二章、空葬の骸



 八、


 梅匂ふ月の半ばが過ぎても、春の気配はなかなかここ毬街に訪れることはなかった。代わりに大きな牡丹雪が夜明け方からずっと降り続いている。
 桜は肩にかけた綿入りの衣で痩せた老犬を包むようにしながら、ちらほらと降る雪を見上げていた。薄茶色をした老犬は身体が温まってきたせいか、小さな眸をとろとろさせている。桜が頭に顎を乗せると、濡れた鼻面をついと動かして押し当ててきた。

 先日、激しい嵐が毬街一帯を襲ったときであった。
 濡れ縁の下に何か気配があるのに気付いて覗きこんでみたところ、奥のほうにもぐりこんでふるふると身体を震わせている影がある。雷が鳴るたびそれはびくっと背中を震わせ、より縮こまるようにする。桜は手を伸ばして、その泥だらけの塊を引きずり出した。それは痩せて、もう年のいった老犬で、右足に深い傷を負っていた。ひどくか細い息をして凍えていたので、桜はお湯を沸かして温めた湯で身体を洗い、傷口に入り込んだ砂利をかき出し、身体を拭いて、そのあとは火鉢のそばでずっとさすってやっていた。瀬々木はその日家にいなかった。
 桜に命を与えられた老犬は以来、桜にとても懐いていて、びっこを引き引き桜を追いかけてきては顔を寄せてどこかれ構わず舌で舐め回す。夜はふたりで身を寄せ合って寝た。



「――ずっと何も口にしてないってそれ本当なの?」

 濡れ縁にちょこんと座り込んだ少女の横顔に一瞥をやり、船宿『翡翠』の若き女将・咲(さき)は呆れた声を上げた。昔なじみの女将が差し出した茶を受け取り、瀬々木は苦い顔をする。

「ああ、そうだよ。俺が毎日腕によりをかけて作ってる飯をあいつめ」
「ご愁傷さま。でも犬に餌はやってるんでしょ?」
「まぁな。自分のぶんの飯、ぜんぶ犬にくれてやって隣でずぅっと見てる。ときどき俺は桜じゃなくて犬に飯を作ってるんじゃないかって勘違いするくらいだ」

 ぶつくさと不平を垂れているさなか、桜の腕に抱えられていた老犬が甘えるような声で鳴く。桜はその声を聞くだけで老犬が何を求めているかわかるようで、部屋の隅に置いてあった豆乳粥を持ってきて、ことん、と犬の前に置いた。平たいお椀に犬が顔を突っ込んで汚く食べるのを、板敷きに腹ばいになってじぃっと見つめている。老犬が腹を膨らませていくにつれ、少女の緋色の眸がやさしくまろんでいくのが見て取れた。

「――な?」

 瀬々木は苦笑混じりに視線を咲のほうへ戻す。
 ふぅん、と咲は何かを考え込むように顎に手を当てていたが、ふと手元で茶葉を寝かせていたことに気付いたらしい、いけないと呟いて湯飲みに注ぐ。南方で手に入れたのだという果実茶はほんのりと甘い香りがした。深く息を吐き出すようにして茶を味わう瀬々木に、咲が衿元から書状を取り出して無言で渡す。視線で問うが、説明はない。開けると、見慣れた流麗な筆跡で、五條薫衣と再会した旨、それから短く今後のことが書かれていた。瀬々木に頼まれたのは都行きの船の手配だ。

「あいつは今、お前んとこにいるのか」

 ぽつんと呟くと、咲は口元を緩く引き上げたまま目を伏せて是と答えた。女将である咲はそれ以上を口にしなかったが、先日翡翠宿に網代一族の長・網代あせびが入っていったこともきっと偶然ではあるまい。瀬々木の脳裏に、決意を秘めた端正な横顔がよぎった。

「あの子、腕のところどうしたの?」

 咲の女性にしては低めの声が暗く沈んだ瀬々木の思考をすくい上げる。軽く目を瞬かせて顔を上げると、咲は自分の手首のあたりを示していた。どう答えるべきか少し考えてから、瀬々木は結局うなずいた。

