二章、空葬の骸



 十、


 背を伸ばして、とたらいに張った水で小刀を洗いながら淡に言われると、緊張で両肩が跳ね上がった。後ろに回られ、髪の房を手で取られる。刃があてられる気配があって、やがてざ、ざ、と小気味のよい音がした。切り落とされた黒髪が散る。髪を切られたって痛くないことくらい知っているけれど、それでも桜はぎゅっと目を瞑って縮こまってしまう。

「ほぉら! 桜殿、背!」

 そうするとあせびから野太い喝が飛ぶ。腹の底から響くような大きな声に、桜は反射的にびくっとなって背を伸ばした。桜とあせびのそんなやりとりがおかしかったのか、今はあせびの腕に預けられている海紗が愛らしい、鈴を転がすような声でころころと笑う。そばで目を閉じて寝そべっている老犬が海紗の笑い声を聞きつけてのんびり尻尾を振った。

 ものの半刻もかからず、作業は終わった。切るのに使っていた小刀を水で洗うと、淡は桜の肩にかけてあった手ぬぐいを払った。おお、とあせびが声を上げる。

「ぜーんぜん可愛いじゃねぇか。うん、別嬪さんだ」
「ええ、お似合いですよ桜殿」

 淡は微笑み、帯元から丸い手鏡を取り出した。裏面には黒字に金の龍が描かれている。桜は差し出されたそれを手に取り、おずおず自分の顔をそこに映した。かつて腰丈ほどまであった黒髪は今はちょうど胸元にかかる程度のところで切り揃えられている。頭が軽い。背中に手を回して、そこにいつもかかっている毛先がなくなってしまっていることに気付いた。中途半端に開いた手がからのこぶしを作る。それがなんだかとても寂しくて。

「桜殿……?」

 目の前に座っていた淡の顔が揺らぐ。
 つぅ、と桜の頬を温かな雫が一筋伝った。一瞬何が起こったのかはかりかねて眉をひそめ、しかし顎から雫が伝い落ちるに至って、とっさに目元を手で抑える。すると、それに端を発したかのように涙が次々溢れて止まらなくなった。

「……っ、……」

 ついに桜は鏡を取り落とし、両手で顔を覆う。腹のほうから熱いものがせりあがってきて、強張っていた喉を震わせた。
 
「さ、桜殿?」
「あ、あせび。あせび、桜殿が。ちょ、どうにか」
「どうにかって言われても」

 戸惑った風の夫婦がおろおろとどつきあう。

「――桜さま」

 そのとき不意に、ふたりを押しのけるようにして伸びた両手が桜の頬を引き寄せた。べちんと一度両側から包み込むように叩かれる。急に襲った痛みに桜がきょとんとしてしまうと、「ほら、泣いてしまいなさい」と現れたそのひとは優しく叱る風に言う。白い、桜のものとあまり変わらない大きさの手のひらが頬を包む。引き寄せて、額に額をあてられた。柔らかな濃茶の髪がさらりとこぼれてこめかみをくすぐる。懐かしい、桜の好きなひとに似た陽光のような、でももっと甘くて優しい母のような香り。

「我慢をすることはないのです。うまく泣けないのなら私がもう一度叩いてあげますから。泣いていいのですよ、桜さま。声を上げて、たくさん泣いていいのですよ。誰もあなたを叱ったりしないから」

 熱っぽい痛みが頬から鼻腔のほうへ伝わる。
 鼻の奥がつんと痛むと、あとはもう止まらなくなった。

「ぁあ……ぁ、あ」

 ひくっと喉が痙攣する。最初、もどかしく切れ切れだった嗚咽は次第に激しくなって、そのうちに理性も焼き切れた。赤子みたいな泣き声に部屋の前を通るひとびとが驚いた風に顔をのぞかせるが、構っていられない。桜は天井を振り仰いで、手で涙を拭うのも忘れて、わぁわぁ泣いた。何が起きたのか、自分でもよくわからなかった。蓋をしてずっと奥のほうに閉じ込めておいたものが急に溢れて止まらなくなったみたいだった。悲しいのか、苦しいのか、つらいのか、それもよくわからない。海紗とおんなじ、小さな赤子に戻ってしまったみたいだ。どうしたらよいのかわからなくなって、大きな世界で迷子になってしまったような気分になって、桜はきよせきよせきよせきよせきよせきよせきよせと一心に思いついた名前を呼んだ。届かなくて、めいっぱい声を張り上げる。頭がおかしくなるくらい何度も何度も呼び続ける。だけど、わかっていた。そんな風に呼んでみたって、白い雪の向こうに消えて行ってしまったあのひとが戻ってきてはくれないんだということ。わかっていたけれど、苦しくて、どうしようもないほど苦しくて、喉が嗄れ果てて、潰れて、声がろくに出なくなっても桜はかすれた声でそのひとの名前を呼び続けた。
 何もなくなってしまったなんてうそだ、と桜は思った。
 長い髪も、それをいとおしんでくれた手のひらも。帰る場所も、そのぬくもりもぜんぶ。なくなってしまったけれど、こんなにたくさん、こぼれそうなくらいたくさんの気持ちでいっぱいだ。すべてあのひとが与えて、残していった。






