二章、空葬の骸



 七、

 
 それでも、膿んだ傷口に直接触れられ、患部を刃で抉られる痛みというのは到底耐えられるものではない。雪瀬は我を忘れて叫び回るということはしなかった。それは絶対に、しようとはしなかった。けれど、獣のような呻き声は耐えられず切れ切れに喉から漏れた。布のごわついた繊維を飲み込んでむせそうになる。ともしたら壊れるんじゃないかというほど強く奥歯を噛んで、一緒にこぶしも握りこむ。力の加減もせず、皮膚を爪が突き破るくらい無茶苦茶に握り締めていたら、不意にひんやりした手にこぶしを取ってくるまれた。
 ――その、武人のものではない柔らかな皮膚を持つ手のひら。
 雪瀬はそれがどうしてかここにいるはずのない少女のものに思えた。幻想だと雪瀬は思った。彼女は雪の降る東の地に置いてきた。ここにはいない。たとえ、いてくれたとしても、彼女はもう二度と自分を傷つけて置き去りにした男の手を握ってはくれないだろう。だけど。だけど。雪瀬は欲していて。くるおしいほどに今、その手を欲していて。ここに、いて、ほしかった。幻でも夢でもそこにいてくれるのなら、ともしたら発狂しかねない、この灼熱のような痛みも和らぐ気がした。だから雪瀬はその手を、深い暗闇に細く差し込んだ光をたぐるように引き寄せて、握り締めた。とたんに返ってくる確かな感触に、安堵よりももっと強く激しい、泣きたくなるような衝動が身体に押し寄せる。うれしくて、くるしくて。さびしくて、さびしくてたまらなかった。


 かちゃんと何かが置かれる音がした。
 それまであった肩の拘束が緩む。

「終わったよ」

 水膜で隔てられたような遠いところから老婆の声がして、雪瀬はゆるゆる目を開いた。口にくわえさせていた布を蓮が取ってくれる。血と唾液でぐしゃっとなったそれは何度も噛み締めたせいでぼろぼろになっていた。繊維を喉につまらせて、軽く咳き込む。柊が漏斗のようなもので水を飲ませてくれた。冷たい水がひりひりした喉に心地よい。

「――俺の右手、もとどおりになる?」

 ずっと気になっていたことを聞いた。
 まだわからんよ、と蓮は苦笑気味に首を振る。それでもきちんと縫合はしてくれたのだろう。雪瀬は小さく息をつき、緊張の糸が切れたからか急に重くなってきた瞼を閉じたり、思い出したように開いたりを繰り返した。

「疲れたでしょ。もういいよ、眠って」

 大きな手のひらが瞼の上に置かれる。視界を覆うひんやりした暗闇が心地よくて、雪瀬はとろとろ意識をまどろませた。なんだ死にたいとか殺してくれとかさんざん言って、結局生き残ってるんだなぁと思う。雪瀬はいつもそうだ。それから、――ああ俺。兄を磔にした男にたすけられてんのか。そう思うと、少し嗤えた。




「眠ってしもうたか」
「ですね。気を失ったっていうほうが近いんじゃないかな」

 漱はうなずき、蓮が薬湯に布を浸けているのを手伝う。
 
「いやはや、聞きしに勝る可愛げのなさよのう。本当に、悲鳴ひとつあげないのだから」

 呆れた風に呟く。蓮がこんな声を出すのは珍しい。それは漱も同じで、ほんの少し前まで兄のところに行きたいなどと弱音を吐いていた子供が、蓮が治療を始めるや、眸に鮮烈な強い意思のようなものを滲ませて必死に声を殺そうとするものだから、なんだか驚くのを通り越して戸惑ってしまった。本当なんなのかなぁ、と独り言ともつかない言葉を口にし、漱は己の手のひらに残ったひっかき傷を眺めた。




 南海の網代あせびが先日の評定に出られなかった詫び状とともに寄越した黒砂糖があったので、藍はそれを一袋と、熟した柑子を幾つか月詠から持たされ、中務卿の玉津の屋敷へと足を運んでいた。新年の挨拶が遅れてしまった詫びも入れるようにと言い含められている。他の十人衆たちは宮中の古黴のような玉津をことさら嫌っていたので、藍がこの役目を賜ったのだった。今の季節にふさわしい濃紅の梅が枝の描かれた小袖に身を包み、藍は玉津の屋敷の門を叩いた。そこの下女とはすでに知己であったし、事前に文を遣わせていたこともあって、さほど待たされることなく中へ通されるものと踏んでいたのだが、案内されたのは控えのほうの客間だった。どうやら先客がいるらしい。

