二章、空葬の骸
九、
「……うおぉ、なんぞさっき破壊力たくましい騒音がしたが」
飴を舐めるのも飽きたらしい赤子がうとうとと眠りについてしまった頃。
部屋の外のほうから何やら見知らぬ男の声がして、ぬっと、寝癖で髪を四方八方に跳ねさせた三十がらみの男が顔を出した。赤子を畳んだ羽織の上に置いて、慣れない手つきでおしめを脱がせていた桜はきょとんと男を仰ぐ。なんとなく見覚えがあるような気がしたが、あまり定かではない。じっと見つめていると、あちらはおや、というような表情で桜を見下ろしたあと、畳に股を広げて寝かせられた赤子に気付いて「海紗(ミシャ)!」と叫んだ。熊みたいな大声に桜はびくっとなる。
「なんだお前こんなところにいたのかー。って、んん? おまえ本当に海紗だよな? 淡がいねぇとどーもよくわからなく……いや首の裏に龍の形の痣がある。やっぱり海紗だ。ほれほれ、泣かない泣かないおとうちゃまでちゅよー」
男はぱっと見強面の印象のある顔をくしゃっと破顔させて、無理やり起こされたせいでぐずり始めた赤子――海紗、というらしい――をたかいたかいした。それで赤子の産着の尻の部分がまだ湿っているのに気付いたらしい。
「おやおや、お漏らししちゃったのかな。ワルイコですねー。――ってあんた、くさぁっ!?」
鼻をつまんで、かー!と叫んでみせた男は、赤子を腰に抱き、さらに桜の首根っこをつかんで、「くさい、くさい。洗え。お前ら身体を洗え」と大股で濡れ縁を跨ぎ下りる。いったい何が起きているのかもわからず、桜はもうなされるがままになるしかなかった。
今の時期の水はことのほか冷たい。
井戸から汲み上げた水をばしゃばしゃ自分にかけていると、たらいで赤子を洗っていた男が「ほれ」と湯帷子を寄越す。
「それに着替えとけ。風邪ひくからな」
以前柚葉に殿方の前でお着替えをしてはいけませんよ、と教わったことがあったのを思い出し、襦袢を軽く絞ると、部屋に入って渡された湯帷子に着替える。少し濡れてしまった髪を手間取りながら拭いていると、「いいかー?」と言って男が部屋に入ってきた。その手には赤子とお茶、まだ白い団子とが乗っている。海紗を桜に渡すと、あせびは外のほうから七輪を引っ張ってきて部屋の中央に置いた。赤々と燃える炭火に網を載せて、団子をいぶり始める。
「わりぃな。あんたが海紗を見ていてくれたんだろう?」
腕をよじのぼってきた海紗を抱き上げながら桜はこくっとうなずく。海紗は尿を漏らして泣いて満足したのか、桜の胸にぴとっと頬を預けるとまたうとうとまどろみ始めてしまった。どういうわけか知らないが、懐かれたらしい。
「そいつ俺にほんと懐かねぇんだよ。おとうちゃまですよーって言ったっていつも嫁のところばっか。触ると泣くし。おまえのおまんま稼いでるのは俺なんだってわからせてやりてぇんだけど、だめなんだよなぁ」
男は苦笑し、「ほら、食え」と桜のほうに醤油の塗られてよい具合に焦げ目のついた団子を差し出した。いらない、と思って首を振ろうとすると、無理やり口の中に押し込められる。
「あんたなぁ、この前見たときも思ったけどちょっと痩せすぎ。がりっがりで骨と皮しかねぇじゃないか。いいか、海紗を見てみろ。女はころころしてるほうが絶対可愛いぞ」
とっさに吐き出そうとしたのに、口内に甘辛い味が広がったとたん、不思議とぐぅとお腹が鳴った。わたしおなか減ってたんだ、とそれで初めて気付く。桜は串を取ると、あつあつの団子をはふはふいいながら食べた。
「うんうん、もっと食え。いくらでもあるからな」
男もまたうまそうに団子を頬張りながら紫紺の眸を弓なりに細めた。
「俺はあせびってんだ。ひらがなで、あせび。こいつは海紗。海の紗綾と書いて海紗。去年の秋に生まれたばかり。本当は故郷に置いていきたかったんだが、淡(タン)……俺の嫁さんなんだがな。淡がどうしてもついていくっつうから、一緒に連れて行くことになったんだ。――お前は?」
