一章、虜囚



 二、


「ちょっとごめんね」

 雪瀬は薫衣の左肩に刺さった矢を一瞥すると、腰に差していた小刀を抜いた。着物を裂いて、あらわになった肌に目を落とす。傷口は腫れ、赤黒く変色していたが、毒が使われたときの不自然な色合いではなかった。試しに血を指で取って舐めてみるが、妙な味もしない。

「抜きますか」
「いや」

 紫藤の言葉に首を振る。毒矢ならばすぐにでも身体から取り出す必要があったが、普通の矢であるならそのままにしておいたほうがいい。むやみに抜けば、傷口からの出血で命が危うくなる。紫藤と雪瀬は当然のことであるが、怪我の手当てができるような道具をこのとき持っていなかった。
 こちらの考えを言外に読み取ったのだろう。雪瀬が征矢(そや)の矢幹を避けて少女の身体に蓑を着せていると、馬の轡を取って紫藤が進み出てきた。

「――雪瀬さま。僭越ながら、わたくし乗馬には多少腕の覚えがあります。薫衣さまを抱いて里に降り、治療のできる人家を探そうと思うのですがいかがでしょう」
「吹雪いているけど、走れる?」
「走ってみせます」
「わかった。じゃあ、かざねは俺が使う」
「……」

 一瞬、緊迫した空気におよそそぐわない沈黙と、疑いの眼差しとが返った。
 
「……の、乗れるってば。こんなもん乗り方くらい、知ってるよ」

 これに関しては別に嘘をついたわけではない。だが、紫藤はやっぱり心配そうな顔をするので、「できるよ、ねぇかざね」と馬の首をぺしぺし叩いてやる。あいにくと風音はうなずいてくれなかったが、そのとき紫藤に差し出そうと抱え上げていた腕の中で薫衣が小さく身じろぎした。

「ん……」

 固く閉ざされていた瞼が震え、眸が開かれる。しばらく茫洋とあたりを見つめていた眸は雪瀬を捉えたとたん、はっと見開かれた。

「雪瀬!」

 起き上がろうと身をよじり、薫衣はすぐに片頬を歪めた。

「動かないで。今、おろすから」

 腕の中で暴れられては困るので、雪瀬は薫衣をいったん地に下ろそうと身をかがめる。だが、それを待たずに薫衣が身を起こそうともがき、慌てて紫藤が止めに入った。
 
「だめ。薫ちゃん、傷が広がる」
「馬鹿! んなこと言ってる場合じゃないんだよ!」
「――場合じゃない? ねぇ、いったい何があったの薫ちゃん」

 雪瀬が矢を見て尋ねると、薫衣は不快げに顔をしかめた。

「……わからない。矢は、南の関所のほうに行ったらいきなり飛んできた。顔は見えなかったけど、瓦町の連中だったのかもしれない」
「瓦町……? って今颯音兄がいる」
「そのこと、なんだが」

 薫衣は唇を噛み、一時ためらうように沈黙した。その横顔がびっくりするほど張り詰めていたので、雪瀬もつられて息をひそめる。やがて顔を上げた薫衣の双眸には、強い意思の色があった。

「……颯音が」
「――颯音兄が?」
「瓦町で刑死したと、伝えるひとがいる。……真偽の程は定かじゃないが」

 背後で紫藤が息を呑む。
 その言葉は同時に、雪瀬の十五年ぽっきりの人生に決定的な断裂をもらたすことになった。

「雪瀬、いいか雪瀬。取り乱すんじゃないぞ。まだ、そうと決まったわけじゃないんだから。……そうと決まったわけじゃ、ないんだからな」

 肩を引き寄せられて繰り返される。終わりのほうになると、薫衣の声は今にも消え入ってしまいそうだった。悠久にも思える沈黙が落ちた。雪瀬は、自分を見つめる薫衣がなんだか泣き出しそうな顔をしていることに気付く。そして自分はそんな顔をされるほどひよわそうに見えるのだろうかと頭の隅っこのほうで思った。
 雪瀬が腰に佩いた刀の柄に手を這わせたのはほとんど無意識だった。ぎゅっと凍るように冷たくなったそれを握り締める。

