二章、空葬の骸



十二、


 月がもうまもなく南中しよう時刻だ。
 川面に立った夜霧に紛れるようにして、あせびたちと柚葉、薫衣、そして桜は翡翠宿の裏手から外へと出た。犬は置いていこうと思っていたのだけど、それまで軒下のところでおとなしく寝ていた犬は桜が翡翠宿から出て行く段になると、とたんに桜の足にまとわりついて離れない。くぅくぅ寂しそうに鳴く犬に桜は困ってしまって、仕方なくその痩せた身体を抱え上げて、一緒に連れて行くことにした。
 瀬々木への言伝は咲が請け負ってくれた。気風のいい女将は、瀬々木にはあたしから言っておくから安心なさい、と胸を叩いたあと、桜に船上での弁当と甘露飴の詰まった袋とを渡してくれた。笹の葉に包まれた丸くて大きなかやくのおにぎりが三つ。桜はそれを大切に風呂敷へ入れた。
 昼のうちに荷積みを終え、人目のつかない夜に小船で沖に停泊している船へと移る。苑衣をはじめとした自治衆は『密談』が終わるや皆散り散りに帰ってしまったし、紫陽花や他幾人かは毬街のほうにとどまるようだった。漱には早馬で使いを出しておこう、と言って、紫陽花は桜たちを見送った。

 あせびの用意した小船が幾槽も連なって月明かりに照らされている。銀砂を差し出された船頭は、あせびたちが乗り込むと、無言で櫓を漕ぎ、船を出す。篝火はなく、櫓を返す音すらも静かに抑えられているようだった。船がひとつふたつと出て、沖のほうに泊まっている大きな船影のほうへと向かっていく。遠目に見てもなお大きい船影に得体の知れない恐ろしさのようなものを覚えつつ、桜は先に小船に下りた柚葉のほうに小さな荷物と犬を手渡す。そして、船のへりに足をかけたときだった。

「そこな船、止まれよ!」

 突如轟いた怒声と視界に差した眩い明かりとに、桜はびくっと身体を硬直させる。暗闇に浮かび上がったのは、花紋の入った橙色の提灯。桜にもすぐにわかった、奉行所の役人だ。

「どこの者だ、言え。今は船の出る時間ではなかったはずだが?」

 目が眩んだせいで、わずかに反応が遅れる。その隙に男たちに取り囲まれ、桜は逃げ道を塞がれてしまった。銃にそっと手をかけつつ、船のほうへ視線を彷徨わせる。柚葉が立ち上がるのが見えたが、それより前に男に腕をつかまれた。

「妙な動きはしないほうが身のためだ」

 脅しの声が下りて、提灯が無遠慮に顔に近づけられる。まぶしい。すぅっと桜が目を眇めると、あ、と男が何かを見つけた風に声を上げた。

「緋色……?」
「――桜! おどきなさい!」

 別の怒声が爆ぜたのは刹那。
 続く男の悲鳴は激しい水音にかき消えた。ぐん、と腕を強く引っ張られ、川に引きずり込まれかける。けれど、あわやというところで背後から伸びた力強い腕によって抱きとめられた。持ち主を失って砂利道に転がった提灯を内側から赤い炎が包む。炎の光で一瞬明るくなった視界に映し出されたのは、ところどころ傷の残った逞しい男の腕と、足を大きく蹴り上げた格好でたたずむお下げの少女の姿だった。無名に、沙羅。息をのむ桜をよそに、沙羅は着物の合間から垣間見えた白い太腿を楚々と隠すと、予期せぬ闖入者に動揺する黒羽織たちをじろりと睥睨した。

「お前たち。私のかわいーい娘に狼藉を働くとは何事ですか。ええ? しっかりお灸を据えてやりますから、わかったらそこに雁首揃えて直りなさい?」

 沙羅の肩の上ではわら人形がふてぶてしくうなずいている。
 黒羽織の注意がそちらにそれた隙に、無名は抱き上げた桜を小船のほうへと下ろした。桜の身体を引き寄せた柚葉へ目をやって、無名は「なんだか知らんが」と若干居心地が悪そうに頬をかく。