「落ち着かれましたか?」

 ひとしきり、身体の水分がぜんぶ抜けてしまうくらい泣いてしまうと、徐々に気持ちが静まっていくのを感じた。それでもまだしゃくり上げるのを繰り返している桜に仄かに香の焚き染められた布をあて、そのひとは温まった湯飲みを持たせてくれる。涙でぐしゃぐしゃになっていた視界が少しずつ精彩を取り戻す。濃茶の髪。優しい母の乳のような香り。白く綺麗な手。思い出す。この手が沙羅たちとはぐれて途方にくれていた桜を見つけて、瀬々木のもとまで連れて行ってくれたのだった。
 そのひとが花が綻ぶように微笑むので、桜はなんだか泣きたくなった。

「ゆず」

 少女は、橘柚葉そのひとであった。

「ゆず、ゆず、ゆず」

 再びこの少女に会えたのが嬉しくて、せっかく持たせてもらった湯飲みを取り落とすような勢いで少女の胸にすがった。顔をうずめる。甘い香りをいっぱいに吸い込んで、目を閉じる。それでも足りなかった桜が頬をすり寄せるようにすると、くすぐったいです桜さま、と柚葉はくすくす笑った。手が切り揃えたばかりの髪を撫ぜる。

「……ちょお、お取り込み中のところいいかー?」

 後ろのほうからあせびの声がしたので、桜は柚葉から少し顔を離した。ほんのり首を傾けると、あせびは困った風な顔をして肩をすくめる。

「一個確認してぇんだけどさ。『橘柚葉は死んだ』って聞いて俺はここに来たぞ」
「でしょうね。何せ私、夜を彷徨うしがない亡霊ですから」
「なっ」
「――嘘です」

 にこ、と無邪気に笑うと、柚葉は次の瞬間にはそれを嘘のように大人びたものに変えて居住まいを正した。少女のまとう空気が凛と張り詰める。

「お初お目にかかります、南海領主網代あせびさま、その奥方の淡さま、そして海紗さま。五條薫衣を通して五條苑衣に働きかけ、あなたがたを呼びつけたのはこの私。遥か南海の地からここ毬街までご足労、痛み入ります」

 流れるような口上を述べると、柚葉は緩やかに畳に額づく。綺麗に梳かれた濃茶の髪が彼女の動きに合わせて音もなく背からこぼれ落ちた。一連の所作を見ていたあせびと淡の顔色が変わる。淡の物言いたげな視線に軽くうなずくと、あせびは前へ進み出た。口端には、戸惑うというよりはいっそこの状況を楽しむような鷹揚な笑みが引っ掛けられている。

「ふふ、よもや半年も経たないうちに次々橘姓の奴らにお目にかかれるとはなぁ。今年は橘づいてんな。それで、お嬢さん。この網代あせびさまを呼びつけて、いったいどんな素適な話をしてくださるってんだ?」
「楽しみはのちに取っておいてこそ興のあるもの。――さぁおふたがた、苑衣さまを始め毬街の自治衆さまも、瓦町の紫陽花さま、東や南の諸領地の皆さまもお集まりです。それらしく奥間で密談としゃれこもうではございませんか」

 柚葉は不敵に笑い、それからふっとその笑みを柔らかいものに変えて桜のほうへ目を落とした。首を横に振られる。柚葉の袖端を握り締めている桜を見て、否と言ったのだった。桜は惑い、それから袖端から手を下ろす代わりに柚葉の腕を両手で抱え込む。

「桜さま」

 柚葉が困りきってしまった様子で眉根を寄せて、桜の手を引き剥がそうとする。それでも桜はぶんぶんと首を振って聞かなかった。
 不思議な予感がしていた。今、このひとの手を離したら、桜はきっとうんと後悔する。あとになって、きっとすごくすごく後悔する。頭というよりは身体中の勘のようなものがそう訴えていたから、桜は柚葉の手を離さなかった。

「じゃま、しない。何も言わない、静かにする。約束するから、だから、つれてって柚」

 必死に思いつく限りの言葉を連ねて懇願する。
 
「桜さまにはきっと難しいお話ですよ」
「うん」

 こくんとうなずくと、長い沈黙のあと「いいじゃねぇか」とあせびのほうが口を挟んだ。桜の手を引っ張って、海紗を抱かせる。

「参加は俺と淡と海紗。桜殿は海紗の子守役だ。ほら、このとおり桜殿の腕の中なら海紗は静かに眠るんだから、いいだろ」
「……噂に違わぬずいぶんなお節介焼きのようですね、あせびさま」
「あいにく性分なんでな。見合いしたけりゃ俺んとこ来い、月下氷人、いい男ならいくらでも見繕ってやるぜ?」
「結構です」

 ぴしゃりと吐き捨て、柚葉は小さく息をついた。

「わかりました。あなたさまがたを呼びつけたのは私です。あなたさまが海紗さまの子守に桜さまをと考えるのなら、私が口を出すところではございませぬ。どうぞお好きなように」
「――だってよ! よかったなぁ!」

 あせびはまるで自分のことのように嬉しそうに笑って、未だ状況が理解しきれず目を瞬かせている桜の頭をわしゃわしゃ撫ぜた。