一章、虜囚
三、
その囚獄は大内裏から見て東に隠れるようにしてあった。
しばしば死罪の処刑場ともなる敷地は堀と練塀とで囲まれた上、常緑樹が鬱蒼と生い茂っているせいで、昼夜問わずどことなく陰鬱な気配が立ち込めている。表門をくぐると、牢役人の詰め所があり、そこで書状を見せると、鍵役らしき男が立ち上がった。終始無言の不遜極まりない態度に、官吏はむっと眉をしかめる。けれど、どうせ代々囚獄を任された陰気な輩のすることと思い直して、鍵役に続いた。
暗い通路を紙燭の明かりひとつを頼りに歩く。
鍵役にとっては慣れた道であるのだろうが、官吏はそうもいかない。両側に構える木格子から時折不気味な呻き声が響くのも官吏の気を乱していた。そのとき、不意に格子の合間から白く細い手が伸びてきたので、官吏は思わずびくっと身を引く。鍵役が舌打ちして腰に差した木刀で手をはたき返した。ごつっと骨を砕くような破壊音が鳴る。官吏はその音にも肩を飛び上がらせたが、鍵役はそ知らぬ顔だ。
やがて最奥の揚屋と呼ばれる牢の前で鍵役は止まった。眸を眇め、おもむろに格子を足で蹴りつける。それで壁のほうにうずくまっていた影が微かに身じろぎする気配があった。じゃら、と鉄鎖の落ちる音。
「餓鬼。起きろ。待ちに待った吟味だとよ」
見上げた眸が眩しそうに細められる。
光の加減か、それは淡い琥珀のように見えた。狼の目と同じ色だ、と官吏は何とはなしに思って、背筋をぞっと冷え入らせた。
*
雪瀬が葛ヶ原から都へと運ばれたのは終月(しまいづき)の終わりのことだった。
あの吹雪の日――、刀と馬とを捨てて負傷兵に駆け寄った直後に雪瀬の記憶はいったん途切れ、それから何日か飛ぶ。頭を打たれただけだったなら半日ほどで目を覚ますはずだから、おそらく薬草のたぐいを使われたのだと雪瀬は思った。瓦町というのはそういえば、薬師と毒師を多く抱える土地である。
ひどい頭痛に見舞われながら目を覚ますと、すでに漱たちの姿はなく、薄暗い蔵に大勢の兵や家人たちと一緒に押し込められていた。このとき、外のほうでは最後までやりあっていた西の関所が右と左に挟まれて陥落しつつあった。
――この件に関しては、それまで沈黙を保っていた毬街の物資や港の手配の上での協力がのちにひそかに噂されたが、水面下で黒衣の占術師と呼ばれる男と自治衆との間で度重なる調整があったことを知る者は少ない。ただ、彼らは半年後、長年の悲願であった南列島との交易権を朝廷から賜っている。
捕まった中に、柚葉(ゆずは)や薫衣の姿はなかった。
だが、颯音の刑死を覆す情報がもたらされることもまたなく、日々憔悴していく兵士や家人たち、長老たちの顔を雪瀬は眺めていることしかできなかった。――それでも、雪瀬はまだどこかで信じようとしていた。生き延びた透一が兄を連れ、ひと目を忍んで山を越える姿を瞼裏に何度も思い描いては信じ込もうとしていた。切なる願いは日を追うにつれ、妄信と化し、むしろ彼の精神のほうをぎりぎりとすり減らしていったのだが、雪瀬はそれに気付けてはいなかったし、加えて、雪瀬の表面上の意識は、かたわらの負傷兵のほうに向けられていた。胸に矢傷を負った兵は、簡易な手当てこそなされていたものの、傷が深かったのか、昼夜苦しそうに喘いでいる。頬を触ると熱い。男の額や首筋に浮かんだ汗を破った片袖でぬぐいながら、だけど雪瀬は時折、とっさに馬も刀も捨てて彼に駆け寄った自分の判断は正しくなかったのではないだろうかと、間違っていたのではないだろうかと、思うことがあって、その後ろめたい迷いに感応したかのように、男はやつれていき、最後、申し訳なさそうに謝って死んだ。