「紫藤!」

 次の雪瀬の行動は早かった。呆然と突っ立っていた紫藤を促すと、薫衣を紫藤のほうの馬に乗せるのを手伝う。だが、ここでも薫衣は暴れた。

「待て! 雪瀬、私も行く!」
「傷が治ったらね。ごめん今は足手まとい、邪魔」

 ぽんぽんと言うだけ言って、雪瀬は薫衣を押し上げる。それから一瞬、吸い寄せられるように薫衣の頬に触れた。冷たい、すり切れた頬を手のひらでくるむ。労りにならない労りを雪瀬が彼女にした、あるいは求めたのはその一瞬だけだった。

「おねがい、紫藤」

 雪瀬が馬の首を軽く叩くと、紫藤は任せてくださいと頼もしい返事を返す。数歩後ろによけ、瞬く間に走り出した馬を見送る。雪と風とがあっという間にふたりの姿を闇の向こうへさらっていった。

「――さて」

 雪瀬は残った一頭を振り返り、苦笑にも似たなんとも形容しがたい表情を口端に載せる。

「俺の言うことを聞く気はある? かざね」




 凍えるような寒さで疲弊していたにもかかわらず、風音はよく動いた。しばしばにんじんをあげないで意地悪をしていた雪瀬のことを、今は水に流しておいてやるとばかりに俊足を見せた。むしろ、こちらの道のほうが近いと言って雪瀬が知らない急坂を駆け下りていくところはもはや『言うことを聞いていない』に属するのかもしれないが、宗家へ急ぐという目的からは外れていまい。
 
 道中、雪瀬は颯音のことを考えないようにした。感じないようにした。目を瞑るようにした。感情というものを司る線があるのだとしたら、それを引き寄せてきて感覚ごとちょん切った。ただひたすらにこれからどうするべきか、今何が起こっているのか、状況整理をしようとしていた。たぶん、時間と、あと少し多くの情報が揃っていれば、雪瀬はことのからくりを見抜けたのかもしれない。だけど、実際には時間はまったく足りていなかったし、もし見抜けたとしてもそれを防げたとは知れないのだけど。

「――そうだ、扇」

 思いついて、雪瀬は瓦町の颯音の元にやったはずの白鷺の名を呼んだ。

「扇。聞こえる? あおぎ。あおぎ。扇ってば」

 だが、雪瀬の再三の呼びかけにもかかわらず、白鷺のほうからはちっとも返事が返ってこない。これは異常だった。いつもなら、扇は雪瀬の呼びかけに応えて瞬時にこの場に姿を現すはずだ。――この肝心なときにいったいどこに行ってるのだあいつは、と舌打ちし、雪瀬は風音の鬣を指で引っ張った。

「――薫衣さまでございますか!」

 暗闇から呼び声がかかったのはそのときだった。ちょうど急坂を下りきり、宗家まであとは一本道をひた走るだけ、というところで横道から走ってきた兵と行き当たったらしい。風の加減か、一時吹雪は弱まり、割れた雲間から月がのぞいていた。

「ううんちがう、俺」
「あ、雪瀬さま?」

 男は驚いた風に目を瞬かせる。少し馬の速度を緩めて話を聞けば、薫衣とともに逃げ、途中ではぐれてしまった兵のひとりなのだという。

「薫衣さまは?」
「大丈夫。紫藤に頼んだ」
「紫藤さまなら、安心だ」

 男はほっとしたようにうなずき、馬を蹴って駆け出す。
 それを追い雪瀬も風音の腹を蹴ろうとしたのだが――、そのときひゅんと耳障りな風切音が前方でした。前を走っていた男が大きく体勢を崩し、馬から転げ落ちる。乗り手をなくして立ち往生した馬が混乱して高くいなないた。転がった男の胸に突き刺さった矢羽らしい影に気付き、雪瀬は風音が騒ぐ前に強く手綱を引いた。