すぐには何を聞かれたのかわからず、桜は首を傾げた。
「名前」
言われて、ああ、とうなずく。
「さくら」
答えると、あせびは少し驚いた風に片眉を上げた。
「なんだ。喋れるんだな、あんた」
紫紺の双眸が優しく細まる。大きくて筋ばった、ひと目見てすぐ武人のものとわかる手が伸びて、わしわしと頭を撫ぜた。
「いいね。綺麗な声だ。首は怪我をしたのか?」
「……ケガ?」
桜は眉をひそめて、首に手をやる。幾重にも巻かれた包帯のざらついた感触が指に触れた。一緒に、爪に入り込んだ皮膚の生々しい感触が一時蘇ったが、いつそんなことがあったのか、桜は明確に思い出すことができない。思えば、雪瀬と別れてからの桜の記憶は飛び飛びで、どこをどう歩いてここまで来たのか、そういえばいつ沙羅たちと別れて、瀬々木の家にとどまるようになったのかすらあやふやだった。桜はおもむろに目を外のほうへと向ける。釣鐘型の窓からのぞける庭では鮮やかな紅梅が雪の粒を花びらにまとわせて、綻んでいた。
ひとつ瞬きをする。いったいいつあの降りしきる雪は止んだのか。いつ花の蕾が膨らんで、開いたのか。桜の時間はずっと、葛ヶ原に初めて雪が降った冷たいあの日で止まっていた。
「あせび、」
思いついて、桜はあせびの袖を引いた。
「今、いつ?」
「いつってぇと時間……じゃねぇな、その顔は。日付けか? 確か平栄元年の……二の月の十五……六……そんなんだ。俺も定かじゃねぇが」
「へーえーがんねん」
難しい顔をして桜が鸚鵡返しにすると、あせびは苦笑する。
「つまり、今は梅だろ? もう少し経てば、可愛い桃の花が咲いて、雪解け水の音がして、蕗の薹が芽吹いて、そうして金色の菜の花と桜が咲く。あとちょっとで春、今はそういう季節だ」
「はる」
それなら桜にもよくわかる。
冷たい冬が去ると、温かい春がやってくる。それから暑い夏がやってきて、涼しい晩夏、短い秋を経て、また冬をめぐるのだ。そしてたぶん、冬が過ぎれば、また春が来るのだろう。桜が知らない、二度目の春。
「……?」
くん、と髪を引っ張られる気配がしたので、桜は手元に目を落とす。
見れば、海紗が小さな手で桜の髪をいじっていた。結わずに無造作にそのまま下ろされている髪の毛は胸元にかかるくらいものや腰に届きそうなものが混じっていて、ひどくちぐはぐだ。それが面白いらしく、長い毛先をつかんでしゃぶり始めたので、桜は慌てて海紗の口から自分の髪を引っ張りだすはめになった。いくら無知な桜だって、髪が食べ物じゃないことくらい知っている。
「なぁ、桜殿」
その様子を見ていたあせびが不意に口を開いた。
「髪、揃えてやろうか。そのままじゃ、結うのも難しいだろ」
海紗と髪の引っ張りあいをしていた桜はぽかんとして顔を上げた。
髪を揃える。その意味がわからなかったわけではないけれど、自分の髪を切るということが桜にはなんだか現実味のない話であった。だって、桜は生まれてこの方、髪を切った記憶がない。桜の髪は最初から腰丈ほどの長さだった。人形は髪が伸びることはないので、切る必要などなかったのだ。
桜はあせびの言葉をゆっくり自分の中で咀嚼してから、毛先を握り締めてふるふると首を振った。
「でもなぁ、桜殿。それじゃあ不恰好だし、結うのだって苦労するぞ」
それはそのとおりだと思ったけれど、桜はやっぱり首を振る。
だって。だって、髪は。それは雪瀬が触ってくれるものなのだ。雪瀬は桜が身体をくっつけようとすると嫌そうな気配を背中のあたりから出すので、普段はせいぜい袖を引くくらいしかできないのだけど、髪だけは気分がよいと撫ぜてくれたり、毛先を意味もなくいじったり、長い指先ですぅっと梳いてくれたりする。そうされるのが桜は好きで。すごくすごく好きで。雪瀬がいちばん触れてくれるので、桜はいちばん髪が好きだった。それを切られてしまうということが、決定的な何かを失うことに思えてならなかった。だから、ヤ、と言って、海紗をあせびに返して、逃げ出そうとする。