「いったいどなたがいらっしゃっているのですか」

 馴染みの縁でそれとなく下女を探ってみる。
 菜子(なのこ)と呼ばれる下女は当たり前のように言葉を濁したが、そのとき、当の玉津本人から使用人を呼ぶ声があった。客が帰るらしい。下女が飛んでいくのを見送りつつ、御簾からちらりと外のほうへ目をやる。まもなく微かな足音がして、簡素な茶羽織に身を包んだ貧相な小男が姿を現した。ぎょろりとした目にこけた土気色の頬、突き出た前歯、まるで鼠男のような外見には見覚えがあった。確か霧井のほうに居を構えている商人だ。藍も何度か月詠の使いで訪ねたことがある。男の扱っている「商品」は偽の通行手形やら夜伽人形やら、いわゆる正規では手に入らない、闇の経路のものばかりであった。およそ中務卿につくような良家に出入りする輩ではない。
 足早に通り過ぎていく小男を目で追い、ふぅんと藍は思案げに顎に手をやる。賢しげな光がその目に宿ったのは一瞬で、そのあとは何食わぬ顔で下女を待った。


「どうぞ、こちらへ」

 四半刻ほど待たされただろうか。ようやく下女に呼ばれて客間に通される頃には、着物端にすっかり皺がついてしまっていた。それをさりげなく直すと、新年の挨拶が遅れてしまったことを最初に詫びて、藍は黒砂糖と柑子とを玉津に差し出した。まだ小さな孫を膝に抱いた玉津は、このあたりでは珍しい黒砂糖にたいそう喜び、月詠に篤く礼をするよう言った。

「史(ふみ)殿は甘いものに目がありませんから」
「鬱金(うこん)。年明けに落雁を詰めすぎてむせたのはどちらじゃ」

 相変わらずの仲睦まじさで正室の鬱金と玉津とは言葉を交わしあう。玉津は貴族にしては珍しく、正室以外に側室を持っていない。ただひとり、この鬱金との間に八人もの子をもうけた。面倒見がよいのは昔からで、都に来たばかりの頃は藍も鬱金や下女の菜子によくしてもらった。玉津と月詠とが図らずも宮中でしのぎを削るようになってからは自然、疎遠になってしまったけれど。

「そうそう、藍さま。先日、紫陽花大路の小物屋で可愛らしい桜彫りのなされた櫛を見つけましてね」

 鬱金はほとりと手を打ち、下女の菜子が止めるのも聞かず、美しい紅梅の唐衣を翻して飛んでいってしまった。もう三十を越えるというのに、このひとはいつになっても貴族の姫らしい無邪気さが抜けない。蒔絵の小箱を腕に抱いて、藍さま、藍さま、とやってきた鬱金は宝物を見せる少女のようだ。

「鬱金。あまり急ぐと転ぶぞ」
「転びませぬ。鬱金はもうお転婆娘という年ではありませんもの」

 むきになって言い返し、鬱金はほら、と言って、漆塗りに桜の花と月とが描かれた櫛を藍の髪に挿した。

「史殿。ね、似合いますでしょう?」
「ほう。黒髪に桜がよう映えてほんに綺麗じゃ」

 玉津がうんうんと目元を優しくしてうなずく。
 穏やかに言葉を交わしあうふたりをよそに、藍はそっと目を伏せた。


 玉津夫妻とはそのあともしばらくたわいもない話をして、土産に西の大陸から取り寄せたという珍しい白砂糖もいただき、屋敷を出た。下女の菜子も何がしか用を言いつけられたのか、腕に小さな風呂敷包みを抱いて門をくぐる。

「玉津さまと鬱金さまは相変わらず仲がよろしくていらっしゃるのね」
「ええ、本当に。あのおふたりは見ているこちらが妬けますわ」

 くすくすと明るい笑い声を立てて菜子は風呂敷を抱き締めた。

「――お使いですか?」

 今初めて目をついた、という風な顔をして、尋ねる。
 詳しい用件は聞かされなかったのかもしれない、菜子は曖昧に笑った。

「囚獄に届けるようにと。嫌だわ、私、あそこは嫌い」
「そうね。あそこはなんだか薄気味悪いわね」
「藍さまもそう思う? 前にあそこを通りかかったら、男の呻き声が聞こえてきてたいそう怖かったの」
「まぁ」
「牢役人も頬におっきな傷があって、すごく無愛想なのよ。ああ本当に憂鬱。夕方から塩崎さまとお会いする約束をしていたのに」

