二章、空葬の骸



 十一、


 海紗を抱いて足を踏み入れた奥間では、すでに車座になった男たちが膝を詰めて話し合っていた。柚葉がさっき、毬街の自治衆と瓦町と――と言っていたからたぶんそういった肩書きを持つひとたちなのだろう。たくさんの目にじろりと見つめられ、桜は蛇に睨まれた子雀さながら身体を硬直させた。その肩をあせびが軽く叩く。

「悪いな、皆すでにお揃いになっていたとは」

 男が悪びれずに手を上げると、奥のほうに座っていた老婆が「青二才があたしを待たせるたぁいい度胸だね」と悪態をついた。その隣に寄り添うように座っている薫衣の姿を見つけて、桜は小さく息をのむ。しかし薫衣のほうはというと、一瞬茶の眸を眇めただけで、あとは冷然とした面持ちを崩さず、柚葉が席に着くのを待った。桜はあせびと淡に連れられて、柚葉たちとは離れた――日に焼けた大男たちが集っている席の端っこにつく。縦も横も自分の二倍はあるんじゃないだろうかという大男に囲まれて緊張しきっていたが、腕の中の温かみに気づくと、少しだけ落ち着いた。桜は深く息をつく。

「ふぅむ、くるくるよく表情の変わる人形よの。珍しい」

 桜が肩から力を抜くのを見計らったように声がしたのは刹那だ。びっくりして顔を上げると、布で目隠しをした異様な風体の少女が取り澄ました様子ですぐ隣に座っている。
 どうして『人形』ってわかったんだろう。
 不思議そうな顔をする桜に、「百川紫陽花と申す。よろしゅう」と少女は目隠しをわずかに下げて、濃い紫色をした目をのぞかせた。人形師であった空蝉の眸よりもさらに純度の高い紫だった。

「これでおおかた揃ったわけか。それで橘柚葉。あたしらを呼びつけたからにゃ、おいしい話を聞かせてくれるんだろうね?」

 老婆は口の端に引っ掛けた煙管を指に挟むと、ふっと煙を座の中心に座る柚葉の顔に向けて吹きかけた。対する柚葉は眉ひとつしかめず、口元に薄い笑みを湛えている。

「まったくせっかちさは相変わらずでございますね、苑衣殿。今始めるといいますに」
「その前に橘柚葉。こっちはあんたがここにいる理由を知りたいってもんだね。葛ヶ原で捕えられ死んだと、巷ではそういうことになっているが?」
「私は正真正銘橘颯音が妹、柚葉でございますよ。この風の音こそがその証。ご質問でございますが、それについては私よりも都の百川漱殿のほうが詳しいのではないかと」
 
 澱みない口調で柚葉が答えると、「あの若だぬきが」と苑衣が舌打ちをする。剣呑な空気を感じ取ったのだろうか、寝息を立てていた海紗が急にむずがったので、桜はさっきの淡の見よう見真似でせっせとあやした。

「――橘柚葉。あんたの狙いはなんだね?」
「私の望みなど、知れ切ったこと。お揃いの皆さまとて察しがついてございましょう。そのために、今日、この翡翠宿に『反玉津派』のみなさまをお呼び立てしたのだから」

 柚葉がそう口にしたとたん、集った一同の顔つきが変わった。ひらりと柚葉の右手が白い蝶を思わせる所作で懐から出した巻物の止め具を取り去る。瞬間、真っ白な書状が畳を転がっていった。
 一番右端に堂々たる筆致で三字の漢字が綴られているが、何と読むかはわからない。だけど桜以外の皆は読むことができたようで、細く息をのむ音が生々しく静寂に響く中、柚葉の手が書状の端を押さえた。

「――こちらの望みは、この書状にこの場に揃った全員の判を押させること」
「そしてあたしらの望みは、カネだよ、小娘」

 苑衣は腕を組んでにやりと笑った。老いながらもなお豊満な胸元から取り出した印形を柚葉のほうにこれみよがしに掲げて、手の中で弄ぶ。

「家族想いの優しいお嬢ちゃん。あたしの印が欲しいってんなら、四の五の言わずにそれ相応の条件出しな」
「条件?」

 繰り返して、柚葉ははっと嘲笑する。

「苑衣さまともあろうお方がそちらのほうこそくどい」
「どういう意味だい?」
「おばあさま、これを」

 それまで黙って成り行きを静観していた薫衣がおもむろに動き、桐でできた小箱を苑衣のほうへ差し出した。中に入っていたのは同様の書状で、だが、先ほどのものとは違って密に文字がしたためられているようだった。畳に転がった一番端には桜にも見覚えのある橘紋が押されている。

「東海渡航の際の徴税権、積荷の検閲権を始めとした権限を破棄し、毬街の自治衆であるあなたがたに無償かつ無期限で譲渡致します」

 苑衣は口を引き結んだまま書状を読みふけっている。終わりまでたぐり寄せたところで、苑衣の横顔に皮肉げな笑みが載った。

「馬鹿な小娘だね。あとで泣きついて返せって言ってきたって知らないよ」
「背に腹は返られますまい」

 柚葉が断じると、苑衣はふんと鼻の穴を膨らませた。

「あんたも、あんたの一番上の兄貴も気に食わないね。同じ顔でさも涼しそうに笑いやがる」

 墨をつけた筆を取って、真っ白な書状にさらさらと何がしかを書き付けていく。どうやら苑衣の名前のようだった。その下には赤い判。自治衆らしき他の老翁たちもそれに続いて署名をしていった。