「ちょっと噛み癖があってな。でも、今は落ち着いた」

 咲がちょうど指し示したところ――桜の手首から腕にかけては白い包帯が幾重にも巻かれている。噛み癖、とたとえてみたが、桜は一時期犬が自分の毛をむしってやまなくなるみたいに自分の腕や手首をかきむしったり噛んだりするのを繰り返した。それも普通の噛みつき方でない。皮膚が破れて血管が傷ついても厭わぬ風に自分の細腕を噛み続けるのだった。やめろと瀬々木が叱ってもいっこうにやめないので、仕方なく両腕を縛って出かけると、今度はむき出しにした両足を噛んでいた。
 白い手足の至るところに刻まれた赤い噛み痕を見て、さしもの瀬々木も途方に暮れてしまった。子犬は物心つかないうちに親犬と離されると、自分で身体を噛みまわって衰弱死してしまうことがある。動物のする緩やかな自殺だった。瀬々木は娘の透けるように白い、骨と皮しかない腕に残った噛み痕を見るたび、ちいさな子犬を思い出して悲しくてたまらなくなった。

 だが、老犬を見つけて何か心に変化があったのだろうか。
 桜は自分の腕を噛むのをやめて、日がな老齢のせいで艶のなくなってきた犬の毛を撫ぜたり梳いたりしていた。老犬がくぅと鳴いたので、桜は心得た風に痩躯を抱き上げて、自分で作った厠のほうに連れて行く。ふぅん、とそれを見ていた咲がさっきとまた同じ風に呟いた。

「いいわね。使えるわ、あの子」
「……は?」

 言うなり、咲はぱっと立ち上がって桜の背を追いかけていく。
 犬に小便をさせていた少女の前に立つと、咲は無表情に見上げてくる娘ににっこりと微笑み返した。

「あなた、桜だっけ。あたしは咲。さっそくだけど、暇ならちょっと手ぇ貸してくれない?」




 昼前まで降り続いた雪のせいで毬街の大通りは真っ白に染まっていた。
 ほんの少し陽の射した今を見計らって、袖を縛った男たちが屋根から雪を落としたり、店の前の雪を掻いたりするのに精を出している。瀬々木は断るなら断ってもいいんだぞ、と言ってくれたが、桜はなんとなく咲――と名乗った女性の気迫に押されて、老犬と一緒にとたとたと彼女のあとをついていっていた。
 咲は途中飴屋に寄って、甘露飴を一袋買った。店の軒にぼんやり突っ立っていた桜の口の中にひとつを無理やり押し込んで、自分も残りのもうひとつを食べて歩き出す。あまい。優しく溶けたその味を、桜は舌の上で転がした。そうして気を緩ませていると、ほんと甘いの好きだね、と。不意に苦笑する声が耳元で聞こえた気がして、思わず目を見開く。あたりを見回すけれど、知らないひとばかりで、誰もいない。それが無性に桜を不安にさせた。ざわざわと胸のあたりが急に落ち着かなくなって、苦しくて、声を上げようとするのだけど、喉奥に何かが詰まったように声が出せなくて。怖くて、苦しくて。何気なく口元を抑えていた指を食んで、噛もうとすると、くるりと前を歩いていた咲が振り返った。怖い顔をして近づいてきたかと思うと、立て続けに飴をふたつ押し入れられて、口の中をいっぱいにさせられてしまう。きょとんとする桜の腕を引っ張って、咲は歩き出した。


「そんじゃあ、はい。これがあんたの仕事。しっかり夕暮れまで頼んだわよ」

 たどりついたのは鳥の絵が描かれた看板を持つ船宿で、そう言って咲から渡されたのは産着に包まれた赤子とでんでん太鼓だった。咲が話している間もうず高く積まれた膳を担いだ使用人たちが右へ左へと行き交っている。とても忙しくしているらしい、というのは桜でもわかった。さきさーん、と使用人の女の子に呼ばれ、咲はぱっと顔を上げる。

「今行く! じゃああんたよろしくよ。この子、大切なお客さまのややなんですからね。くれぐれもそそうのないよう」

 桜は赤子を抱えたまま、ふる、と小さく首を振った。
 できない、と思ったのだった。だが、咲は紅の綺麗に刷かれた唇を不敵に吊り上げて桜の頭を叩く。

「だいじょーぶよ。あんた、犬の気持ちがわかったじゃない。犬も人間の子も一緒、一緒。ぜーんぜん問題ないわ。じゃあがんばってね」

 桜にはとてもそうは思えなかったが、咲はもう一度ぽんぽんと桜の頭を叩いて奥に戻っていってしまう。追いかけようと足を踏み出すも、前から小走りでやってきた使用人の少女とぶつかりそうになり、もたもたしているうちに咲はどこかに消えてしまった。
 呆然とその場に立ち尽くしてしまってから、腕にかかった温かい重みに気付いてそちらへ視線を落とす。内廊下に突っ立っていても使用人たちの邪魔になりそうであったので、桜はひとまず赤子を抱いて空き部屋を探した。少し歩いたところにひとつ、がらんとした部屋と、釣鐘型の窓を見つけ、そこに腰を落ち着ける。

