二章、空葬の骸



 三、


 元号が変わった。
 老帝の治世は今年で三十余年を数える。これほど長い世も昨今珍しい。
 昨年は橘の謀反やら南海地方での小競り合いやらなにぶん災い続きの一年であったので、朝廷は年明け早々、元号を改めることを決めたのだった。新しい元号は、「平栄」という。平和に栄えよ、という朝廷らしいのんびりした命名となった。その平栄元年を雪瀬は囚獄の中で迎えた。



「――まだ、目を覚まさないの? 彼」

 平栄元年の漱は大忙しであった。先年第五皇子が亡くなっていたため、今年は各地の領主たちを集めての新年の宴が控えられていたからだ。漱は初梅の季節に入ると内々に第二皇子、第四皇子――現在有力と目されている皇子たちである――への拝謁、八卿への拝謁、母の遠縁にあたる公家への挨拶と奔走した。二十六歳、若輩者の漱はこれを機会に少しでも顔を売っておきたい。ちなみに肝心の帝は馴染みの女官をツテに申し入れたものの、答えは否であり、また、皇太子である朱鷺殿下も、南海地方に出征に出かけたまま戻らなかったため、目通りは叶わなかった。
 第四皇子四季への拝謁をつつがなく終えると、漱はその足で宮城の東にある通称『赤の殿』――政務の中枢部の一角にある、月詠の執務室へ寄る。この男は今では国の丞相に次ぐ丞相補の地位にあった。整然と書物が積まれた室内で、月詠は机に向かい、何がしかを書き付けている。その姿は政務にいそしんでいるというよりは、詩歌か何かを吟じている風にしか見えない。

「ああ。もう十日だったか。囚獄吏の報告によればさっぱり反応がないそうだ」

 翡翠の硯に筆を置くと、月詠は今しがた書き付けたものを部屋の隅に控えていた小姓に渡す。まだ少年といっていい年頃の子供は、初々しい手つきで紙を敷布の上に置き、かわかすような仕草をした。小姓以外に十人衆がいるわけでもなかったので、漱は行儀悪く膝を崩し、持ってきた手土産を自分で開いた。気の利かぬこの男が自分から茶や菓子を勧めることはまずないからである。行きがけに東の朝市で買った、索餅という小麦と米を練り合わせてつくった菓子を盆に出してつまむ。

「いい加減、長いね。きちんとしたお医者さまか薬師でも呼んだほうがいいんじゃないの」
「そうだな。俺もそう考えていたところだ」

 珍しく黒衣の占術師殿から情け深いお言葉が返ってきたので、漱は目を丸くする。だが、月詠は柳眉をしかめて、こめかみを押した。

「このままではちっとも処理が進まん。伸びてる奴を吟味にかけることもできなければ、刑を執行することもできぬゆえな。あと三日四日目覚めないようなら、薬師を呼んできて気付け薬を調合させる」
「気付けって……」

 どうやら漱の言う「医者」と月詠の考える「医者」との間には激しい齟齬があったらしい。珍しくひとの言うことを聞いたかと思えば、と漱は苛立ちを通り越して呆れてしまう。
 しかし十日近く経っても目を覚まさぬというのもまた妙であった。
 何せ、漱が駆けつけたあのとき、雪瀬にはまだ意識があったのだ。どころか自分の足で歩いて、揚屋に戻りもぞした。ずるずると足が床を擦るたび、かすれた赤い線が引かれたので、手を貸してやろうとしたら思いっきり跳ね除けて返す。そのときの目。漱が差し出した小刀を投げつけてきた颯音と同じ目。
 賢明かはともかく、漱は少なからず感心したものだ。蔵篭めは大の男でも半日で泡を吹いて気を失うのが普通だというに、この子供は拷問吏のほうを先に参らせた上、自分の意思だけで立って歩いている。いかにも脆弱そうに見えたのに、違ったのだろうか。
 だが、それで放っておいてしまったのがよくなかったのかもしれない。夕刻牢役人が入るとそのときには意識を失っていたらしい。向かいの牢にいた囚人によれば、牢の隅でうずくまったままぱったり動かなくなってしまったそうだ。