けれど、ちょっとも行かないところで何を思ったか尻尾をぶんぶん振った老犬がじゃれついてきた。思わぬ伏兵に邪魔されているうちに、手をかけようとしていた襖が勢いよく開かれる。
「――いた! あせび!」
耳障りではないけれど、かなり大きな声にびっくりして思わず身体を引いてしまう。開いた襖の前に立っていたのは、見慣れない黒や赤で彩られたゆったりした衣装に身を包んだ少女だった。着物、と似ているが少し違う。桜の知っている着物より袖幅が大きく取られているし、腰を結ぶ帯の幅が狭く、翡翠や紅玉などの珠が紐に通されて帯を飾っている。濃い睫毛といい、どこか異国風の顔立ちをしているひとだった。背後で「おう」と言って、あせびが顔を上げる気配がした。
「淡。ちょうどよかった、そこのお嬢さんを捕獲しろ!」
「は、ぁ?」
だけど桜にしたら捕獲されてはたまらない。
少女の脇を通って逃げ出そうとすると、細い、だが思った以上に力の強い腕が桜の腰にするりと手を回した。はなして、はなして、とぺしぺし腕を叩いたが、敵わない。
「捕獲しましたけど。なんです、どこのお嬢さんです? ――まったく……あなたさまときたらば、どこにもおらぬからと父上と手分けをしてお探しすれば、かような場所でかわいーい娘さんとふたりきりでお団子を召し上がってらっしゃる。妻のいる身でご誘惑ですか。ふぅぅん、まったくどんなご身分なんでしょうねぇ、南海の田舎に住んでるあせびさまというのは。にわか領主が毬街なんぞに来ていい気になっちゃったんですかねぇ?」
「淡! 首! 締まる! 首!」
「――あら?」
そこではじめて気付いたとでもいうように淡と呼ばれた少女はあせびの衿を離す。亭主を殺す気かっ!、と叫んだあせびに、「無断で女を口説く亭主ならいりませぬが何か」ときっぱり言って、淡は目を眇めた。
「ご言い訳は? 一言くらいなら聞いてあげますけど」
「淡……」
「ああ、一言終了ですね。つまり申し開きはせぬと」
「だー、淡、ちょおお前はもうちょいひとの話を聞けっ」
むっと眉根をしかめた少女の額を指で弾いて、あせびは淡に腕をつかまれたままになっている桜のほうへ目をやった。うずいてきたらしいこめかみを抑えて、はぁと息をつく。
「お前、髪用の小刀持ってるだろ。この子の髪、きれいに揃えてやってくれんか。俺じゃ下手そうだから嫌なんだと」
桜が『ヤ』なのはそういう理由からではなかったのだけど、口を挟む前に「あら」と淡がまじまじと桜のざんばらになった髪の毛を見つめた。
「本当にばらばらになってらっしゃいますね。きれいな髪なのにもったいない」
女のひとらしいたおやかな手が桜の頬のあたりにかかった髪の毛をすくいあげる。それが思いのほか、丁寧で優しい手つきであったので、桜は少しだけ肩の力を抜いた。知らないひとに囲まれてにわかに緊張する桜を安心させるように、老犬がやってきて鼻面を膝裏に押し当てる。
「この子、海紗の下の世話までやってくれてたんだよ。いい子だろ」
「まぁ、そうでございましたか」
あせびから手渡された海紗を大切そうに受け取って、淡はうなずいた。微笑むと、愛らしい片えくぼが右頬に生まれる。そうするとずいぶん歳が幼く見えた。桜よりせいぜいふたつみっつ年上くらいなのではないだろうか。
「海紗、泣くとうるさいでしょう? なんでもかんでも気に入らないことがあるとぎゃあぎゃあ泣くのです。――小刀ならありますよ。髪、よろしければお切りしますけれど」
優しく申し出られ、桜は言葉に一瞬困ってしまう。
その隙にあせびは「よかったなー」とうなずいて桜を畳に座らせるし、しまいには海紗にまでこくんとうなずかれてしまい、桜はしぶしぶおとなしくなって目を伏せた。
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