 長い睫毛を伏せて、不満げに唇を尖らせる。
 塩崎というのは菜子と恋仲の下男である。先ほど玉津を待っている間、別に聞いてもいないのに、かしがましく男の話ばかりをしてきた。

「なら、私が届けて差し上げましょうか」

 藍はあくまでもさりげなさを装って提案した。はた、と菜子がこちらを振り返る。その表情に微かな警戒がよぎったのを瞬時に読み取り、藍は苦笑した。

「いえ、深い意味はありませんのよ。ちょうど私もこのあと囚獄の近くに立ち寄るつもりでしたから。ほら、瓦町の漱殿はご存知でしょう? 少し前からあの方、囚獄に近い母方の実家に滞在してらっしゃるのよ」

 実際、漱のもとを訪ねる予定などない。菜子の警戒心を解くためだけに使った方便であった。しかしそれは藍の予想通りの効果をもたらしたらしい。菜子の表情が次第に綻んでいく。昼夜鬱金だけを相手にしていればいい菜子は、月詠と玉津の確執などろくと知らない。否、知ってはいるが、その意味に思考をめぐらせることはないし、そうであるから、月詠の十人衆である藍に玉津の使いの品を渡すことの恐ろしさもわかっていない。なんて無邪気で、怠惰な娘だろう。犬は飼い主に似るというが、なるほど、菜子と鬱金には同色の気配があった。

「それじゃあ……頼んでもいいかしら。玉津さまには内緒で、ね?」
「もちろんよ」
 
 藍にとってもそちらのほうが都合がよいには違いない。
 が、せいぜい藍は仕方ないといった風に微笑ってやり、菜子の歓心を買っておくこととした。東大路に入る角のところで手を振って別れる。藍は何度も振り返っては手を振る菜子を優しく見送ってやり、その小柄な影が角に消えたのを見届けてようやくきびすを返した。その顔にすでに笑みはない。築地塀に背を預け、念のため尾行などがついていないことを確認すると、すばやく菜子から預かった風呂敷を開いて中を確認する。入っていたのは小さな懐紙だった。綺麗に畳まれたそれを指で押し開く。指先にわずかに付着した白い粉に顔を近づけ、臭いを嗅いだ。無臭。――これでは、わからない。藍は眉根を寄せ、そこで自分の足にまとわりつく黒猫に気付いて、にっこり笑った。

「ほらお舐め」

 かがみこみ、黒猫の頭を撫ぜながら指先を口元に近づける。赤い舌がぺろりと白い粉を舐めた。首に鈴がついているから飼い猫なのだろう。野良にはない人懐っこさでぺろぺろと藍のかじかんでしまった指先や手を舐める。その手に、びしゃっと吐瀉物が散ったのは直後だった。猫は首をねじ曲げるようにぐるぐる振って、地面に頭をぶつけ、壁に身体をこすりつける。そのうち、血をしとど吐いて倒れた。息絶えた猫を冷めた目で眺めやり、藍は牛車が大きな音を立てながらこちらに向かってやってくるのに気付いて、小さな死体を抱え上げた。道端にそっと猫を横たえ、吐瀉物にまみれた手を懐紙で拭くと、何事もなかったかのように腰を上げる。



「中務卿玉津さまの使いの者です」

 囚獄にたどりつくと、表門で見張りをしている兵にはそう名乗った。
 鬱蒼と葉の茂る囚獄の外観は相変わらずで、牢役人の無愛想さもまた変わらなかった。中に通される。詰め所ではなく、すぐに中に併設された牢役人の屋敷へ案内されたので話はすでに行っていたのだろう。藍は囚獄に足を運んだのは初めてであったから、当然現れた牢役人と顔を合わせるのも初めてのことだった。

「玉津さまに使いを頼まれ、まかり越しました」

 表で言ったのと同じことを告げ、綺麗に包み直した風呂敷を差し出す。
 牢役人は眉をぴくりとも動かさずそれを受け取ると、蓋を少しだけ持ち上げて中を確認した。藍とは違い、すぐに見当がついたらしく、くっと皮肉げな笑い方をして蓋を閉める。