「彼は何か話した?」

 注意深く探りを入れると、案の定月詠は「何も」と淡白に答えた。

「このままでは本当に殺してしまうから、しぶしぶ『吟味』をやめたというわけだ。事前に俺が殺すなと命じたゆえな」
「それじゃあ、彼のこれからの処遇は……」
「難しいところだな。まず、アレには謀反計画に関わったという証拠がない。前後二ヶ月、葛ヶ原ではなく毬街の、しかも寂れた医者の家にいたと、これは医者が自らそう言っている。空蝉殺しは旅籠の女将が首を振っているし、略奪したはずの夜伽はどこにもおらん。長老どもはどうしたって橘を庇いたがる。だから、宮中の一派は罪科云々よりも、橘颯音の弟である事実のほうを持ち出してきて、遠い島へ流せと言っている。もうこの国に帰ってくることがないように」
「その一派って具体的には?」
「中務卿の玉津を中心にした連中だ。あとは絵島……まぁこいつも玉津の従兄弟だから玉津派には相違ないが」

 中務卿の玉津派というのは宮中でもことのほか勢力を持った一派である。玉津というのは代々中務卿を輩出してきた公家の名家で、またこの中務省というのは天皇に近侍する機関であるので、他の省庁よりも権力を握りやすい。加えて、玉津の孫娘は第四皇子四季に嫁いでおり、宮中との縁も厚かった。

「玉津さまに、四季殿下ね。そっちの図式で来るかぁ」
「漱殿はあっちこっちに媚を売るのに奔走しているという話じゃないか。四季にも会ったのだろう。どうだった」

 月詠がわかりやすい嫌味を寄越したので、漱は苦笑し、そうだねぇと首を傾ける。

「ま、平凡かな。うん。実に平凡。周りに甘やかされて育てられた皇子さまらしく意志薄弱の気があるから、彼が即位したら玉津の言いなりになるんじゃないのー? まぁよいよ、それだってわたしの好む泰平の世の中だ。とはいえ」

 漱は心持ち身を乗り出して、嘯いた。

「あなたは、退屈、嫌いなんでしょ? 切り崩しに行きなよ。あなたが出るっていうんなら、微力ながらお力添えしますよ」
「穏やかでないな。詮議で心のあたりが繊細だとのたもうた男はどこへ行った」
「それは十日以上前のわたしですよ、つっきー。時々刻々、状況は移り変わるんです」
「漱」
「いいですか月詠。今は『平栄』の世。宮中に、共通の敵であった橘颯音はもういない。もう一度言いますけど、玉津のたぬきは必ず仕掛けてくるよ。橘雪瀬を流したがってる、それは他でもない、奴なりの布石だ。東の要所が玉津の手に渡ったとき、この国はまた転換期を迎えます。おそらくはわたしやあなたに悪い方向に」
 
 話しながら、漱は自分の対面に座る男を盗み見た。
 そこに、若い権力者にありがちなぎらぎらとした野心を見て取れなかったことに、失望と興味の両方を抱く。月詠は冷めていた。どこまでも。伏せがちの眸に欲はなく、代わりに人間らしいどんな願いも望みも見当たらなかった。ただ、面倒ごとを押し付けるなとばかりに煩わしそうに顔をしかめた。

「好きにさせておけばよい。葛ヶ原なんぞ俺はいらん。あやつが欲しがっているなら、くれてやる。丞相の地位も然り。お前もさほどに我が身が可愛いなら、玉津に金色の索餅でも送りにいけばいいだろう。媚を売るのが好きな漱殿にはお得意の」
「はぁ、やめてくださいよ。たぬきに菓子をやるほどわたしもおひとよしじゃありませんから。ねぇ、つっきー。冗談言っているんじゃないんですよ。わかってます? あなた、今本当に窮地に立たされているんですよ」
「それならそれも、また一興だ」

 涼しげに言ってのける。気負った風はない。
 さては本当に一興だと思っているのかもしれない、と漱は少し呆れた。そう月詠が本気で考えているなら、漱は乗る船を間違えたということだ。疼いてきたこめかみをもみ、漱は話を切り替える。

