二章、空葬の骸



 五、


 夕下がり、漱は宮内卿の琵琶師の屋敷を訪ねた。
 この『琵琶師』というのは、本人が常にかたわらに琵琶を置いているためにつけられたいわばあだ名のようなもので、本名はまた別にある。宮中の泥臭い派閥争いにも傍観を決め込んで琵琶を爪弾く、『中道派』を掲げる好々爺であった。

「なんだ。百川の漱じゃないか。見ないうちに大きくなりおって」

 琵琶師と百川諸家の刀斎は昔から親しくしていたため、漱もこの老人とは少なからず懇意にしている。宮内卿を相手に辺境の一領主の拝謁がすんなり通ったのはこのためだ。軽い挨拶と世間話のあと、漱は間を見計らって、話を切り出した。

「ところで琵琶師さま。葛ヶ原の橘雪瀬はご存知ですか」
「そりゃあな。細々と庁舎の奥に居座るわしとて耳に入る」

 それから琵琶師は、十年前わしの琵琶を聞きながら熟睡した子供だな、と苦笑をこぼして、膝に抱えた琵琶の絃を弾いた。





 その夜見た夢のうち、五回は暗い拷問蔵の再現で、一度だけ逃げ込むように兄の夢を見たが、最後の一回に妙な夢を見た。
 夢の中の雪瀬は小さな子供の姿になっていて、花降る中、遠ざかっていく小船を追っているのだった。木をくりぬいてできた小船には母が座り、その腕にはまだ乳飲み子の柚葉が抱かれている。奥には父親と兄もおり、唯一船端に立った暁がせっせと櫓を漕いでいた。かあさんさおとにーゆず待って、と雪瀬は全然進まない短い足をちょこちょこ動かして走る。手ごろな河原から川に飛び込むと、冷たい水が押し寄せて身体が震え上がった。泳ぐというよりは半ばもがいて船を追いかけ、ようやく暁の櫓を見つけて手を伸ばした。あかつき、船をこがないで。みんなを遠いところに連れてかないで。雪瀬は暁の腕にしがみついて懇願するのだけど、暁は、だめですよ雪瀬さま、とやんわり首を振る。脇に手を入れて持ち上げられ、空高くへと放り投げられる。遠のいていく暁の顔が言った。心配しないで、雪瀬さま。柚葉さまと颯音さまはわたしがきちんとお守りして、八代さまや風結さまのところへお運びしますから。心配しなくていいのですよ。その言葉を最後に水に落ちると、まるで足に重石でもつけられたみたいに身体が深くに沈んでいく。雪瀬は手足をばたつかせ、水面をゆらゆらと漂う光へ手を伸ばした。だが、あっけなく手は水をかき、空は遠のいていく――



 びく、と身体が大きく痙攣するように震えて、雪瀬は目を覚ました。
 あたりは薄暗い。上のほうに設けられた空気口から差し込む赤い残照が今の時間を雪瀬に教えていた。息を吐けば白くなるくらい外は寒いというのに、身体は着物が張り付くほどぐっしょり汗をかいていた。背中が痛い。さんざん竹の笞で叩かれ、焼かれた背中はそのとき悪い虫でも入ったのか、今はひどく熱を持って、弱った身体を苛んでいた。貫かれた右手に至っては感覚が途絶えてしまって久しい。加えて、昼もろくに日の差さない、夜は寒さのせいで結露した水滴も凍るような劣悪な環境では快方に向かうわけがなかった。耐えきれず、漱の言っていた痛み止めを一度乞うてもらったが、安物の薬草は噛んでもふやけた味がして、効果も少ししかもたなかった。
 雪瀬は背中を下にしないようにうずくまり直す。そのとき、床を通して微かな振動が響いた。ひとの足音。まもなく大きくなったそれが自分の前で止まったので、横目だけを上げると、木格子の隙間から木の椀を差し出された。

「ほら飯だ、食え」

 いったい何刻ぶりの食事だろう。普通だったら、死ぬほど腹が減っていてもおかしくないはずなのに、どうもそのあたりの感覚がおかしくなっている。
 雪瀬は男の無精ひげの生えた顎のあたりへやっていた視線を落として、すぐ鼻先に置かれた木の椀を見た。ほとんど水といっていい汁に稗(ひえ)がぽつぽつと浮いている。変わり映えのしない、いつもと同じ食事だ。

「俺のばばあが汗水垂らしてこさえた、大事な稗粥だ。天に感謝して食えよ」

 食事ごとに手枷を解いてくれるわけがないので、その場に這い蹲って椀に直接口をつけ、犬のようにすするしかない。幸福なことに、雪瀬はよい家柄に生まれ育った者にありがちな極度に高い自意識や矜持といったものを持ち合わせていなかった。なので、それが耐えられないほどに屈辱的であるとは考えなかった。ただ単純に食べづらいなと思っただけで、味についてはうまいのかまずいのかすら定かでない。むしろつらいのは、腹に物を入れるととたんに襲ってくる嘔吐感のほうだった。気持ち悪いというよりは臓腑をきりきりと締め上げるような熱っぽい痛み。雪瀬はしばらくかがんでそれを耐えようとしたが、やがてどうにもならなくなって、壁のほうでぜんぶ吐いた。

「おいおい、またかぁ?」

 音を聞きつけたらしい牢役人が空になった椀を取り上げながら、呆れたように呟く。

「これだから良家の坊ちゃんはやわくていけねぇ。どこに行っても、あったかい寝床と白飯が当然出ると思ってやがる」

 嫌味を言われるのもいつものことである。
 あいにくとそんなものに付き合うだけの体力はなかったので、床に突っ伏したまま目を閉じていた。一度吐けば、嘔吐感はおさまるが、代わりに体力をごっそり奪われてしまう。食っては吐き、食っては吐き。しかし食べることをやめたら、本当に、死ぬ。

