二章、空葬の骸



 四、


「起きたー? 弟くん」

 熱くぬめった、お世辞にも穏やかとも温かともいえない眠りを歌うような男の声がすくい上げる。雪瀬はうっすら重たい瞼を上げた。蜜蝋の眩い炎心が差して目が痛む。ずくずくと鈍くうずき始めた頭を少し振って、まだ茫洋としている視線を声のしたほうへやった。

「さおとにー…?」

 なんとなく夢の続きのような気持ちで口にしてみてから、しまったと思う。鮮明になった視界。目の前にいたのは紅鳶の眸を持つ青年と黒羽織の男たちであったからだ。ぱちくりと目を瞬かせた百川漱はほどなく苦笑を漏らし、持っていた濡れ手ぬぐいをこちらの額に乗せた。前髪を軽くのけて、位置を直す。

「ごめんね。眠ってたかったのに、起こしちゃったね」
「――……いま、いつ? ここ、……囚獄か」

 罰の悪さから目をそらした場所に、雪瀬は見慣れた木格子を見つける。漱は外にいたが、牢役人と黒羽織を羽織った男は中にいて、椀や匙を薬箱にしまっている最中だった。舌裏に薬草っぽい苦味が残っていたので、何か飲まされたのかなと思う。ここの人間が自分の治療をしてくれるとは到底思えなかったが、ひとまず疑問は横に置き、半身を起こそうとすると半端なく背中が痛んだ。雪瀬は身体を庇うようにしてなんとか上半身だけを起こす。何か変だと思ったら、両腕を背中で縛られていて手が使えないのだった。

「心配しなくてよいよ。きみに飲ませたのは目を覚まさせる薬で、毒じゃない。それからここはお見立て通り囚獄で、日にちは平栄元年、二の月の十五日」
「へいえい?」
「元号が変わったんだ。きみが眠っている間にね」
「ふぅん。『へーえー』って、すこぶるつまんない名前だね」
「憎まれ口叩けるなら、まずは問題なさそうだ」

 漱は笑って、かたわらに置いてあった急須から湯飲みに白湯を注いだ。とても寒いのか、白い湯気が立つ。

「はい、どーぞ。身体は痛む?」
「今の、状況、おしえて」

 軽口を叩いて損をした。言葉をひとつ紡ぐだけでひどく体力を消費する。どうせ手が使えないのだからと湯飲みには一瞥を送っただけでいると、漱は得心がいった風な顔をして白湯を口元に持ってきた。しばらく見つめてから口で受け取る。飲まされるのは癪だったので、膝を使って支えつつ飲んでいると、「きみって本当に器用だね」とからかわれた。いつもの雪瀬であったなら、可愛げのない悪態をいくつかついただろうが、このときは億劫で、口を開く気にもなれなかった。端から少しこぼしながらも白湯を飲み干してしまうと、細く息を吐き、立てた膝に重い頭を横たえた。

「あのさ。つらいなら、横になってたほうがいいんじゃないの?」
「気―使ってんなら、はやく続けてくれないかな話」

 畳み掛けるように続ける。ひどい頭痛が思考を阻み、それがいつになく自分を苛立たせていた。牢役人が何かを言ったが、漱は苦笑して手を横に振った。

「……これからどうなるの俺。また蔵篭め?」
「さぁ、わたしからは何とも。月詠にはそういう気がないみたいだけど、ここは彼の直接の傘下じゃないからね。ただ、形式的な吟味はまだいくつかあると思うよ。それらを考慮に入れて、月終わりにもう一度詮議が催され、そこで沙汰が決まる」
「そう」
「ちなみに颯音さまの首はまだ見つかってない。薫衣ちゃんの足取りもね」
「……そう」
「もしもつらいようだったら、ここのひとに頼んで熱冷ましと痛み止めをもらうといい。そうすると、少し気分が楽になる」
「うん」

 高価な薬なんてくれるわけがないし頼まないだろうな、と思いながら雪瀬はこっくりうなずいた。すると、あちらはなんだか調子を崩した様子でそれまで流暢だった言葉を止め、うかがうようにこちらを見た。

「あのさ弟くん? 大丈夫? ちゃんと頭起きてる?」
「起きてる」
「……他に何か聞きたいことは?」
「聞きたいこと?」

 雪瀬は膝頭に頬をくっつけたまま、のろのろと青年を見上げた。

「………にー、は…」
「うん?」
「さおとにーは、ほんとうにしんじゃったの?」

 刹那、漱の顔から表情が消えた。
 つかの間紅鳶の眸に浮かんだ苦悶の色を雪瀬は見た。

「そんな顔で聞かないでよ。わたしとしたことが罪悪感でいっぱいになっちゃうじゃあないですか」

 苦笑し、漱は床に落ちていた濡れ手ぬぐいを雪瀬の額に押し付けた。




 岸に降り立ったその者の風体ははた目にも異様であった。
 まず背が大柄である。普通の人間の倍とまではいかずとも、頭ふたつぶんは飛びぬけている。次に服装が違う。男は紅の派手な着物に身を包み、さらにそこにじゃらじゃらと翠や赤の玻璃玉の首飾りや腰飾りをつけていた。男が歩くたびにそれらが音を鳴らしてうるさいことこの上ないが、子供たちにはかえって人気なようで、男が道を通るとすぐに後から子供たちの列ができる。腰には場違いなくらいに見事な大刀。鞘に金で描かれているのは双龍で、これは南海を治める網代(あじろ)一族の家紋である。