 庭には雪の重みで枝垂れた、けれど見事な梅が咲き綻んでいた。近づくと、強く清涼な香が鼻をくすぐる。一度外に出された老犬が軒からひょ、と顔を出して、桜の腕の中の赤子をのぞきこみ、舌で舐めた。それまで寝入っていた赤子がむずがって身じろぐ。薄い瞼が震え、黒い眸がぱっちり開いたので桜は慌てた。
 いったいどうしたらいいのだろう。
 咲は道中「あんたが適任よ」と何度も言っていたが、あいにくと桜は子守をしたことがなかったし、赤子に触れたこともなかった。桜の小指よりも小さくて細い指やまだまばらな、だけど柔らかそうな髪の毛や、赤い頬や。こんな風に、自分よりずっと小さな生き物がいるんだってことに驚いてしまう。力をこめたら壊してしまいそうで、なんだか怖い。

 とりあえず帯に挿してあったでんでん太鼓を取り出して振ってみるのだけど、赤子はさっぱり反応を返してくれない。どころか桜の腕をよじ登って、袷の衿を開き始めたりする。いったい何をしたいんだろうと首をかしげていると、おもむろに桜の膨らみというものもろくにない胸の先に吸い付かれた。ひゃ、と桜はびっくりして、窓枠から転げ落ちそうになる。一緒に赤子を取り落としかけ、間一髪のところで受け止めた。だが、赤子は身をよじって執拗にそこを狙ってくる。
 なになに? よくわからないけれど、すごく怖い。
 桜は赤子をほとんど畳に投げ捨て、部屋の隅に逃げた。追ってきた老犬をぎゅうっと抱き締めて、それでやっと落ち着く。乱れてしまった袷を直しながら、そういえばと桜はなけなしの知識を引き出した。ひとの子は生まれてまもなくは母親のお乳で育つのではなかったのか。母馬の乳房に吸い付く子馬を思い出して、ああと桜は思い至った。きっとこの子、おなかがすいているのだ。

 だけど、事態をのみこめたからといってどうしたらいいのかまではわからない。試しに自分の乳をもんでみるが、特に何が出るわけでもなかった。今まであれは吸われれば出るものだと思っていたが、そうではないのだろうか。それとも桜が子どもで夜伽で人形だから、何か身体に欠陥のようなものがあって、出すことができないのだろうか。
 眉間に縦皺を寄せてたぶんいつになく難しい顔をして唸っていると、不意にぽつんと畳に置き去りにされていた赤子がぐずり始めた。始めは小さく震えるだけだったのに、表情がみるみる歪んで、大粒の涙がこぼれ落ちる。桜はぱちぱちと目を瞬かせた。どうしたんだろうと思って抱き上げてみる。――が、次の瞬間、うわああああああああああああと腕の中のモノがものすごい声で泣き出した。耳をつんざく、というより耳の内側から鼓膜を破るような声。驚いたのか老犬がうるさく吼え立てた。
 あまりの声にしばし呆然としてしまったあと、桜は泣かないで泣かないでと赤子の眦にたまった涙を指でぬぐってみたりする。でも全然止まらない。ますますひどくなるばかりで、しまいには、

「……っ!?」

 腕に生暖かいものが降りかかる。独特の悪臭に眉根を寄せながら、赤子を少し持ち上げると、案の定お漏らしをしていた。桜の腕の上で。
 なんだ、おなかがすいていたのではなかったか。むしろ出したいほうだったのか。だったら最初からそう言ってくれればいいのに、と桜は泣きたいような気分になりつつ、まず畳を拭くべきかいやいや赤子の産着をどうにかするべきかと惑う。その間もびええええええええとすぐ近くで喉を刺された鳥のように泣かれるのだからたまったものではない。どうすればいいのだ、どうすればいいのだ。赤子を抱いたまま、桜は立ち尽くす。

 そのときふと自分の口の中に入っていたものを思い出して、桜は赤子の頬を軽く押して口を開かせた。舌の上に乗せた飴を赤子の口の中へ移す。それから指を少し突っ込んで、飴を舐めさせた。痺れるような甘さが舌を通して伝わったのか、赤子の表情がほんの少し柔らかくなる。

「……あ」

 その顔を見た瞬間、桜のかたくなだった胸がふわっと外向きに弾んだ。
 もっと。おねがい、もっと、

「わらって」

 桜は、飴を取り出しては自分の口の中で柔らかくしたのを与え、また取り出して与えを幾度となく繰り返した。何かをなぞるように。