「――頼むぞ」
「言わずもがな」

 柚葉が顎を引くと、無名は微かに口端を吊り上げ、腰に佩いていた刀を抜いて岸に繋がれていた縄を切った。そうして黒羽織たちのほうへと戻っていく。

「桜! このお馬鹿!」

 黒羽織のひとりの鳩尾を蹴り上げて倒すと、向かってくる男の顔面にわら人形を投げ飛ばして、沙羅は桜のほうへ駆けてきた。伸ばされた腕にぎゅうっと頭を抱き寄せられる。少しほつれた銀のお下げが首のあたりをくすぐった。

「探したのですよ。馬鹿な子。本当に探したのですから」

 苦しくて、桜が身じろぎしようとすると、もっと強く引き寄せられる。
 思い切り抱き締めたあと、沙羅は少し身を離して「よいですか」と桜の両頬を包んだ。

「これだけは知っておきなさい。あの男が何を言おうと、あなたが胸を痛めて、傷ついて、泣くことなんかこれっぽっちもないのですよ。桜。あなたはただ、怒ればよいのです。そして心ゆくまでなじればよいのです。沙羅の娘なら、あのみみっちい金玉を蹴り上げてのすくらいの気概を持ちなさいな!」

 よいですね?と両頬を強くつかまれる。
 沙羅の手が離れるのと、船頭が岸辺を強く蹴るのは同時だった。
 
「沙羅」

 手を伸ばそうとしたのだけど、あと少しのところで指が届かず空をかく。沙羅は見送ろうとは、しなかった。一瞬こちらへ怜悧な視線を向けると、銀のお下げをさらりと返して、乱闘へ戻っていく。

「沙羅」

 桜は船端にしがみついて、遠のいていく少女の背中を呼ぶ。
 ごめんなさい、ごめんなさい。勝手にいなくなって、心配をかけてごめんなさい。せめてそう謝りたいのに、嗚咽が喉を震わせて、うまく声が出てこない。――沙羅。無名。空蝉。

「いって、きます」

 たくさんのごめんなさいの代わりに。潮風に髪をかき乱されながら、桜は嗚咽混じりに思いついた言葉を口にした。




 沖の風は冷たく湿っぽい。
 桜は船のへりに腕を乗せ、徐々に遠のいていく岸を見ていた。桜はことのほか夜目が効くので、火を燃やさずともあたりの輪郭がなんとなくつかめる。最初は岸辺の沙羅たちの姿が見えないかと目を凝らしていたのだけど、しばらくすると、海岸線も曖昧になり、ただ暗い海が続くだけになる。その中で西に傾いた真珠色の月だけがほの白く波間に光を落としているのだった。

「風邪をひいてしまわれますよ」

 腕に頬を乗せて、ぼんやり寄せては返す波の音を聞いていると、ふわりと肩に温かなものがかけられた。綿の詰められた羽織。肩から落ちないように衿をつかんで目を上げると、柚葉の横顔が淡い月光に照らし出されて見えた。ありがとう、と言って、羽織の衿を深くたぐり寄せる。身体が柔らかな温もりに包まれた。

「沙羅たち、だいじょうぶかな」

 もう境界のわからなくなった海岸線のあたりへ目を向けながら呟く。

「ご案じなさいますな。あのお三方なら、大丈夫ですよ。私、成人男性を蹴り上げて川に突き落とす女子など初めて見ましたもの」

 先ほどの光景を思い出したのだろうか、くすくすと柚葉がおかしそうに笑う。そうしていると、胸に小さく刺さっていた棘も抜けていく心地がした。ほんのり表情を和らげた桜に微笑んで返すと、柚葉は桜の胸元あたりで切り揃えられた髪をそっと手に取った。