「おお、あせび殿ではないか!」

 港に停泊する南海特有の黒で塗られた船を仰いでいた男を見つけ、瀬々木は弾んだ声を上げた。あせび、と呼ばれた巨漢の男は瀬々木を認めるなり、人懐っこく相好を崩す。

「なんだ、そういうお前は瀬々木じゃねぇか。よう、何年ぶりだ? まだくたばってなかったんだなじいさん」
「続く世代がだらしないからな、まだまだくたばってはおれんよ。そうか、おやじ殿や淡(タン)殿も一緒か?」
「ああ。今、あっちで手続きを済ませてら。海紗(みしゃ)も連れてきたぞ」
「三人目か」
「淡に負けず劣らずの別嬪さんだ。まだ歯が揃ってないどころか、頭の毛もろくすっぽ生えてねぇがな。あとで見せてやる」

 あせびは機嫌よく笑い、そこで瀬々木の背にしがみつくようにして立っている少女に気付いて、大きなどんぐり目をひとつ瞬かせた。

「よう、嬢ちゃん。かくれんぼか?」

 小柄な少女に目を合わせようと、あせびは地面にしゃがみこんだ。それでやっとふたりの視線はつりあうようになる。

「俺は南海の網代あせびってんだ。よろしくな」

 握手を求めて手を差し出すが、少女は緋色の眸をゆっくり瞬かせただけだ。
 おや、と不思議に思ったあせびが子供をあやす要領で少女の頭に手を乗せようとすると、彼女はあとずさって瀬々木の背に隠れた。

「なんだ、ずいぶん恥ずかしがりやな嬢ちゃんだなぁ」
「悪い。この子今ちょっとふさぎがちなんだ。知り合いから預かったんだが、飯もくわねぇ喋らないで、家に置いておくのもちと不安でな」
「そりゃあ難儀だなぁ……。病か?」
「心のな」

 瀬々木が肩にかかった綿入りの羽織をかき寄せてやって背を押すと、桜は何も言わずに離れていった。痩せた野良猫が集まっているほうに行って、ちょこんとかがみこむ。足元に寄ってきた猫に目を落とすと、その頭をそろそろと撫ぜた。

「それであせび殿、今日は何の用事でここに?」
「ああ。もとはといえば、商談絡みでこっちへ来てたんだがな。そっちのケリがついて、いざ帰る段になったところで、瓦町の紫陽花の奴に呼び出されたんだ。会わせたい奴がいるって」
「会わせたい奴?」
「おう。自治衆の若いのと五條のばばさまも来てるらしいぜ。それと、東や南の諸領主たち。どうだ、楽しいことが始まりそうだろ?」




「そんな娘にゃ心当たりありませんなぁ」

 その日は朝がひときわ寒く、昼になっても曇り空が続いたので、毬街の川は一部が凍りついたままでいた。船頭らしき男は引き上げた船の横板にこびりついた藻を削ぎ落としながら興味なさそうに言った。

「真だな? 緋色の眸に黒髪の子だぞ」
「だから知りませんって。落雁橋の迷子石のほうへ行ったらいいんじゃないすか」

 男のそばでは削ぎ落とした藻を子供たちが集めてこねている。
 そうか、とうなずくと、無名は子供の一人に銅貨を一枚握らせ、その場をあとにした。重い息を吐く。かれこれ二月ほど、いなくなった桜を探しているのだが、一向に足取りがつかめない。子供の足だと甘く見ていたのが間違いだったようだ。ちっと舌打ちし、とにかく男の言った迷子石とやらへ行ってみようと無名は橋のほうへと向かう。
 そのとき、ふっとうなじを冷たい風が舐めた気がして無名は腰に佩いた刀の柄に手を這わせた。ぱっと後ろを振り返る。――視線。を、確かに感じた気がしたのだが、そこには船を磨く男たちの他は誰もいない。否、対岸にこちらをじっと見据える娘がいた。亜麻色の髪を肩のあたりで切った娘。娘は目元を真っ白い布で覆い隠しており、それがある種の異様さをかもし出している。
 娘の隣に立つ人影を見て、無名はむ、と眉根を寄せた。
 頭巾を目深にかぶっているせいでよく顔が見えないが――……

「あいつどこかで……」

 だが、答えを弾き出す前に、その者と目隠しをした娘とは連れ立つように翡翠宿と看板の出された旅籠の暖簾をくぐった。