二章、空葬の骸
一、
少女は褥から半身を起こして、ぼんやりと外を眺めていた。
首に巻かれた真新しい包帯が目に痛い。透き通った肌は今は紙のように白く、印象的な緋色の眸はさながら硬質な紅玉のようであった。生気というものがまるでない。雪を眺める少女は文字通り人形そのものだった。
「おう桜、起きていたのか」
奥のほうから男の少し低音の声がかかる。
ほどなく現れた瀬々木(せぜぎ)の手にはお椀と湯飲みを乗せた盆が抱えられていた。
「豆乳粥を作ってやったからな。たんと食え」
そう言って瀬々木はかたわらにお盆を置くが、少女は身じろぎはおろか瞬きひとつしない。相変わらずの茫洋とした表情で半開きの障子戸の先に広がる雪の庭を見つめている。人気のない、小鳥一羽いない真っ白い庭は、それを見つめている少女と同様の空虚な気配がした。
「――風か」
しばらく部屋にたゆとう静寂に呑まれたように庭を見ていた瀬々木だったが、ほどなく障子戸から吹き込む冬風に気付いて腰を浮かせた。少女の肩に持ってきた丹前をかけ、障子戸を閉めようとする。不意に、手の甲につと何かが落ちて瀬々木は顔を上げる。それは、あたたかな雫だった。見れば、少女の白い頬にすっと一筋細い涙が伝っている。声はない。ただ、静かに緋色の眸から伝い落ちる涙を瀬々木は目を丸くして眺める。
――桜はついぞ嗚咽ひとつ漏らすことはなかった。
*
外から錠をされた蔵は夜明け近くまで一度たりとも開かなかった。
そこに雪瀬が入れられてもう五日あまりが経つ。別所で吟味を受けている長老は途中で泡を吹いて倒れたりなどして、医者が幾度か駆けつけることがあったが、こちらはというと前々日に一度拷問吏が代わったきり、不気味なほどの沈黙を保ち続けているのだった。
「漱さま」
時間はまだ夜明け前に近い。起き抜けの漱が七輪のそばで、渋めに入れた茶をすすっていると、襖の外から声がかかった。よろしいですか、という声に応じてみせると、柊がそっと部屋の中に入ってくる。この青年は紫陽花の口添えもあって、漱について都へ向かう一軍に混ざることを許されたのだった。
「どうしたの? ずいぶん早いじゃない」
「漱さまこそ」
「うん、どうもね、枕が頭に合わなくてさ。ここ数日、よく眠れた試しがない」
漱は現在、都にある百川の別邸ではなく、親戚の邸宅に寝泊りをしている。そこは大路を挟んで囚獄の斜め向かいの場所にあったので、中の動きをさりげなく観察するにはもってこいだった。だが、それも前々日からはぱったり途絶えてしまっている。
「長い、ですね……」
柊は呟き、障子戸の前に立ってそわそわと視線を囚獄のほうへ泳がせた。
「中の者は無事でしょうか」
「無事は無事だろうよ。死んでしまったらそれこそ表が騒ぎ出す。第一殺してしまっては意味がないでしょ、官吏としては失格だ」
「漱さま。そういうことではなく」
いっそ冷淡ともいえる漱の物言いに、柊は若干気分を害した様子で眉をしかめた。情に厚いこの男らしい、と漱は意地悪く笑い、男を流し見る。
「ふぅん。そういうことじゃないなら、どういうこと?」
「……口添えをしていただけませんか」
「はい?」
「彼をあそこから出すようにです。あなたさまのお言葉ならば黒衣の占術師も耳を貸しましょう」
「これは驚いた。きみはいつから橘贔屓になったの?」
「漱さま」
からかい混じりに尋ねると、柊は声を固くした。
「私は……冗談を申しているわけではございません」
「だろうね。きみときたら真面目一徹なんだもの。そんなことわたしとて知っている。――だけど、あいにくと彼を助けることはできないよ。ここで連中とそりがあわなくなってしまってはわたしが困るんだ。なんか嫌味言われちゃったしさぁ、月詠はともかく玉津のたぬきなんて絶対わたしが何か言い出すのを狙ってるね」