「ちっ、もったいないねぇ。俺のばばあが汗水垂らして作った稗をよ。よう坊ちゃん、俺のばばあの故郷は知ってるか」

 しばらく空になった椀と壁の吐瀉物とに冷えた視線を送っていた牢役人は、おもむろに木格子を蹴りつけ、くたっとなっている雪瀬を起こした。髪を引っ張り上げられると、男の饐えた呼気が顔にかかる。

「北方だ。旧白雨領。あそこを焼きに来たのは、お前ら橘と瓦町の連中だったっけなぁ。覚えているぜ、お前の父親のすかした面。命乞いをした俺の兄貴をひゅって虫けらみたいにひと薙ぎにしてくれたんだっけなあ。阿呆みたいに血が噴き出たのを覚えてる。怯えた妹がぎゃあぎゃあ泣いてうるさかったっけ。まぁ兄貴なんざな、どうだっていいんだ、あんな自分んとこの大将の首売って、命乞いした卑怯者。なぁ、お前。いつもしけた面してんよなぁ。まるで自分がこの国中の重い運命を背負っているとでも言いたげだ。つらくて、つらくて、飯もろくに食えねぇって? 笑わせてくれるじゃねぇか。なぁ坊ちゃん、お前戦でひとを殺したことはあるか? 男に尻の穴突っ込まれたことは? 妹とかあちゃんが目の前で犯されたことは? どうだ、あるか? 死ぬほどひもじい思いをして、草の根どころか自分の糞まで口に入れて、男の一物にしゃぶりついて金を稼いだことはあるのか、ええ?」

 男は格子に寄りかかって息を吐いた。
 
「ねぇだろ。なーんもねぇお前が俺らが血反吐吐いて作った稗を捨てんじゃねぇ。お前のな、その吐いた稗粥一杯食えなくて飢え死にする子供が都にゃ五万といるぜ。足や腕を枯れ木みたいに細らせて、腹を水風船みたいに膨らませて死んでくんだ。ええ? 聞いてんのかおい」

 格子を再度蹴りつけられる。
 すぐ近くで立った大きな音に意思に反して肩が反応した。片目を上げると、牢役人は空の椀に壁際の吐瀉物を集めて雪瀬の前に置いた。

「食え」

 命令される。

「この国にゃ、こんな椀でも泣いてほうばる餓鬼がいくらでもいる」

 もとより水粥に近かったそれは胃液が混じったせいで悪臭を放つ流動物と成り果てている。とても、口をつける気分になどなれなかった。それで、ただ見つめていると、太い腕に頭をつかまれて木の椀に押し付けられる。意図せず流動物に押し込まれ、げほげほと咳き込んだ。反射的に身をよじろうとすると、頭を上からがっちり抑えつけられる。息ができない。淡い躊躇を身体的な苦痛が上回った。すでに味もわからないそれを飲み下す。すぐに嘔吐いて逆流しそうになったが、奥歯を噛んでこらえた。雪瀬が言うとおりにしたので、牢役人は溜飲が下がったらしい。手を離した。

「ふん。てめぇが吐いたもん食ってりゃ世話ねぇな。良家の坊ちゃんはもっと誇りとかそういうもんを大事にしてると思ったが、案外安っぽいんだな」

 ぺっと唾を吐き捨て、きびすを返す。
 遠ざかる足音を床に頬をくっつけながら聞いて、雪瀬は熱く重たい息を吐き出した。身じろぎをして、仰向けになる。口内が気持ち悪いので、唾を吐いて肩口で口元を拭った。途中、たいそうなことを言っていたが、なんだ所詮は腹いせと暇つぶしじゃないか。ほんの一時、今しがたの牢役人に対する反感が身体を支配したが、それも疲労と気だるさに負けて、弱く潰えた。男は力でものをいわせた。雪瀬は力に従った。その事実は雪瀬を思った以上に深く傷つけた。だから、あんまり考えたくなかったのかもしれない。とにかく疲れていた。
 
 いつの間にか日は落ち、あたりは完全な暗闇になっていた。夕餉が終わってしまえば、あとは朝まで何もすることはない。せいぜい牢役人が何度か見回りに訪れるだけだ。闇に浮かび上がった格子をぼんやり眺めているうちに、次第に意識は霞がかってきた。長い昏睡から目を覚ましてからこのかた、雪瀬は昼夜問わずうつらうつらしていることが多い。思考すら放棄して昔の夢に逃げ込んでいたり、悪夢にうなされていたりする。よい夢のあとは、たいてい悪い夢が来る。逃避する自分を責め立てるように。糾弾するように。たとえば最長老の生首がやってきて、声高に雪瀬を罵り、責め立てる。何故お前が生き残ったのだと。何故、縄で縛られ、木に架けられ、臓腑を何度も槍で突かれ、遺骸すらも山犬に食われ。そんなみじめな死に方、憐れな死に方を兄にさせたのだと。何故、どうして、たすけてやれなかった。死んだ人間たちがやってきて責め立てる。
 そんなとき雪瀬は謝ることしかできない。ごめんさおとにい、ごめんゆず、ごめんゆき、みんなごめん、ごめん、たすけられなくて、ごめん。取り囲む虚像に向かって、子供のように謝り続ける。そういう風に、夜ごとに床に額づいて誰ともなしに許しを乞う雪瀬を、囚人たちは気味悪そうに見ていた。