「髪、切ってしまわれたのですね」
「ばらばらでよくない、ってあせびが言ってたから」
「泣いておられました」
「……急にすうすうして、さみしくなって、」

 でもすっきりした、と続ける。
 強がりがないといったら嘘になるけれど、実際頭もずいぶん軽くなったので、気分自体は悪くない。

「へいき、だよ。私、もう泣かないよ」

 ちょっとだけ目線が上にあるそのひとを見上げて繰り返す。
 だって、いっぱいいっぱい泣いたから。たぶん柚葉や瀬々木や、沙羅や空蝉や無名たちをいっぱい困らせたから。それでも飽きずに、背をさすってくれたから。桜は雪瀬のことでずるずる泣き喚くのはもう終わりにしようと思った。

「お強くなられましたね、桜さま」

 母のような声音で告げると、柚葉はおもむろに自分の髪に挿していた簪を取って桜に差し出した。燻し銀で作られたそれには繊細な花の文様が透かし彫りされている。きれいだなぁと思って見ていると、柚葉の手がおもむろに後ろに回って桜の髪を持ち上げる。軽くひとまとめにしたあと、すっと簪が挿される気配がした。

「そうすると少し大人らしゅうなって、でもお似合いですよ」

 柚葉は優しく微笑み、ほつれ残った後れ毛を少し直すようにした。鏡がなかったので、桜はすうすうする首筋に手をやって、結った髪と簪の透かし彫りのなされた表面とに触れていく。繊細な花の模様が指先から伝わって、きれいだな、と笑みを少し綻ばせる。けれど、それを見た柚葉のほうは不意に顔から表情を消した。
 
「……柚?」

 尋ねると、柚葉は何でもないのです、と苦笑する。

「ただ――、桜さま。もしご気分を悪くなされたらごめんなさい。私はさっき、無名さまにあなたを託して、船の綱を切ろうかと思っていたのです」

 柚葉の告白に、桜は目を丸くする。
 それは、どういった。
 やっぱり桜は頼りにならないから連れて行けない、とそういうことなんだろうか。不安げに眸を揺らした桜に気付いたのか、柚葉は首を振る。

「違うのです。ただ、他でもないあなたさまが私どもの事情に巻き込まれることがどうにも忍びなく……」
「柚葉たちの、ジジョウ?」

 問い返すと、柚葉は暗い眸で顎を引いた。

「紫陽花さまが仰っておられましたね。兄さまが囚われてしまわれたと。だけど、それは桜さまのせいじゃありません。本当です。これは、私や兄さまが選んだ道への代償。それについて私たちは覚悟を決めておりましたし、――もしも覚悟ができていなかったというのなら。すべて私どもの不逞でしょう。そのためにあなたが何かを犠牲にする必要など、どこにもないのですよ」
「ギセイ」
 
 雪瀬もそうだけど、柚葉も時折難しい言葉ばかりを使うので桜にはよくわからなくなる。だって、桜は。雪瀬がどこか遠いところに行ってしまうというから、それが嫌で、この船に乗ったのだ。もう一度、桜は雪瀬に会いたかったから。雪瀬は二度と戻ってくるなと言ったけれど、本当にもう桜には会いたくないのかもしれないけれど、でもそれでも、桜は雪瀬に会いたかったから。会いたくて、とてもとても会いたくて、苦しくて、死んでしまいそうだったから、ここまでついてきた。それだけなのだ。きっと桜も桜のジジョウでここにいる。

 そう思ったのだけど、うまく言葉にできる自信がなくて、結局桜は小さく首だけを振った。心配そうな顔をする柚葉に、だいじょうぶ、と続ける。

「私、ちゃんとできるよ。心配しないでへいきだよ」

 ぎこちなく微笑む。それはとても下手な作り笑顔だったようで、柚葉は表情を暗くして、目を伏せてしまった。