一章、虜囚
四、
「まぁ待て。狐」
よく通る声が割って入ったのはそのときだった。
肩を怒らせる男に目配せを送り、月詠はこのとき初めて立ち上がった。着物裾を裁いてこちらにやってくると、周りが止めるのを視線で制して地に下りる。そうしてなされるがままになっている雪瀬のかたわらに膝をついた。
「今一度問う。暴徒と、五條薫衣の行方に心当たりは?」
「ない」
雪瀬は唇を引き結んで男を睥睨した。
「ほう、そうか。ではそれはあとで吐かせるとしよう」
「――月詠さま」
「無駄だ。あとにする。蔵のほうに縄と重石と蜜蝋でも用意しておけ」
いわゆる拷問器具と呼ばれる代物を並べ立てると、月詠はさらに身をかがめて、雪瀬の耳元に唇を近づけた。
「ところで、かの小鳥の姿が見当たらない。そちらはいったいいずこへやったのだ?」
「……ことり?」
「鵺(ぬえ)だ」
周りの者はこちらのやり取りが聞こえないのか、いぶかしげな顔をしている。
――ぬえ。
疼痛のせいで、ぼんやりしつつある意識の中雪瀬はぽつりとその名を口にする。
ぬえ。さくら。
口にしたとたん、柔らかな髪や熱っぽいぬくもりや澄んだ香りといったものが一緒に蘇る。今の状況とのあまりの場違いさに雪瀬は薄く嗤った。楽しくなどなかったのに、口端に笑みが載った。雪瀬は笑みを引っ掛けたまま、さぁねと嘯く。
「知らない。きっともう見つかんないね。お前に彼女は、見つけらんないよ」
彫像がごとき美しい顔がわずかに歪んだのを雪瀬は見逃さなかった。
「そうか」
顎を引くと、月詠はすぐそばに付き従っていた兵から刀を一振り受け取る。
「では、もう俺からお前に聞くことはないな。縄を解いてやろう、雪瀬」
「つ、月詠さま!?」
驚く牢役人を軽くいなして月詠が腰縄を取る。雪瀬はいぶかしんだ。だって、今は吟味の最中ではなかったのか。まだ何もつまびらかになってはいないのに、何故縄を切る。男の意図がてんでわからず、にわかに混乱に見舞われた雪瀬を置き去りに、ぶつ、と音を立てて縄が落ちる。その場に毛虫みたいに転がされ、雪瀬はなんとか未だ痺れの残っている手を地につけた。
ひゅ、と鋭い風切音が鳴る。
「月詠! だめだ!」
いつもころころと笑ってばかりいる漱が手のひらを返したような剣幕で制止する。
その声と、突き下ろされた刀が手の甲を貫くのは同時だった。目の前が真っ赤に染まる。
「っうぅぅうぅぅ……」
声にならない、けれど噛み殺しきれなかった呻き声が喉をつく。右の手のひらを貫通した刀はそのまま地面へ深々と突き立てられていた。喘いで身をよじろうとすれば、柄を押されてさらに肉をえぐるようにされる。再度手のひらを貫いた激痛に意識が飛びそうになった。
「これで無駄口も叩けまい。さぁ、吟味を続けようではないか」
ぞっと凍りついた場に向かい、ひとり平然と言い放って月詠が立ち上がる。刀は雪瀬を縫いとめたままだ。
「月詠……」
「漱。続きだ」
「だめだよ。医者を呼んで。彼が死んでしまう」
「馬鹿なことを。これくらいでひとは死なんさ」
「だとしても。彼は、刀を遣う子なんですよ?」
「それこそさらに見当違いの心配だ。虜囚に刀を握らせてどうする。ああ、なんなら右腕ごと斬ってしまうか?」
今一度いたぶるように刀をめりこませられ、くぐもった呻き声が千切れ千切れに吐き出された。自分の呼吸音がうるさくて、近くにいるはずの男の声がやけに遠い。雪瀬はもう片方の手でこぶしを握って、のた打ち回りそうになるのをこらえる。皮膚に爪が食い込んでずず、と筵にかすれた赤い線を引いた。
「き、雪瀬さま……」
隣の長老が腰を浮かせ、駆け寄ろうとする。
「動くな」
それを月詠の声が遮った。
「動けば、右手だけではなくこいつの四肢を串刺しにすると思え」
長老の目がはっと見開かれる。牢役人に棒で小突かれると、悔しそうに歯噛みして腰を落とした。月詠は薄く嗤って、長老から漱のほうへ目を移す。
「それにしても、お前は先ほどからやけにこいつに肩入れするではないか。よもや共に暮らすうちに情にほだされたわけではあるまい?」
「……まさか。ただ、わたしは無意味な流血が嫌いなだけです。あなたと違って、もっと心のあたりが繊細にできてますんで。あいにくとね」
「ほう、それは繊細が聞いて呆れるな。――まぁよい。五條薫衣の行方については、他に証言をしたいと申し出た者もおるゆえな」