「かざね」

 異変をすばやく察知し、緊張する馬の首に手をやる。身体をかがめて、飛来する矢を探すが、最初の一投だけで矢が飛んでくる気配はなく、代わりに、花紋の染め抜かれた旗を掲げる兵の一隊がそこに現れた。脇を守られるようにして進み出てきた栗毛には見覚えのある青年が乗っている。

「ほーらね、わたしの言ったとおりだったでしょう。宗家に繋がる一本道で張ってれば、どちらかで必ず見つかるって」
「……おまえ…しらかわ?」

 雪瀬の問いかけに、青年は嬉しそうににっこり笑った。

「ふふ、覚えておいでで光栄です雪瀬さま。まぁ別に、あれがはじめましてってわけでも二度めましてってわけでもなかったんですけどね」
「……これはどういうこと」

 倒れた兵に駆け寄ろうとした雪瀬を、「お待ちください」の一言で漱は制した。彼の後ろに控えた男が矢をつがえた弓をこちらに向けているのが見える。少しでも動けば弓を引く、と男の目は暗に言っていた。

「大丈夫ですよ。あなたがわたしの言うとおりにしてくだされば、弓を引いたりはしないから。ああ、でもちなみにこの男、これでも弓の名手です。的の上に乗った毛虫すら難なく射抜く」
「脅迫まがいの言葉の上、背には帝の花紋を掲げているときてる。あなた誰?」

 じっと睥睨してやれば、白川は薄く、狡猾な笑みを口元に載せた。今までの柔らかな笑い方が嘘のように消えた。

「百川法ノ家の漱と申します。やむをえなかったとはいえ、橘の宗家本流さまをお相手に偽名などを使い、ご無礼致しました」
「百川」
「ええ。きみの兄……橘の若君のことはよぅく知っている。きみがほんの幼子のとき抱かせてもらったこともあるよ。兄上に似て頭のよさそうな目をした子だと思った。――わたしとてひとの子だ。きみのような子供をこのような場所でなぶり殺したくなんかない。刀を置いて、こちらに来てくれるね?」

 雪瀬の腰に佩かれた『白雨』へ視線をやり、百川漱なる青年は言った。
 風音がすんと鼻を鳴らし、首をそらす。逃げろ、自分が必ず運んでいってやるから、と馬は言っているようだった。雪瀬は刀の柄を握り締めたまま、漱を見た。痺れを切らした風に風音が足踏みする。

「唐橋」

 こちらから目をそらさず、漱は隣の男を呼んだ。弓を引き絞っていた男が心得たように鏃を下げ、地面に転がっていた男のほうに的を合わせる。

「わたしは知ってます。きみはすごぉく心のやさしい子で、ひとを、ましてや怪我人を置いて逃げ出すことなんて絶対できない。ほら、選択を楽にしてあげたよ。こちらに来なさい」

 雪瀬は動かなかった。

「じゃあこれから十数える。もしもそれでも動かないようなら、そこの男を射殺し、きみにも矢を放つ。いいね? じゅう、きゅう、はーち、なな、ろく、ごーう、よん、さーん、にーい、」

 一。







 何か温かいものがぺろぺろと額を舐めている。
 くすぐったい。くすぐったいよ。
 ううんと首を振って逃れようとすると、また少しざらついたそれが頬を舐める。薫衣は声を立てて笑って、目を開けた。

「――……って、ネコ?」

 すぐ眼前に差し迫った猫は見覚えのない、貧相な体つきをした三毛だった。鳶色の眸が自分をじっと見つめ、頬を鼻面で押す。
 じゃれついてくるそれをいなしながら起き上がると、どうやらどこかの民家か何かのようだった。狭い室内にはぽつんと素焼きの火鉢が置いてあるだけでひとはいない。薫衣の身体にはところどころ継ぎはぎのされた掛け布団がかけられており、近くには血で汚れた包帯や薬包といったものが無造作に放置されていた。
 ――ずいぶん長いこと眠っていたのだろうか。
 身体の節々がだるく、記憶を辿ろうとすると頭の奥がずきりと痛む。何気なく胸のあたりを手で抑えると、衣越しに少し違和感を覚えた。前を開けば、真新しい色をした包帯が肩に巻かれている。それで、薫衣はすべてを思い出した。

