二章、空葬の骸



 二、


 もう行くのか、と問うた。
 慣れない旅装に身を包んだそいつは小さく顎を引き、強い眸で瀬々木を見つめ返す。そこに確かな意思を感じ取ってしまったから、ここに留まれなどとは口が裂けても言い出せなかった。代わりに書簡を持たせてやる。それを持って行けば、瀬々木の昔馴染みの船宿の女将が味方になってくれるはずだった。
 書簡を衿にしまったそいつは、すぐさま戸口のほうへきびすを返そうとしたが、幾許も行かないところで不意に足を止めた。後ろ髪を引かれるような顔をして床に目を落とす。そいつが何に心引かれているのか、わからない瀬々木ではなかったから、少し苦笑をして、そいつを彼女の部屋へと案内してやった。

 襖を開ける。彼女は褥で眠っていた。朝も昼も夜も、放心したように庭を眺め続けている彼女を案じて、瀬々木が薬で眠らせたのだった。
 投げ出されたその手首に真新しい赤い痣を見つけて、瀬々木はまたやったなと内心ため息をつく。桜は瀬々木が目を離した隙に首のかさぶたを引っかいたり手首や腕を意味もなく噛んでいたりすることが近頃しばしばあった。そいつも瀬々木と同じものを目に留めたらしく、少し痛ましげに眸を眇めた。前髪を指先で梳く。この少女を頼むというようなことをそいつは口にした。
 連れて行かないのかと問うてみる。濃茶の眸を瞬かせ、そいつは困った風に肩をすくめた。そんな選択肢は最初からそいつの中には存在しなかったのだと瀬々木は気付く。そいつは彼女が自分の足手まといになることを知っていたし、そうすることで彼女の自身をも危険にさらすことを知っていた。

 かがんだそいつの手が少女の折れた小指に優しく触れた。ほんの一瞬にも満たない短い時間だったが、自分の小指を絡めたようにも見えた。指きりげんまん。そうして笑って腰を上げたそいつを瀬々木は無言で見送る。そいつと彼女が何を契ったのかは知らないが、その約束を果たすためにそいつがここを発つことは知っていた。だから、瀬々木はそいつを見送る。長年親しんだ友を見送るように。




 橘颯音の首を強奪せしめた者として五條薫衣の人相書きが至るところへ貼られるようになったのは年明けの騒ぎも落ち着き、冬の寒さがひときわ厳しくなる月の頃だった。それをはじめて目にした薫衣は喉を鳴らして嗤った。ああそうだ、そうとも。この身体が自由に動いていたらすぐにでも奪いに行ってやってたよ、と。

「五條、ほら起きて。肩の手当てをしますよ!」
「ちょー、おい沙羅。お前、橘からもらった金、ぜんぶ飯と薬草に使ってるじゃねぇか。見ろ、あと銀三枚しか残ってない……」

 お下げをぱたぱた揺らして働く沙羅のかたわらで、空蝉がしょんぼりといちまーいにまーいと銀貨を数えている。だが、長屋の隅っこで膝を抱える薫衣は、返事はおろか顔も上げない。そのうち、五條、と痺れを切らした風に沙羅が腕を取ったが、うっとおしげに身をよじって払いのける。

「馬鹿ね。そんなんじゃ、治るものも治りませんよ……」

 その声に憐れみだけではない温かな気遣いが含まれていることに気付きながらも、薫衣は固く目を瞑って、沙羅の声を無視した。



 ――あのとき。この長屋で目覚めてすぐ、沙羅に雪瀬のことを聞いたとき。
 薫衣は私を都行きの船に乗せてくれ、と沙羅に乞うた。その傷では無理だと言い切る沙羅と無名を振り払って、長屋を飛び出しもした。
 だが、少しも行かぬうちに追って来た無名に捕まえられ、長屋に引きずり戻される。派手に暴れる薫衣を無名は慣れた手つきで押さえつけ、手首を布で縛って家の柱へくくりつけた。こうなってしまっては女の薫衣にはどうしようもない。薫衣はおよそ思いつく限りの罵詈雑言を男に投げつけ、地団太を踏み、泣き喚いた。その日は一晩中そんなことをやっていたが、いつの間にやら疲れ果てて眠ってしまったらしい。朝、瞼裏に差した光で目を覚ましたとき、薫衣はもう暴れる気力を失っていた。ただ、疲れ切った四肢をだらんと投げ出し、煤けた汚い天井を見つめた。

 颯音が死んだと聞かされた直後はたぶんまだよかった。嘘かもしれないとどこかで信じていられたし、激情に任せて虱を斬り伏せ、己の責務から葛ヶ原を走り回ればよかった。だけど、今はどうだ。颯音は帰らず、雪瀬は連れて行かれ、柚葉と透一の行方はわからぬまま。自分だけが何もできずにおめおめと生き延びている。
 考えると、どうしようもなく凶暴な気持ちになって、手当たり次第に無名に盾突き、沙羅をなじってみたが、そんなものはただの八つ当たりに過ぎない。高揚を持続させることに疲れて、頭も変に冷静になってきてしまうと、薫衣の胸にはぽっかり穴があいたような虚無が広がるばかりとなった。暗闇は漠々としていて果てがない。失った存在はあまりに大きく、悲しむよりも、ひたすら途方に暮れた。