証言をしたい者? 長老たちが怪訝そうに視線を交し合う。
だが、それは間を置かずしてすぐに明らかになった。ず、ず、と地面に足を擦る独特の歩調。牢役人に守られながらやってきたのは、――長老会の最長老だった。
足の悪い最長老は杖で身を支えながら、雪瀬たちの目の前を通り過ぎる。彼の息子ふたりも一緒だった。最長老が上段を仰いで膝をつき、葛ヶ原でいう最高にあたる礼をとったので、一同は唖然とした。
「最長老さま……?」
「何をやっておるのです。嘘でございましょう……?」
比較的若い長老たちから戸惑いの声が上がる。しかしそれには一顧だにせず、最長老は地に額づき続けた。
「こやつは己と家族の命欲しさに朝廷に取引を持ちかけてきた。曰く、自分は五條薫衣の行方を知っており、橘颯音の首の在り処にも心当たりがあると。そうだな?」
「ええ、そのとおりにございます」
最長老の少しかすれたところのある声が答えた。
「ではその居場所とやらを申してみよ」
「――は。ですが、その前にひとつ」
最長老は老獪さの宿った眸を月詠のほうへ向けた。
「百川漱殿、とはどの方ですかな」
「……わたし、ですけど?」
眉をひそめながら、漱が手を上げる。
ほう、と最長老は喉奥でうなずき、再び地に額づいた。
「それでは申し上げます。五條薫衣は宗家の護衛隊長・紫藤とともに葛ヶ原を逃れ――」
雪瀬は細く息を呑む。
最長老が俯いたその下でにやりと笑うのが見えた。
引き寄せられた杖が白刃をのぞかせる。
「――姑息な手段を持って我が領主を磔刑にかけた百川漱! 我らは貴様を道連れに逝く!!」
杖を引き抜くなり、最長老は御歳七十を越えた老人とは思えない俊敏な動きで下座の一番右端に座る漱に踊りかかった。仕込まれていた刀がきらりと煌く。
勝敗は一瞬で決した。
漱は、動かなかった。否――、動けなかった。武術に通じていない彼は最長老の動きを目で追うだけで精一杯で、それをかわすだけの術を持たなかったのである。代わりに動いたのは月詠であり、黒衣の袖を翻すや、近くの牢役人の腰から刀を引き抜き、それを最長老に向けて投げ打った。仕込み杖を振りかぶったまま最長老の動きが止まる。刀は最長老の、小さな身体の中央を深々と射抜いていた。ごふ、と血を吐き出し、最長老は板敷きから転げ落ちる。その瞬間、最長老のふたりの息子が隙をついて牢役人に飛びかかった。ひとりは斬られるが、ひとりは刀を奪い取ることに成功して牢役人と打ち合わせる。だが、それも長くは続かなかった。
「動くな」
月詠の制止と同時に、わたわたと背後の襖にすがりついた狐が勢いよくそれを開いた。中では女子供が数人ばかり身を寄せ合って震えている。特にまだ十歳にも届かない小さな子供には見覚えがあった。雪瀬も何度か遊んでやったことのある、最長老の孫だ。彼らを認めた瞬間、息子の動きが止まるのを雪瀬は見た。
「領主の弔い合戦とはくだらん、いかにも田舎の世間知らずどもが考えそうなことだ。こちらがその可能性をまったく考えなかったとでも? でなくて杖の携帯なぞ許すものか」
月詠は冷ややかに笑い、最長老の背中から刀を引き抜くと、女のひとりの腕を取って引きずり出した。
「やめろ! さわを離せ!」
「ああ離してやるさ。お望みどおり」
とん、と月詠は女の腕を離して、背を押す。
女が息子のほうへ走り寄ろうとする。だが次の瞬間、月詠の刀が女の背を薙いだ。驚愕に目を見開く息子へさらに一太刀。この頃には捕えられていた他の女子供も恐慌状態に陥っている。わぁっと叫び声を上げて四方に散らばった子供を衛士が追いかける。
「やめろっ!」
雪瀬は腰を浮かせた。だが、地面に縫いとめられている刀のせいで身体が動かない。舌打ちして刀を抜こうとするが、その前に月詠によって押さえつけられた。雪瀬は男を振り仰ぎ、その胸倉を左手でつかみ寄せる。
「やめさせろ! これじゃあただの虐殺だ!」
「その何が悪い。先に刀を向けてきたのはあちらだ」
男の冷酷な横顔に、希望の入る余地などなかった。
胸倉にあった左手を振り払われ、代わりに頭髪をつかんで持ち上げられる。
「いいか、お前たちあれをよく見よ。あの悲鳴を。死に様をとくと脳裏に焼きつけよ。さすれば、あるじを弔うだの忠義を尽くすだのというのがいかに愚行であるかがおのずとわかろうものだからな。――こちらの質問に素直に答えれば、無体はすまいぞ」