「あせび殿はいかがなさいます」
「まぁ、もとより玉津の野郎をのさばらせておくのは好かねぇからな。判を押す自体はいい。だが、柚葉殿。あんた、これをどこに持っていく気だ?」
「――それについてはこちらに考えがある。案じずともよい」
 
 おもむろに桜の隣に座っていた紫陽花が声を上げる。あせびは先を聞きたそうな顔をしたが、やがて「漱殿んとこの方が仰るならしゃあねぇな」と苦笑した。紫陽花は口元にあてがっていた扇をぱちんと閉じて、畳につける。

「しかし皆の衆、事は早急に運ばねばなるまいぞ。何せ評定が出るのは半月後。今から都に向かうのなら、水路を交えても十日。時間などあってないようなものじゃ」
「わかっております」

 それまで泰然と構えていた柚葉の目に微かな焦りか苛立ちのようなものがのぞいた。いったいヒョウジョウ、って何だろう。柚葉は何を焦っているのだろう。桜は聞きたくてたまらなかったけれど、邪魔をしない、静かにする、と約束した以上、口を挟むことはできない。ただ得も知れない不安が広がっていって、そわそわとあたりをうかがっていると、紫陽花がくっと喉を鳴らした。

「それ見よ、そこな夜伽の娘も落ち着きをなくしておる。やはり人形であっても虫の知らせくらいは感じるのかの。――のう娘。私は柚葉殿とは違うから、知りたいというなら教えてやっても構わぬぞ。何せ評定で裁かれるのはお前もよく見知った人間でな、名を」
「紫陽花さま」
「橘雪瀬。奴はこのままいくと、国の外へと流され、二度と戻ってこない。異郷の地でひとり野垂れ死ぬ。まぁ、蓮さまの話じゃ、その前にくたびれ死ぬやもしれんがな」
「紫陽花さま!」

 柚葉が声を荒げる。いつの間にか紫陽花の目隠しは取られており、濃い紫色の双眸が自分をじっと見つめている。桜は驚きに目を見開いたまま、紫陽花を見つめ返した。獲物を物色するかのごとく細まる瞳孔がまるで蛇のようだと思う。ひやりとした、雪瀬とは違う意味で冷たく温もりのない手のひらが顎をつかむ。

「娘。私らは実はほとほと困っておってな。あの漱をしてよい知恵が浮かばなかった。如何にして『かの君』に近づき、この書状を渡して顎を引かせるか。わかるであろ? 黒衣のかの君じゃ。この書状は橘雪瀬を助ける。嘘ではない。嘘だと思うのなら、そこの柚葉殿にでも聞いてみよ。のう、私はさっきおぬしが現れたとき、僥倖に勝る僥倖、これぞ天の采配かと思うたよ。おぬしなら私らではとても思いつかぬ、よい知恵を持っているのではあるまいか」

 知恵など。桜が持ち得ているはずがなかった。
 ふるふると桜は小さく首を振る。泣きそうな表情になって首を振る。
 紫陽花は薄く笑った。

「娘よ。ならば、この盲めが知恵をひとつ授けてやろうか」

 桜は今度は懸命にうなずいた。
 何かいい方法があるというなら、教えて欲しかった。

「お前は無知で非力な夜伽の娘。さりとて、お前が我らとともにあると知れれば、かの君も御簾奥から出て参ろう。力を貸してくれるかの、『桜殿』?」
「――桜さま!」

 うなずきかけた桜の肩をつかんで引いたのは柚葉だった。
 少女は珍しく怒りもあらわに紫陽花を睨めつける。

「あなたさまはなんという……! いったいこの娘に何をさせるおつもりですか!?」
「悪いの、こちとら清廉潔白な柚葉殿とは違って、泥水ばかりをすすってきたゆえな。はじめに私は言ったぞ。時間がないと。もたもたしているうちにお前の兄が野垂れ死んでもいいというなら、それでもよい。こちらとてちと困るが、おぬしほどでもなし。そも、橘の名を背負って現れた娘がかような夜伽ひとりに振り回されることこそ笑止。頭を鈍らせる情なら、切って捨てよ。まぁ『先代』の当主殿も供の少年ひとりに振り回された挙句、磔刑にかかったのだから血といえば血だが」
「兄を侮辱なさるおつもりで?」
 
 濃茶の眸に燃えるような何がしかがよぎった。
 それは危うい炎であった。自身をも焼き滅ぼしかねない危うい炎に桜には見えた。桜は抱いていた海紗を淡に預けると、柚葉の袖を引く。くん、と引っ張られて我に返ったらしい、濃茶の眸が自分を見た。

「私、行く」

 桜は最初から決まりきっていた答えを口にした。

「それで、月詠に会って、その紙を渡して、うなずいてもらえば、いいのでしょう? やる。できる。私できるよ、柚」

 ちゃんとできるというのをわかってもらおうと思って言い募るのだけど、だんだんと柚葉の顔は曇っていく。どうしてそんなに苦しそうな顔をするのだろう。やっぱり桜では信じてもらえないのだろうか。
 沈黙のあと、柚葉は深い息をついた。

「……受け渡し場所には私も行きます」
「ならば、うちからは漱を出そう。武術にはとんと覚えのないもやしじゃが、なかなか頭の回る男ゆえな」

 紫陽花は嗤い、一同が回し終えた書状の末尾に名前と判とを押した。