「どうして、わたしを連れて行ってくれなかった……」

 心の荒廃がいよいよ進んでくると、そんな言葉でここにはいないひとをなじってしまう。望むならどこまでだって連れて行ってくれると言ったのに。道の先にひとりすっと立つあなたの目に映るものと同じものが見たくて、ずっとずっとただがむしゃらにその背を追いかけてきたのに。追いつく前に、自分だけ遠く、手の届かない場所へ行ってしまうなんてあんまりだ。

「あんまりだよ……」

 だけど、薫衣は知っている。
 そんな風にいくらなじってみたって、私も連れて行ってと哀願してみたって、橘颯音はきっと少し困った風に苦笑して、やっぱりひとりで歩いて行ってしまうんだろうと。薫衣は、知っていた。知っていたから、余計、悲しくてたまらなかった。




 翌日、薫衣は空蝉に、毬街の五條本家への使いを頼んだ。
 薫衣の母は葛ヶ原ではなく毬街の出であり、五條本家というのは毬街でも有数の商家だった。祖母苑衣(そのえ)は毬街の自治衆を務めてもいる。
 二年前、薫衣の父が急逝した際、葛ヶ原に残って家を継いだ薫衣に対して、反発した母と妹の此衣(このえ)は五條本家に戻ったので、両者の間はほぼ絶縁状態になっていたのだが、それでも此衣とは、近頃ぎこちないながらも文を交し合うようになっていた。此衣ならば、薫衣の意を汲み、祖母に文を渡してくれると踏んだ。

 薫衣の指定した場所に、祖母の苑衣が母の篠衣(しのえ)と此衣とを引き連れてやってきたのは翌々日のことである。薫衣が人相書きまで貼られて追われている以上、五條本家にも追求の手は回ったが、彼女たち親子が二年間絶縁状態にあったことは周知の事実であり、またふた月近く何事も起きなかったことが見張りを手薄にさせていた。そこをついたのだ。

「不肖の孫、娘、姉で申し訳ありませぬ」

 薫衣は、現れた三人に畳に額づいて詫びた。縁を切ったとはいえ、五條本家に迷惑をかけ、その上今さら切ったはずの縁にすがって現れた自分である。額をこすりつけるしかなかった。矜持の高い薫衣は地に額づいて許しを乞うなど颯音を相手にもしたことがなかったが、このときばかりは地に伏したまま顔を上げることができなかった。

「い、嫌よ、ねえさま、そんなお顔をお上げになって」
「――此衣。無駄口叩くんじゃない。やらせときな」

 どすの利いた、女とは思えない声を出したのは苑衣である。
 御年七十近くになる薫衣の祖母は、しかし老齢を感じさせない颯爽とした足取りで前に歩み出ると、此衣の手をはたいてどかし、さらには薫衣の頭を手で畳に押し付けた。

「二年間顔も見せずに好き勝手やっていた孫が今さらのこのこ現れるたぁいい度胸じゃないか。このあたしを呼びつけたからにゃあ、このまま首根っこ掴まれてうちで張ってるあの煩わしい黒羽織に突き出されるくらいの覚悟はしてきたんだろうね? ええ? どうなんだい糞ったれ」

 前髪を鷲づかみにして上向かせられる。
 薫衣は片頬を歪めたが、臆することなく自分の祖母を見返した。

「してきた。奴らに渡されたらそれまでだと思った」
「やけっぱちかい。はん、男を亡くした女はすぐにそれだ。気に食わないねぇ」
「おばあさま!」
 
 耐えかねたように此衣が口を出した。今年十六になる、清楚可憐という言葉がふさわしい少女は珍しく頬を紅潮させて祖母の腕にすがりつく。

「おやめください! 何故そのようなことを……姉上を一番可愛がっていたあなたさまではありませんか!」
「うるさいね。矜持をかなぐり捨てた女になんぞ興味はないよ」
「――此衣。おかあさま」

 此衣の細腕は苑衣の豪腕には及ぶべくもなかったが、篠衣がおっとりした苦笑を向けるに至って、苑衣はちっと舌打ちをした。此衣もまた恥ずかしそうに俯き、絡めていた腕を下ろす。

「薫衣」

 喉に入り込んだ藺草で少しむせていると、母がかたわらにかがんで手巾を差し出す。だが、その表情は思いのほか厳しい。

「旦那さまが亡くなられたとき、私たちと縁を切ったのはお前です。わかっていますね、私たちはもはや赤の他人。赤の他人にいったい何を言いに来ました?」
「おばあさまに……」

 言いかけて、薫衣は首を振った。

「いや苑衣さまに、頼みがあって来た。橘雪瀬について。――捨て鉢になったわけじゃない。私は、五條薫衣としての私の責務を果たしに来た」
「よろしい」

 苑衣がにやりと笑う。
 その直後、苑衣に連れて行かれた船宿で薫衣は思いもかけない人物と再会を果たすことになる。