もとより血の気のなかった長老たちの顔がさらに蒼褪める。
まさに、これこそがこの男の狙いだったのだと雪瀬は気付いた。
注意深いこの男である、最初から、最長老に証言などさせるつもりはなかったに決まっている。だからこそ仕込み杖を黙認し、ここまで連れてきて、わざわざ漱に踊りかからせ、これみよがしに雪瀬たちの目の前で殺めたのだ。反抗を続ければ、お前たちも『こうなる』と、言いたいがために。
「愚か者の為れの果てだな」
ぽつりと月詠が呟く。
その目の前で最後のひとりが凶刃に倒れた。
ほとばしる鮮血を頭から浴びて、雪瀬は呆然とあたりを見回す。屍ばかりが無残に数体ほど折り重なって、冬の凍てついた空気の中、白い湯気を立ち上らせていた。背中から血を流す母親に抱き締められた子供の小さな手。
頭の中で何かが弾けて消える。
雪瀬は左手で無理やり刀を引き抜くと、目の前へ立つ黒衣へ向けてそれを薙いだ。
「弟くん!」
けれど、あと少しというところで後ろから伸びた腕に抱き止められる。ほんの一瞬前まで自分の身体があったところを男の刀が舞った。荒く呼吸を繰り返す雪瀬の肩を引き、漱はぴしゃりと言った。
「刀を離して。弟くん」
「いやだ……」
「離すの」
「いやだ、はなさない」
ぎゅっと握り締めた柄の先からぬるりとした血が伝い落ちる。そのせいできちんと柄を持つことができない。それに、身体じゅうが痛かった。どこもかしこも熱を持っているみたいに熱くて痛かった。ずるずるとその場にくずおれそうになって、雪瀬は地面に突き立てた刀に何とか取りすがった。今膝をつけば俺は正気を失うのだと、雪瀬は理解していた。だから膝をつこうとしなかった。立たなければならなかった。抗わなければならなかった。膝が悲鳴を上げ、視界が白濁としてきたって、雪瀬は男を睨めつけることをやめなかった。絶対に、やめなかった。
ちん、と鍔鳴りをさせて、月詠が刀を鞘に納めた。
「そいつから五條薫衣の居所を聞き出せ。あとは謀反計画にどの程度関わったのか、昨年の夜伽略奪の件、空蝉殺害への関与についてもな」
「俺は空蝉を殺してなんかない!」
「さぁ、旅籠の女将はお前たちは一緒に泊まっていたと言っていたがな。まぁ申し開きはあとでたっぷり別の者に聞いてもらえばよい」
男が命じるや、雪瀬は後ろから駆けつけた牢役人によって羽交い絞めにされ、刀を奪われる。抵抗をしようとするのだけど、瞬く間に地に組み伏せられ、腕を拘束された。
「やり方はどうあっても構わない。ただし、殺すな」
「――……月詠」
硬い声を出した漱に、月詠は肩をすくめてみせる。
「そう怖い顔をするな。殺すな、と言ってやっただろう」
「あなたというひとは……」
忌々しげに漱が表情を歪める。
「連れて行け」
牢役人が命じたかと思うと、雪瀬は漱から離され、また長老たちもおのおの腰縄を打たれて引き立てられた。半ば引きずるようにして、囚獄に戻され、しかし牢のある長屋とは別の棟に連れて行かれる。薄暗い蔵の中に放り出され、受身も取れずに尻餅をついた。顔をしかめて、あたりを見回す。
刹那、背筋にぞっと悪寒が走った。
そこは。あまりにも、血の臭いが強かった。洗っても洗っても消すことのできない臭気が床や壁のそこかしこから滲み出しているようだった。この中で無残に果てた者の怨嗟や苦悶の声が一時雪瀬の脳裏に響き、後方に流れ去った。
ず、ず、と足を擦る、最長老のものに似た歩調に顔を上げれば、空気口から差し込んだ光に照らされ、右半分が削げ落ちた男の顔が浮かび上がった。
「よう坊主」
男は中途半端にひん曲がった唇をめくらせてにたりと笑う。
「俺はここ専属の役人で半月(はんげつ)ってもんだ。どうぞよろしく――っつってもあんまり長い付き合いになるとお互いよくはねぇわな。坊主。はじめてらしいから特別に聞いてやる。笞と重石と蜜蝋。どれがお好みだ?」
雪瀬は床に這いつくばったまま笑う男の顔を仰ぐ。
一呼吸遅れて男の意味するところに気付き、皮肉な笑みが口端に載った。
「……どれもお好みじゃあないよ」
眼前では外の光が扉の閉まる音とともに細くなっていき――、消えた。
【一章、了】
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