「弟くんの決議があるのは?」
「半月後」

 長いようで短い日数だ。
 月詠の助力がなく、漱が単独で動くとしたら圧倒的に日にちが足りない。

「蔵籠めを続けてみたらいかがかな」

 試しに漱は言ってみた。
 
「ほう、意外だな。漱殿が拷問を好むとは」

 月詠の返答は予想通りつれない。
 月詠の中で、雪瀬はすでに利用価値を失っていた。五日蔵籠めをして吐かぬとなれば、六日やろうが七日やろうが変わらない。おそらく雪瀬はおおかたを本当に、知らないのだ。政務に関してはこと合理的なこの男であるなら、無駄に意味のない蔵籠めなど続けず、さっさと処断を下すほうを選ぶ。漱にはそれがわかった。つまり、このまま何もしなければ、半月後に雪瀬は島流しにされ、継承者を失くした葛ヶ原は玉津派の手に渡り、東の要所を押さえた玉津は返す刀で宮中を一掃しにかかる。

「……おそらく橘颯音の首を奪ったのは五條薫衣ではないな」

 ぽつりと独り言のように月詠が呟いた。
 この男にしては珍しいことだった。

「じゃあ誰だっていうんです?」
「さて、それは奪った奴に聞いてみなければ。どちらにせよ、妙なことに利用されんうちに早く戻ってくればいいのだが。――時に、漱」

 月詠はことんと茶器を置き、顔を上げた。

「お前、何故瓦町で勝手に処刑を断行した?」

 息が止まる。ほんの一時だったが、まさしく蛇に睨まれた蛙のごとく、漱は動けなくなった。それくらい、月詠のその間は絶妙だったのだ。不自然にあいた間を茶を口に含むことで紛らわすと、次に顔を上げるときはきちんといつもの表情を取り繕って漱は言った。

「すいませんね。うちもまだまだ統率が取れてなくって。――血気盛んな若者たちが広場の真ん中に磔の樹を立てちゃったんです。そしたらやんないわけにもいかないでしょう? あなたはわたしに『橘颯音の首を』と言ったので、それでもいいかなと思ったんです」
「ほう」
 
 月詠は少しの間漱の言葉を吟味するように顎をさすっていたが、やがて口元に酷薄な笑みを浮かべた。

「ならよいが。妙な企みは、己の足元を危うくするぞ漱」
「ご忠告は、ありがたく。だけど、わたしが責務を果たした以上、あなたも早く刀斎さまを返してくれないかな」
「ああ、それなら三日前に藍に言って出させたぞ。今頃港行きの駕籠に乗っているんじゃないか」
「ちょ、つっきー!!」

 漱は思わず唖然となって湯のみを取り落とした。

「どうしてそれを出会いがしらに言わないんですか! ああもう! 馬鹿! 本当に気遣いってものがわかっていないんだからこのひとは!」

 かしましく罵しり立てると、漱はこうしちゃいられないと言って腰を上げた。
 形だけの礼をして、走り去っていく青年の背中に一瞥を送り、月詠は肩をすくめて、湯飲みを拾う小姓の少年に残りの菓子を片付けるよう言った。






 ――およそこの世の地獄というものを見た。

 幼い頃、父から投げつけられた罵倒や暴力がいかに生ぬるいものであったかを知った。最初は一回沈黙するごとに竹製の笞で叩かれた。長いことやっているうちに皮膚が裂けて笞が血でぐちゃぐちゃになってうまく叩けなくなったので、拷問吏がやってきて傷口に砂を塗りこめて火で炙った。一度火傷に覆われて出血は止まるが、生きながらに炎に焼かれる痛みは言葉で言い尽くせるものではない。意識がぼんやりしてくると、冷水を頭からぶっかけられた。いっそこのまま叩き殺すか焼き殺すかしてくれ、と拷問吏の足にすがりついて懇願したい衝動に駆られながら雪瀬は必死にそれをこらえた。胃の腑の中のものをすべて吐き出し、吐くものもなくなってくると、呻き声すら出なくなる。そのときには身体の末端の感覚もすでにおぼろになりつつあった。否、痛覚は、強烈にある。だが、それに付き合う体力のほうがなくなっていた。
 重たい瞼が落ちて視界が暗転した。