今、男の最期の顔をとりとめもなく思い返しながら、雪瀬は腰縄を引かれて評定所に向かう。見物のために道端に集ったひとびとの顔が、怒りや蔑みではなく、むしろ微かな憐れみ、それを上回る深い落胆に包まれていたことが雪瀬の足取りを重くした。時折思いついたように無言で道脇に置かれる枝は、天才風術師を悼むためにか、育てばさなりと常緑の葉を茂らせる柑子だった。
「ここでしばし待て」
庭の砂利場には筵が敷かれ、すでに捕えられた長老たちが座らされていた。どの顔も先日別れたとき以上にやつれている。促され、雪瀬は二列に渡って並ぶ長老たちの、前の列の隅に腰を下ろした。
後ろに今まで縄を引っ張って歩いてきた牢役人が立つ。
視線を少し上げると、開かれた部屋の上段に脇息だけがぽつんと三つ置かれているのが見える。ひとはいない。ただし両脇に並ぶ書き取り机には四人の書士官が座って、何がしかを書き付けていた。さらに下段には、黒羽織を着込んだ年かさの男がふたりと、見知った顔の青年――百川漱の姿があった。
そのときまだ年若い青年が入ってきて、何がしかを一同に囁く。うなずきあい、彼らは一斉に立ち上がった。反対に雪瀬たちは棒で背を叩かれ、その場に額づかされる。筵に頭を伏せつつ、雪瀬は上段をちらりと前髪に透かし見た。
最初に入ってきたのは見覚えのない細面、狐目の男である。歳はまだ若い。
次に現れたのは、反対にたぬきといった印象が強い、直衣に身を包んだ中年の男だった。出で立ちから考えるに、公家にちがいない。そこまで観察し終えたときに牢役人が雪瀬の視線に気付いて、棒で背を小突いた。こうなってしまえば、地面に突っ伏すより他ない。雪瀬は目を瞑り、着物裾を裁く小気味のよい音に耳を澄ました。腰を落ち着けたらしい人物がふ、と微かに呼気を漏らす。
「この光景はいつ見ても胸が悪くなるな。――面をあげよ」
聞き覚えのある、玲瓏たる声音に引かれて雪瀬は顔を上げる。
――黒と紫。
異なるふたつの眸と目が合った。
「まさしく橘一族最後の血か。橘雪瀬」
「――れ、い……」
雪瀬は目を瞠ってその名を口にする。
――白雨黎(しらさめれい)。あるいは、黒衣の占術師・月詠(つくよみ)。
およそ半年振りの再会になる男は、しかしあの夜と寸分違わぬ姿でそこにいた。変わったのはせいぜい目の色くらいで、五年前、否、七年、八年前からだってこの男は何ひとつ変わっていない気すらした。
「帝の傷害、謀反計画等に関わった大罪人には光明帝以来、丞相自ら評定に参加し、吟味に加わるというのが慣例なのだがな。丞相殿は本日身体の調子が優れぬというので、丞相補佐として代理にまかりこした。また、東西険使、網代あせびは南海征圧のため欠席。書士はその旨を記すように」
「は」
月詠が命じると、書士官ふたりが短く返事をして筆をさらさらと動かす。
すると、月詠の左に控えていた烏帽子姿のたぬき男が「黒衣殿」と顔をしかめて檜扇を動かした。
「丞相殿が出席できぬ場合は、評定のほうの日程を合わせるのが慣例では?」
「頴娃六年、同様の事例があり丞相補佐の代理が認められたことがある。それに半年待っても丞相殿の病は回復せんよ、玉津(たまつ)殿」
「わたしも月詠さまにさんせ―い。こんなところであれこれ言い合っても始まらない。どうせかの君は出席する気がないんだ、さっさとやりましょう」