「誰か! 誰かいるか!?」

 橘颯音はどうなったのだ。
 そして、あのあと雪瀬は。
 重い身体を引きずるようにして動かし、薫衣は土間へ降りていって戸を開こうとする。だが刹那、戸のほうが勝手に開いた。

「あら、あなた! 何を勝手に起き上がっているのです」

 手にたらい桶を抱えた少女は思いっきり眉をしかめて、薫衣の身体を中へと差し戻す。銀髪のお下げを垂らした少女――沙羅である。思わぬ娘の登場に面食らった薫衣をよそに、沙羅はたらい桶を床に置くと、「無名!」と戸から顔を出して外のほうに声をかけた。

「五條の娘が目を覚ましましたよ。隣のソメさんに頼んで、ごはんをもらってきてください。ええ、かたいごはんはだめです、できれば粥を」

 無名というあの気難しそうな男がいったいどんな顔でこの娘の指図を受けているのかは知れないが、沙羅のほうは至って明るく「頼みますね」と笑って戸を閉めた。

「さぁあなたは横になって。本当はきちんとしたお医者さまに連れて行ってあげたいんですけどもね。黒羽織がうるさくあなたを探し回っているので、ここで勘弁してください。ああ、あなたのことは皆に、無名の生き別れた妹ですって言ってありますから」
「ちょ、ちょっと待て」
 
 次々と沙羅の口から飛び出す言葉についていけず、薫衣は一度頭を整理するべくこめかみを指でもんだ。

「どうなってんだ。確か私は紫藤の馬に乗っていて……、おい皆と言ったな? ここはどこだ。なんでお前らがいる。それから雪瀬……雪瀬はどうなった?」
「まったく、起きぬけ早々矢継ぎ早ですこと」
 
 沙羅は苦笑し、絞った手ぬぐいで薫衣の額を拭いた。それで気付いたのだが、薫衣は全身にびっしょり汗をかいていた。

「五條。あなたはね、寒さと肩の矢傷からひどい熱を出してもうひと月以上生死の境をさまよっていたんです。ここは毬街の外れの貧民窟。ほうぼうの体で船の隅っこに乗ってやってきた紫藤と、たまたま――桜を探し回っていた私たちとが鉢合わせたのです。彼が葛ヶ原に戻るというので、あなたの世話は私たちが引き受けました。――ここまでは理解できますね?」
「……ああ」

 薫衣の衿を勝手に開き、沙羅は首元や胸、脇といった部分を慣れた手つきで拭いていく。自分でやる、と言ったが、私のほうが百倍速いです、と一蹴された。

「背中を出して」
「……はい」

 仕方なく、衣を肩から滑らせ、背中を晒す。手ぬぐいは身体を冷やさないようにか湯で温められていた。傷口を避けて、丁寧に肌にあてられる。

「ひと月以上と、言ったな?」
「ええ」
「……さおとは」

 その名を出すと、声が震えた。ぎゅっと手を組み合わせ、薫衣は肺腑の底のほうに重くたまった空気の塊を吐き出した。

「死んだのか。あいつは」
「おそらくは」

 沙羅の声は淡々としている。

「首が都へ送られたという話を聞きましたので」

 身体がずんと底なし沼へ落ちていくような感覚に囚われ、薫衣は息を喘がせた。ぐっと奥歯を噛む。口元に手をあてがい、薫衣は痙攣みたいにせり上がってくる嗚咽をなんとかこらえようとしたが、それでも、肩が小刻みに震えるのまでは抑えきれなかった。

「……きよせは?」

 再度声を作るにはしばしの時間を要した。
 薫衣はこぶしを握り締め、口を開く。

「雪瀬はどうしたの」
「あの子は」

 沙羅はふっと軽く息をつき、首を横に振る。

「あの子はもうここにはいません」