二章、空葬の骸



 六、


 だが数日も経つと、身体の具合は目に見えて悪くなった。熱病にかかりでもしたようにうなされ、呼吸も満足にできない。稗の浮いたお椀を置かれても、起き上がってすするだけの気力が失せていた。さすがに異変に気付いたらしい。牢役人はいつもの「これだから良家の坊ちゃんは」で始まる長口上をたっぷり聞かせたあと、やれやれといった風に息をついた。

「ま、そこに土下座するんだったら知り合いのやぶ医者くらい呼んできてやってもいいけどよ。どうする?」

 貧相に欠けた黄色い歯をのぞかせて笑う男を目だけで見上げ、雪瀬は喉奥を鳴らして一笑に伏した。物語の台詞のような低俗なことを言い出す男がいるのだな、と雪瀬は思った。嗤うつもりが反対に嗤い返され、男は何やら気分を害したらしい。唇をひん曲げると、荒々しく格子を蹴りつけた。

「おい餓鬼、何がおかしい」
「……なにも」
「お前、今笑っただろ! なんだよ! また笞で痛めつけられてぇってか!」
「囚獄というのは寝ているだけの捕虜を拷問にかける場所ですか」
「ふん。ここじゃ俺が規則だ。んなおキレイにできちゃいねぇな」

 牢役人はへっと鼻で笑うと、鍵役を連れてきて戸を開けさせ、雪瀬を引きずり出した。両腕を後ろで縛られているので、されるがままになるしかない。

「さぁて、蜜蝋と重石と笞のどれにするかな」

 鼻歌まじりの男の声を聞きながら、雪瀬は自分が満足に歩けてもいないことに気付く。視界がいびつに歪み、まるで船の中にいるかのように揺れて足元がおぼつかない。前へ進めなくなって膝をついた。臓腑に残っていたわずかなものすらも搾り出すように吐き出す。もうとうに吐くものなどなくなっていたのだけど、嘔吐感は痙攣のように背中を震わせ、おさまることがない。次第に舌がもつれて呼吸もおかしくなってきた。身体を支えようにも両手は相変わらず背中に回されているので、床に這い蹲って浅い呼吸を繰り返していると、後ろを歩いていた男が「おい」と今さら異変に気付いたらしくかたわらに膝をついた。

「ちょー、おいお前? 待て待て、本当にくたばるんじゃねぇだろうな? おい」

 肉厚な手で肩をゆさゆさと揺さぶられるが、むしろ逆効果だ。やめろと言いたかったが声にならなかったので、雪瀬は弱々しく身をよじった。ひときわ大きい痙攣が来て背中がびくっとする。ひ、と牢役人が怯えた声を上げて身を翻した。俺のせいじゃねぇからな、と言い捨てることも忘れない。放り出されて、置き去りにされたまま、雪瀬は立ち上がることも声を上げて助けを呼ぶこともできない。最後のあがきのように腕を少し動かしたが、どうにもならず、力尽きて床に倒れた。息を吸おうとすると、肺腑が熱っぽく痛む。次第に暗い闇に閉ざされていく視界を見据えながら、このまま、本当に死んでしまうのだろうかと自分に向かって問うた。こんな廊下の真ん中で、腕を縛られたまま、誰に看取られるでもなく、かといって名誉の戦死ですらなく、ただ、くたびれ果てたようにひとりで死ぬ。それはみじめで、みすぼらしく、この上なく今の自分にふさわしい気がした。にわかによぎった卑屈な自嘲に混じっていくつかの弱い感情が浮かんでは消えたが、すべては曖昧模糊としたまま重たい瞼に覆われていく。
 そのとき、ひやりとした手のひらが額に触れた。

「む、こりゃあいかんな」
 
 しゃがれた老婆の声がすぐ耳元でして、雪瀬は薄く眸を開ける。

「柊」

 老婆の呼びかけに応じて大きな腕に腹に手を回され肩に担がれるのがわかった。四肢を少し動かして抵抗をしたような気もするが、「大丈夫ですよ、この方はお医者さまのほうですからね」と老婆よりはもっと若い、耳障りのよい声に説明される。医者、という言葉を聞いて、そうか瀬々木が来たんだ、と雪瀬はのろのろと考えた。瀬々木なら心配ないと思ったので、抵抗を止めて大柄な男に身を預けた。
 
「アレ、おとなしくなった」
「医者でほっとしたんですかね」
「馬鹿め、わしの人徳じゃろ」

 三人の声がぼそぼそと囁きあう。
 牢の中に戻されるのかと思ったが、違うらしい。格子のない小さな部屋に着くと、男は畳の上にそっと雪瀬の身体を下ろした。戸口近くで牢役人と青年――あのもやしのような長身は百川漱だ――が何やら言葉を交し合っている。まくし立てる牢役人に漱が紙に包んだ何かを握らせる。硬質な音がしたので、たぶん貨幣のたぐいだろうと思った。漱が手を合わせると、牢役人は包みに目を落としてから仕方なさそうにうなずき、こちらの手首に巻きつけてあった鉄鎖を解いた。