漱がのんびりした声で手を上げる。むっと眉をひそめた玉津に「――あぁわたしはちゃんと権限があって参加しているんですからね? 彼らを捕えここまで運んだ瓦町の代表として、傍聴を」とそこは抜かりなく微笑んでみせる。まんまと玉津を黙らせてしまうと、漱は視線をこちらのほうへ移した。
「ひどい格好ですねぇ雪瀬さま。下男を捉まえて言ってくだされば、もう少しいい牢に入れてもらえるようかけ合ってみたのに。お怪我はない?」
雪瀬はちらりと漱を見ただけで首を振った。
「ない。――し、お前に心配される筋合いもない」
「なんと! 俘虜の分際でよくもまぁそのような口を利けたもの……!」
それが思わぬところに飛び火した。並んでいた男のうちのひとり――月詠の右側に控えている狐目の男だ――が舌打ちし、ばんと畳を叩いたのだ。すぐに頭上から棒か何かが振り下ろされる気配がして、雪瀬は反射的に身をすくめる。でも、目は瞑らない。
「あーちょっと。待った。待ってください」
漱が制止の声をかけたのは直後だった。
「聞くな! やれ!」
「だめです」
すんでのところで棒が止まる。ふたりの男から同時に異なった命令をされ、牢役人はどちらに従うべきか判じかねてしまったらしい。
「おい百川漱! そなた、やる気はあるのか!?」
「あります。ありますとも。ええ、瓦町を代表して詮議に参加させていただいた以上、誠心誠意尽くすつもりでございますよ。だけど、この子は橘一門の最後の生き残りなんです。大事に取り扱ってもらわないと。話を聞く前に間違って殺めてしまったり、舌を噛み切って死なれたりでもしたら大変でしょう?」
「はっ、何を腑抜けたことを」
「――いい加減に口を閉ざせ、狐。評定が進まん」
「つ、月詠さま」
狐、と呼ばれたこの男は月詠の直属の部下にあたるのか、口を挟まれるなり、それまでの横柄な態度を改めた。あまりよい顔こそしなかったが、結局浮かしかけていた腰を下ろして引き下がる。月詠は薄く笑った。
「静かになったな。――では狐」
男の視線を受けて、慌てて狐がこん、と詮議が始まった旨を示す木槌を鳴らす。お粗末なものだったが、それで書士から牢役人に至るまでが背筋をぴんと伸ばした。狐と呼ばれた男が立ち上がり、まず自分が訴訟を専門に扱う都察院におり、今日の詮議の進行役を務めることを伝える。
「さあらば、これより評定を行う! おのおの、名と年齢、出身地を述べよ」
後ろから棒で小突かれたので、雪瀬は口を開いた。
「橘雪瀬。齢は十六。出身は葛ヶ原」
「父母の名は?」
「橘八代、橘風結」
「兄は」
「橘颯音」
「それは、実兄であるか」
あちらにだってわかりきっているであろう質問の数々に辟易としてくる。
それを長老の頭数ぶん繰り返す頃には、一刻が過ぎていた。書士官は相変わらずせわしなく筆を紙の上で動かしている。
「次に訴状の読み上げと吟味に入る」
「――のが常なのだが、その前にひとつよいか。狐、玉津殿。確かめたい情報が今朝方入ってな」
狐の言葉を継いで、月詠が脇息から身体を起こした。名前や出身の確認が行われる間、あさっての方向へと向けていた視線をゆるりとこちらへ戻す。何を、と抗議しかけた玉津を制して、月詠は口を開いた。
「お前たちに少し遅れてこちらへ輸送されていた橘颯音の首だが、途中で暴徒に奪われてしまったらしい。捜索中だが、今もなお見つかっておらぬ」
これには雪瀬も動じずにはいられなかった。
兄の首が奪われた? いったい誰に?