「さおとにー!」
 
 水辺の菖蒲がそよと揺れる。
 風が波打つ青い草むらに兄の姿を見つけ、雪瀬はぽすっとその背に抱きついた。そのままぎゅううと兄のおなかのあたりに腕を回してひっついていると、なぁにどうしたの、と苦笑混じりの声が降って、腕に手を添えられる。こちらの顔を見て、颯音は眸をふと眇め、腰をかがめた。ひんやりした手のひらが腫れた頬に触れる。

「雪瀬。これどうしたの?」
「竹刀が折れた」
「竹刀?」
「うん」

 微妙にかみ合ってない会話をして、雪瀬は半分に折れてしまった竹刀を兄の胸のほうに押し付ける。

「俺の竹刀、折れちゃった。ねぇ直る? 直る、颯音兄?」

 言葉を重ねているうちに、必死にこらえていた涙が溢れて頬を伝った。
 ――父親と雪瀬というのは昔から、仲が悪い。父親は雪瀬を見かけると頬を歪めるし、雪瀬は無言でそれを睥睨する。少し父の腹の虫の居所が悪ければ、たちまち喧嘩になった。雪瀬はこぶしが降ってくるのをただ待っている子供ではなかった。手元に竹刀があれば、それを自分の父の鼻先に向けた。鼻先に向けたそれがいとも簡単に取り上げられて、真っ二つに折られてしまうとは、幼い雪瀬は思わなかったけれど。びっくりして、竹刀に取りすがってびぃびぃ喚いたものだから、お約束通りこぶしが横から飛んだ。目の前がちかちかする。痛い。すごく、いたかった。けれど、雪瀬にしてみれば、大切な竹刀を折られたことのほうがよっぽど重大だった。
 ふたつに折れてしまったそれを抱え上げ、俺のしない、と雪瀬はぽつりと呟く。俺の竹刀折られちゃった。大切だったのに折られてしまった。悔しさと情けなさとで鼻奥がつんと痛む。雪瀬は奥歯を噛んでそれを耐え、耐えていたのだけど、兄を見つけたら我慢していたものがこぼれだしてしまった。

「泣かないの。雪瀬は男の子でしょう」

 兄の腰に手を回してしゃくり上げていると、大きな手のひらが降りてきてくしゃくしゃと頭をかき回した。なおしてあげるから泣かないの、と兄は言い、顔を上げた雪瀬の手を引き、瀬々木のところまで連れて行ってくれた。まったくあの馬鹿ときたら子供相手に、と呆れ混じりに呟く瀬々木の声を聞きながら、雪瀬は兄の出て行ってしまった襖のほうへ目を向ける。頬に薬草を浸した布と氷とをあてられる。終わりだ、と瀬々木に頭を撫ぜられて、兄のいる居間に戻ると、どうやったのか竹刀はきれいに元通りになって壁に立てかけられていた。
 わぁと声を上げ、雪瀬は相好を崩す。
 さすが颯音兄だと思った。竹刀くらい簡単に元通りにしてしまうのだ。
 
「さおとにー」

 ありがとうと言いたくて、兄を探すのだけど、どうしてか兄はそこにいなかった。どこ行っちゃったのかな。どこ行っちゃったんだろう颯音兄。ふらふらとあたりを少し歩き回ってから、雪瀬はなんだか疲れてきて竹刀を抱いたままことんと座り込んでしまった。そのままうとうととしていると、遠くで襖が開けられる音がした。大きな腕が雪瀬の身体を抱き上げる。背負い上げ、首に手を回させられる。ふっと呼気が漏れるのと一緒に、風の気配が頬を撫ぜた。ああ颯音兄だ、と雪瀬は思う。颯音兄だ。颯音兄がそこにいる。ほっとして瞼を下ろすと、雪瀬は穏やかな安堵に身をゆだね、眠りに落ちる。



 ――その兄は。
 磔にされ、身体のいたるところを槍でつかれ、打ち捨てられた亡骸も臓腑に至るまで山犬に喰われたのだという。兄は。俺の兄は。誰よりも誇り高かった兄は誰よりも惨めな死に方をしたのだという! 
 叩かれて、叩かれて、また叩かれるたび、胸の中にためていたものが揺さぶられて溢れ出してとまらなくなった。雪瀬は爪が皮膚を突き破るのも構わずにこぶしを握り続けた。耐えて耐えて耐えて耐えて耐えて耐えたけれど、嗚咽はみじめったらしく喉に引っかかってやまなかった。