「ひどい熱じゃな。呼吸もおかしい」

 胸や腹のあたりを無造作に触りながら、老婆が言った。

「ほら坊主、右手を出せぃ」
「瀬々木じゃ、ないの……?」

 雪瀬はたぶん周りの人間にしてみたら相当頓珍漢なことを聞いた。思えば、毬街にいる瀬々木がはるばる都にやってこられるわけがない。漱が連れてきている以上、この老婆は瓦町側の人間であると考えるのが自然で、だったら用心しなければならない、と雪瀬の染み付いた習性のようなものが警鐘を鳴らす。漱の意図を、目的を考えなくては。そう思ってじっと探るような視線を送っていると、老婆がくつくつとおかしそうに笑った。

「おぬし、まだ尻の青い餓鬼のくせにいっぱしの勝負師のような目をしておるの。そのせぜぎとやらは知らんが、わしは蓮(れん)じゃ。刀斎さまを知っておるじゃろ? その妻のしがない老婆であるから、安心せい」

 見つめる目の色だけを少し和らげて、老婆は雪瀬の右手首を取る。月詠の分厚い刀で貫かれたそこ。包帯代わりのさらしを巻きつけてあるだけの右手がどうなっているのか、雪瀬は知らなかった。雪瀬の両腕はいつも背中に回されて動けないように縛られていたから、時折ずきずきと熱っぽい痛みを伝えてくるだけで手当てをすることはおろか自分で見ることも叶わなかったのだ。赤黒くなった傷口に半ばくっついてしまっていたさらしを剥がし終えると、老婆は眉間に剣呑そうな皺を作った。

「まったく……縫合もろくにしておらなんだ。虫が入ったか、膿みもひどいの。これでは手が腐れてしまうぞ。――柊、わしの薬箱を持ってこい」

 視界端ですっと大柄な男が動く気配があった。老婆のすぐかたわらに四角い木の箱を置くと、気を利かせたのか、男は湯で温めた手ぬぐいを持ってきて雪瀬の身体の汗を拭いてくれる。大柄なわりに粗野とはかけ離れた心遣いを見せる男だなと思った。その間、老婆は雪瀬の手首を取って、人差し指と中指とを置き数を数えている風だったが、牢役人を見送った漱が対面に座ると顔を上げた。

「で、どうなんです蓮さま? 治せますか、彼の右手」
「常であるならの。じゃが、見よ、こやつ呼吸がぜぃ、ぜぃ、言っておるだろ。悪い熱を出しておる。焦点もおかしい。今、縫合なんぞすれば、先に身体の力が尽きてしまうやもしれぬ。――おい坊主、お前の話じゃ、聞いておるか」

 ひんやりした手のひらにぺちぺちと頬を叩かれ、「きーてる……」と雪瀬はかすれた声を上げる。それはよい、と蓮は微笑み、つかんだ手首を大きな手で何度もさするようにする。

「よいか坊主。今の話は聞いていたのじゃろ。どうして欲しいか言うてみよ」
「どうして、欲しいか?」
「そうじゃ」

 母親が子供に体温を分け与えるようにさすってくれる手が温かい。久しぶりに触れた人間らしい情に、雪瀬は不意にくるおしいほどの懐古に襲われた。

「さおとにー、の……」
「ほ?」
「さおとにぃのところに、いきたい……」

 手首をさする手が止まる。
 老婆がじっと思慮深い眸で自分を見た。
 そこに映る自分の目は底抜け穴のように虚無だった。力なく横たわるぼろ人形みたいになった子供がいた。その光景は、雪瀬に一瞬擦り切れかけていた理性を確かに取り戻させた。それと老婆がそばにあった布を手で裂くのは一緒だった。

「悪いね坊主」

 手を畳に横たえ、老婆は口端を上げる。

「あいにくわしは医者で、墓堀人ではない。死にかけだってまだ息をして喋ってる人間を、土に埋めてやる趣味はないね。恨むなら、わしが医者であったことを恨むがいい。よいな。――柊! 牢役人の奴から蜜蝋を一本くすねて来い! 漱は水と山盛りの布!」

 命令された男たちが「はい!」「はーい」とおのおの返事をして席を立つ。漱の紅鳶色の眸が一瞬ちらりと、うかがうような色合いを帯びてこちらを見たが、すぐに戸口の向こうへ消えて行った。薬箱から出した細身の刃を手元の蜜蝋で炙っていた蓮は、漱が水を持ってくると、煎じた薬草と、そのあと丸めた布のようなものを雪瀬の口に突っ込んでくわえさせた。

「叫ぶのはよいが、舌を噛んではならぬぞ」
「ん、」

 素直に従う。吐き出して暴れることだってできたけれど、舞い戻った淡い理性が雪瀬を現実に繋ぎ止めていた。自分がいったいどういう状況に陥っているのか、彼らが何をしようとしているのか、いまひとつ判然としなかったが、それでも、雪瀬は半ば本能のようなもので差し出された救いの手にしがみつこうとする。

「漱、いやお前は力がないからねぇ。柊。前へ回って、坊主の肩を抑えておきな」
「は、はい!」
 
 頭上に影が射し、大きな手が両肩に置かれる。蓮が右手を持ち上げるのがわかったので、雪瀬は大きく息を吸って、ぎゅっと目を瞑った。左手でこぶしを握りこむ。