「玉津さまも温厚そうな顔をして恐ろしいことをなさる」
「これまでも何度か?」
「『何度』で済むかね、たぬきめが」

 牢役人は蛇のような細い眸を眇めて、毒づいた。藍が玉津の使者を名乗ろうが、関係ないらしい。囚獄の獄吏は代々ひとつの家が世襲する。それ以上の栄達はなく、さりとて凋落もない。彼らのこの不遜ともいえる態度は身の安全と将来への諦観から出てくるものなのだろう。
 ふと、面白いことを考え付いた。藍は衿元にしまってあった銀貨を一枚、おもむろに差し出して畳に置く。牢役人がちらりとそれに目をやり、視線をこちらへ上げる。藍は取り澄ました表情で「それにしても」と言った。

「憐れでなりませんね。それを粥に混ぜられる者とやらが」
「おやおや、使者殿はお優しい」
「歳は、ええ。いくつでしたか」
 
 藍が探るような視線を向けると、牢役人はにっと口端を吊り上げる。

「やぁ、いくつだったか。五十の老翁だった気も、二十の青年だった気も……、ああ近頃記憶が悪くてよくない」

 とんとんと畳を指でつく。
 ――お前こそたぬきめ。
 思い切りなじりたい気分に駆られながら、藍は「まぁそれはよくありませんね」と声音だけは平常を取り繕って、銀貨を一気に三枚重ねた。硬貨の涼やかな音が響く。それで、牢役人はこめかみを抑えていた手をするりと外した。

「ああ、思い出した。まだ十六のいけ好かない餓鬼だったな」
「……十六の」
「そう十六の」
「東の少年ね」
「さぁ、東だったかな。俺は無知だから地図が読めない」

 牢役人は狡猾に笑い、銀貨四枚を懐に納める。
 そう、と顎を引き、藍は鬱金に持たされた蒔絵の小箱を取り出した。中に収められていた桜と月の描かれた櫛を差し出す。

「お前にやるわ」
「値打ちもんだな。漆の色が違う」
「ついでにこの蒔絵もつける」
「……口止め料にしちゃあ弾みすぎだが」
「そうね。口止めついでに、今後一切玉津からの届け物は受け取らなければそれでいいわ」

 藍は感情の籠もらない声で告げると、立ち上がった。牢役人は細い眸を眇めて、「旭」と見送りの下男を呼んだ。



 都の東には大きな川が流れていて、そこに各地の港から積み荷が運ばれてくる。集められた積荷を下ろすのに忙しい船着場を横目に、藍は川沿いの道を歩き、自分がいっとう気に入っている桜の古木を見つけて足を止めた。桜の蕾はまだ固く、花開くにはまだひと月以上の月日が必要そうである。どこか寒々しい枝から目を外すと、固い焦げ茶色の幹に触れる。頬をすり寄せると、ほんのり温もりが伝わってくる気がするから不思議だ。
 幼い頃、樹に触って、この樹にも虫や猫やひとと同じように命があるのだと教えてくれた男がいる。月詠である。さして感慨のなかった藍に比べ、隣の子供はいたく興奮した様子で目を輝かせた。樹に頬をこすりつけて、日が暮れるまで楽しそうにそうしていた。ひとつ年下の、素直で、心がとても優しくて、どこか危なっかしいところのある彼を放ってはおけなかったから、仕方なく藍も彼の隣で同じように樹に耳をくっつけていた。幸せそうに目を細めている彼を見ていると、それまで冷たかった木肌がとくんと脈打った気がした。
 衿元から懐紙を取り出して、夕陽に透かす。捨ててしまいたかったのだけど、猫が血を吐いたそれを桜の樹の下に埋めることはできなかったから、手の中で少しもてあそぶはめになる。牢役人に渡した硯箱には、白砂糖入りの懐紙が入っているだけだ。桜と月の櫛。それなりに気に入っていたのに、あれもやってしまった。

「何をやっているのだろう、私」

 ぽつりと呟く。
 冷たくなってきた風で凍えた肩を抱き、固く目を瞑る。
 ともあれ、玉津が橘雪瀬に白い粉を送ろうと目論んだ事実と、その白い粉で猫が血を吐いて死んだ事実は月詠に伝えておかねばならなかった。銀貨四枚は情報料としては高いが、仕方あるまい。意識の表層では怜悧に思考をめぐらせながら、玉津と鬱金の和やかなやり取りをなんとはなしに思い出す。そして櫛を髪に挿し恥ずかしそうに微笑む自分。――そう、どちらもたぬきというだけのこと。思えば、笑えたし、笑うと、心は少し軽くなった。


 その晩、玉津の件を報告すると、黒衣の占術師は香炉からくゆり立つ香をのんびり味わいながら、さていかがするかな、と呟いた。