――まっさきに薫衣の顔が浮かびはしたが、あの肩の傷でそれはありえない、と胸中で首を振る。第一、薫衣には紫藤だってついている――……
「橘雪瀬」
短い時間ではあったが、思考に没頭しかけていた雪瀬はぎくりとして身を正した。狡知な黒と紫の眸が蛇のように自分を観察していた。
「どうだ? 暴徒に心当たりはあるか」
「……ない」
「ほう。お前の目はあると言っていたがな」
「ない。下手な読心術使ってくるな」
「――ッ!」
狐がすかさず脇息を投げ出し、立ち上がりかけた。
「やめよ、狐」
「ですが月詠さま! こやつときたら――!」
「やめよと言っている。進行役なら、今少し落ち着きを持ったらどうだ」
月詠が柳眉を少ししかめると、狐は口をつぐんだ。それでもしばらくこちらを睨みつけていたが、やがて舌打ちとともにその場に座り直す。
「それにしても」
代わりに話の舵を奪ったのは玉津だった。
「橘雪瀬、あるいは長老。あちらで直接采配に関わっていた百川殿でもよい。捕まっている数が妙に少ないのはどういうことか。橘一門は確か、宗家、分家、五條、蕪木の四家から成り立っているはずであろ? 他の者はどこに行った?」
「分家の真砂くんはご存知の通り、衛兵の暁さんに撃たれて以来行方知れずとなっております。蕪木の透一くんは昨年わたしの家で死にました。それから柚葉さまは――」
「死んだ?」
思わず雪瀬は口を挟んだ。牢役人が棒を振ろうとするが、聞き返さずには、いられなかった。
「誰が、どこで死んだって?」
「透一くん。颯音さまを庇って首に傷を負ったのだけど、手当ての甲斐なく、颯音さまが果てられたあと後を追うように亡くなりました」
頭を後ろから殴られたような重い衝撃が走った。
「うそだ……」
雪瀬は弱々しく呻く。
「あのね、弟くん?」
「うそだそれは。ゆきがしぬわけない」
希望が潰えていくのを雪瀬は感じていた。この一ヶ月、自分をなんとか支えていた本当にわずかばかりの、今にも消えてしまいそうな希望がどんどん潰されていってしまうのを雪瀬は感じていた。死んでなんかない、と繰り返し、雪瀬は無意識のうちに下段の漱ににじり寄ろうと身体を動かした。
「控えよ! 吟味の最中である!」
だが、すぐにぐっと後ろから腰縄を取られて引き戻される。
視界端で漱が肩をすくめるのが見えた。
「透一くんが死んだのは本当だよ。ついでにいうと、君の妹君もすでにこの世の者じゃない」
「――……っ」
「だけど弟くん。我々が聞きたいのは君のそういう見苦しい繰り言じゃあないんだ。残りのひとり――、五條薫衣はどこへ行ったか、まずはそれが知りたいんだよね。彼女って颯音さまの首くらい奪ってのけそうじゃない」
「柚がいないってどういうことだ」
「五條薫衣の居所に心当たりは? それくらいは、あるでしょう?」
「柚に、何をした? お前だろう、あいつに何をした!?」
「かみ合わないねぇ、こっちは五條薫衣の行方を聞いているんだけど」
刹那、背をしなった笞で打ち据えられた。
焼けるような痛みが走る。さらに二回。動けなくなった。
はー、と漱は疲れたように重苦しいため息を吐き出す。
「うちの兵の報告によれば、彼女はともしたら怪我を負っていたはずなんだ。そんな彼女がひとりでどこかへ行けると思う? 葛ヶ原をしらみつぶしに探した。だけども、見つからないってことは彼女は逃げた。あるいは誰かが彼女を運んだ。違う?」
「知……る、か」
雪瀬は地面に這い蹲ったまま低く呻いた。
「俺は、彼女の行方を知らない。もし、仮に知っていたとしても、ここでおめおめ明かすほど馬鹿じゃあ、ない」
「――まったく! 兄弟揃ってなんと忌々しい!」
甲高い声で叫ぶなり、狐は激しい足音を打ち鳴らしながら板敷きを降りてきた。笞がまた打ち下ろされる。弾みに誤って舌を噛んだせいでじわりと口内に鉄錆にも似た味が広がった。地面に転がされたまま浅い呼吸を繰り返していると、やってきた男が肩を蹴り、頭を踏みつける。
「まだ子どもだと思って我慢しておれば好き勝手言いたい放題。もう見てられんわ。こやつを兄と同様磔刑に処せ! いや磔刑では飽き足らぬ! 馬に乗せ市中引き回しにした上、鋸引きにし、死体を晒し者にせい!」
|