から降り立つと、「かようなお寒う格好をなさって……」と不思議そうな顔をする雪瀬に自分の着ていた蓑を差し出し、子供にそうしてやるようにくるんだ。

「馬にお乗りください。私の、……ええと前に。薫衣さまが緊急に長老会を召集したのです」
「薫ちゃんが?」

 言いながら、雪瀬がもたついたので、紫藤はいったん馬を降り、雪瀬の背を支えて馬に乗せた。自分のほうは年を感じさせない身軽な動きで飛び乗る。背後で手綱が締められた気配を感じながら、「何があったの?」と老翁に向けて尋ねた。

「わかりませぬ。私のような者には明かしていただけませなんだ。ただ、あの最長老さまが血相を変えるほどの何かが起こったようなのです」
「最長老が、ねぇ……」

 こういうときの雪瀬の返事はたぶん相手には淡白に聞こえる。だが、それは間違いであって、考えるほうに気がいくからこそ返事のほうがおろそかになるのだ。
 しばらく馬の凍りかけた鬣をいじりながら思案にふけっていた雪瀬だったが、不意に思考が別のところに繋がって、「……寒くない?」とひょいと老翁の顎を仰いだ。蓑を貸してもらったことに気づいたのだった。

「大丈夫です。私めのことはよいので、別のことに集中なさってください」

 紫藤は呆れた風に返した。

「そういえば雪瀬さま。少し前に五條さまのお屋敷で流れ者の『虱』が刺殺されたようです。手をかけたのはおそらく薫衣さま。『虱』というと……」
「情報屋だよね」
「ええ。――と」

 紫藤が唐突に手綱を引いて馬を止めたので、ちゃんと股で身体を支えてなかった雪瀬は馬の首に突っ伏すはめになった。馬の臭いがむぁっと広がり、それに少しむせながら、顔を上げる。紫藤の視線を追って、気付いた。吹雪の中をちろちろと行きつ戻りつする、青毛。薫衣の風音だ。

「かざね!」

 雪瀬が呼ぶと、影が動きを止めるのが見えた。鞍に手をかけ、ひらりと地面に降り立つ。馬に乗るのは手間取ったくせに、馬から降りるのはさながら風のごとくだった。

「雪瀬さま!」

 とっさに制止をかける紫藤の声は背で聞き、雪瀬は雪の中往生しているらしい馬のもとへと駆け寄る。

「かざね」

 いくらしなやかかつ頑強な肢体を持っているとはいえ、この吹雪である。少しばかり弱った風に、風音は差し出した雪瀬の手に頬をすり寄せる。その眸がどこかすがるように自分を見たので、雪瀬はぎくりとして、馬の背のほうへ視線をやった。ぶらんと垂れた腕が所在無く揺れている。白い雪に髪も顔も着物も覆われて、少女はぐったり風音の背に乗っていた。

「薫ちゃん?」

 その身体を抱き寄せようとして、雪瀬は目を瞠る。
 左肩に深々と刺さった矢が見えた。






「信じられない!」

 馬の足に藁沓を履かせていた百川漱(ももかわすすぎ)は今しがたなされた報告に呆れた悲鳴を上げた。藁で編んだそれをきゅっと紐で結ぶと、漱は男を振り返る。

「信じられないね。信じられないよ。五條薫衣らしき娘を見つけておきながら取り逃がしただって? 十七歳の女の子相手に何やってるのさ」
「ですが漱さま」
「言い訳は聞きたくありません。百川屈指の武人の名が聞いて呆れるね。――柊(ひいらぎ)」

 ちょうど通りがかった戦人形の名を呼び、漱は手招きした。
 血止めの役割をする薬草を籠に乗せて運んでいた柊は、漱の呼びかけに気付くと、腕を抑えていた兵に籠と布を細く切って包帯にしたものとを渡してから、こちらへ駆けてくる。

「なんでしょう、漱さま」
「森矢(しんや)がヘマやらかしたの。五條薫衣らしき人影を見つけておきながら、逃がしちゃったんだよ。おまけにあっちの兵に利き腕を斬られたときた。お前、代わりに森矢のところの兵と手勢を率いて西方向へ行き、あそこの関所を封鎖してくれる? 北は海、東は険しい森だから、最初に押さえるとしたら西だ」
「承知」

 柊はうなずき、それから少し迷った風に漱を見やった。

「――何?」
「いえ。……あの」
「煮え切らないなぁ。何?」
「はい。葛ヶ原側の動きが少し早すぎるのではないかと」
「南の関所付近に彼らが現れたことについて言っているの?」
「そうです」

 柊の言葉に、漱はしばし考えるようなそぶりをみせたが、やがて首を振った。

「たぶん、ちょっとした計算外の要素が入ったんだと思う。問題ない。行って、柊。至急五條薫衣と橘雪瀬の両名を見つけるように。手足一本くらいなら切り落としたって構わない。ただ、絶対に生きたまま、わたしのもとに連れて来るんだよ。いいね?」
「御意」

 柊はこうべを垂れると、俊敏な身のこなしで馬にまたがった。彼の掛け声に気づき、いくつかの隊が離れ、馬に乗った。吹雪の中、あっという間に見えなくなった一軍を見送り、さぁてと漱は背後を振り返る。集まった兵はすでにあたりを覆い尽くすほどの数に及んでいた。

「どうする橘一門。窮鼠に猫を噛む力は残っているかな?」

 すると、懐から現れた砂色ねずみがちゅうと鳴くので、漱は苦笑してその頭を指で撫ぜた。
 今しがた偵察から入ってきた情報によれば、橘宗家に雪瀬は不在。
 西の関所方面に柊を行かせた以上、漱が罠を張る場所はすでに決まっていた。