代々中務卿を務めてきた、いわば名家である玉津が辺境の百川や橘を快く思っていないことはたやすく想像がつく。加えて、漱は宮中の中でも保守派の玉津よりは新興の月詠寄りの陣営に身を置いていた。この前の詮議といい、帝の寵愛が篤い月詠を、それまで帝に近侍していた玉津が疎んでいるのは推してはかるべし。とどのつまりが軽い敵対関係にあるのだ。
もうひとつ。懸念すべきは、近年この国の丞相が病がちで表に出てきてはいないという事実だった。出仕の回数が減っているのはもちろんのこと、先日のような重要な詮議にだって代理を立てて姿を現さない。表面上は、静かなものだけど、それは嵐の前の何とやらで、そのうち事態は大きく動く、と漱は踏んでいた。
月詠が上に立つか、玉津が先手を打つか。
橘が敗れ去り宮中に共通の『敵』がなくなった以上は何かが動く。そのようなときにいたずらに自分の足元を乱すような愚策を取るのは控えたい。
「漱さま」
そのとき何やら外が騒がしくなっていることに気付く。柊がいぶかしげな――それでいてどこか不安げな顔をして腰を浮かせた。
「待って。うちの人間なら中にひとり置いてるから、彼の報告を待とう」
柊を制して、漱は湯飲みを置き、障子戸を少し開けた。
ほどなく細く差し込み始めた陽光を肩に受けながら、早足でこちらへ駆けてくる影が現れる。地に額づいたその者からの報告を聞き終えると、柊がじっと子犬のような目で見つめてくるので、漱は苦笑した。
「しょーがないね。それならせいぜい心優しい家人のために働かせていただきますか。ほら、きみはこれを片付けておいてよ」
空の湯飲みを示して言いつけ、漱は別の家人が持ってきた下駄に足を通した。
うーんと大きく伸びをして、肩を鳴らしながらそちらへ向かう。
囚獄の奥にたたずむ拷問蔵の前にはすでに『狐』もとい嵯峨の姿があった。月詠の直属の部下――元・十人衆のひとりにあたるこの男は、朝からきちんと花紋の染め抜かれた黒羽織を着込み、神経質そうな狐目の細面に真面目くさった表情を浮かべて、拷問吏と何かを言い合っている。その口調は険しい。
「嵯峨さま」
声をかけると、少し斜視の気がある男は眉間をぎゅっと寄せるようにしてこちらの顔を見返した。その目にほどなくありありと嫌悪の感情が浮かんだので、漱は内心肩をすくめた。どうやら先日の対立が尾を引いているらしい。思ったとおりの小物だな、と忘れないよう評価を付けておく。
「お早い到着だな。百川殿はことのほか耳がいいらしい」
「嵯峨さまこそ。いやぁ都察院の長官ともあろうお方が囚獄で寝泊りをしていただなんて、役人の鑑だなぁ。お疲れですか、目に隈出来てますよ。濃いヤツ」
嵯峨ごときなら取り入る必要もないと踏んだ。
あっけらかんと微笑って返すと、漱は蔵のほうへ視線を送る。
「それで? 五條薫衣の居所はわかったんですか?」
「いや、それが……」
「あ、だめだったんだ。じゃあ夜伽のお嬢さんや空蝉さんの件は?」
「……そ、それも……」
もごもごと言いよどんで嵯峨はしまいには口を閉ざしてしまう。
ふぅむ、うまくいかなかったわけか。
漱は男からそれ以上の仔細を聞きだすことを諦め、蔵のほうへ向かった。扉は開いているが、中は薄暗くてよく見えない。ただ床にぼろ雑巾みたいな影がうずくまっていたので多分あれだろうと漱は思った。
足を踏み入れると、鉄錆にも似た独特の悪臭が鼻腔を突く。ひとの血と体液と吐瀉物の混じったそれは本当に悪臭としか言いようがない。辟易としてきて、軽く息をつき、漱はうずくまる少年を見下ろした。
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