二章、空葬の骸
十三、
昼も夜も船に揺られて、毬街の港を離れて何日目か桜の頭ではわからなくなってきた頃、ようやく都の玄関口である霧井についた。そこからは、万葉山を迂回するようにして三日の陸路だ。柚葉や薫衣、桜はひとにそうと気付かれぬよう、あせびのお供の者たちと同じ木綿の着物に着替えて、編み笠を目深にかぶった。桜の痩せっぽちな身体ではどう見ても大柄な男たちからは浮いてしまうので、淡のそばに付き添う女たちに紛れて歩く。
あせびは駅舎で砂金と引き換えに、人数ぶんの馬を得た。厩から出されて興奮した風に首を振る馬は桜よりもずっと背が高い。それを少しびくつきながら見上げていると、あせびが桜の脇に手を通して抱き上げてくれた。馬上の薫衣に手渡される。桜は馬には乗れないので、薫衣に手綱を取ってもらう必要があった。
「気持ち悪くなったら言えよ」
囁いて、薫衣が走り出す。
いったいどういう意味なんだろうと疑問に思ったまま、桜は駆け出す蹄の音を聞く。だが、次の瞬間、下肢から伝わる激しい振動に身体が浮いて飛んで行きそうになった。桜は悲鳴を上げて、馬の鬣にしがみつく。ともしたら、落ちてしまいそうなほどの律動。
それでも、広い街道を走っていたときはまだよい。港町を抜け、万葉山の裾野に入ると、そこはすでにきちんとならされていない山道であるため、振動が途方もなく、うまくそれを殺す術に長けていない桜はよく気持ち悪くなって道端で吐いた。おまけに、慣れない船に揺られ続けていたことは思いのほか桜の体力を奪っていたらしい。最後のほうはぐったり馬の首にしがみついていることしかできなかった。
「少し休む?」
速度を緩めて尋ねてきた薫衣に、桜はふるふると首を振る。
だって、ただでさえ桜が道端でうずくまるたび止まる薫衣の馬は列の最後尾にいるのだ。これで休んでしまったら追いつけなくなってしまう。
わかった、と薫衣はうなずくと、一度馬を止めて桜に竹筒から水と、切り刻んだ薬草のようなものを噛ませてくれてから、また馬の速度を上げた。そうやって昼夜ほとんど休みなく走り続けたため、普通なら三日で行くところを一日半で都の外門にたどりつくことができた。
*
「つうわけで、評定に参加できなかった詫びしにきたぞ。入れろや」
外門にたどりつくや、あせびは警備の衛士たちを見下ろし、鷹揚に言った。桜の知っている中では無名も大柄なひとだったけれど、あせびはそのさらに上を行く。海の男らしく日に焼けた腕っ節は太く、それに羽交い絞めにされたらどんな猛者であってもすぐに降参してしまいそうだ。豪傑、という言葉がこれ以上なくふさわしい巨漢に睨まれ、いつもはやたらにふんぞり返っている衛士たちは一様にたじたじとなる。あせびの差し出した通行手形を確認すると、門はすぐに開けられた。淡のかたわらについて門をくぐりながら、もしも毬街の港のときみたいに桜だけ呼び止められてしまったらどうしようと不安でたまらなかったが、衛士はむしろあせびの巨漢や異人の淡のほうに気が取られている様子で、桜が目の前を通っても一瞥もくれなかった。
「おや。これはこれはあせび殿」
馬は外門に入る前の駅舎で乗り捨てていたので、大路を歩いて、ひとまずあせびが都に構える屋敷へと向かう。道の途上、木瓜紋の描かれた牛車が止まり、御簾をひらりと引き上げ、中から琵琶を抱え持った小柄な老翁が顔を出した。その顔を認めて、あせびの周りに付き従っていた随行たちが一斉にひれ伏す。
「宮内卿さま……!」
「やめよやめよ。そうむやみやたらに頭を下げるでない。自分がたいした傑物になったと勘違いするではないか」
クナイキョウ、と呼ばれた老翁は苦笑し、穏やかな色合いを湛えた眸であせびを見つめる。
「一年ぶりか。久しいの、あせび殿」
「琵琶師さまこそ。お元気そうで何よりです」
あせびはこざっぱりした所作で頭を下げる。
それからふと何がしかに気付いた様子で声をひそめた。
「東市のほうが騒がしいですな。何かありましたか」
「ふむ、わかるか。長らく行方のつかめなかった颯音殿の首が見つかったのよ」
その言葉に、すぐ隣にいた薫衣が小さく震える。
「それはまた……。いったいどいつの仕業だったので?」
「反朝廷を掲げるごろつきどもらしい。が、捕まってすぐに舌を噛み切ったゆえ詳しいところはようわからぬ。どなたかの捨て駒やも、しれんしの」
老翁の白い眉に隠された双眸が不気味に煌いた気がした。だが、それはほんの一瞬のことで、「さておき、あせび殿」と膝に抱いた琵琶をさすりながら口を開いたときはもとの温厚な老人の横顔に戻っている。
「どうじゃ、出仕は明日以降じゃろ。今晩は我が家で積もり募った話などせぬか」
「それは、喜んで」
あせびはうなずき、ぼうっと突っ立っていた桜を手招きした。呼ばれるがまま駆け寄ると、肩に手を置かれ、目深にかぶっていた編み笠をほんの少し上げられる。老翁は桜の目を見て、少し驚いたようだった。
「……『赤の殿』に立ち寄った折には月詠さまにぜひお伝えくだされ」
あせびは普段の快活さが嘘のような低い声音で言った。
「先年の酒の礼に『緋色の目をした帝の夜伽』をご覧に入れると」
琵琶師はしばらく考え込むように琵琶の絃を爪弾いていたが、やがて「あいわかった」と顎を引いた。
*
その日の宵口に訪れた琵琶師の屋敷は、桜が都の貴族に抱いている想像とは違って質素でささやかなものだった。門に置かれた衛兵は片耳のない老人ひとりで、寒そうに背をこごめて、薄く積もった雪を箒で掃いている。華美な装飾を嫌う橘のお屋敷だってここまでではなかったはずだ。
濡れ縁に出てひとり琵琶をたなびいていた琵琶師はあせびと柚葉、桜たちが訪れたのを見て取ると、にっこり眦を下げて「ようこそ」と言った。
「黒衣殿はまだだそうですよ」
案内された部屋に月詠が座っていたら、と緊張していた桜は琵琶師の囁きにほんの少しだけ安堵する。桜ひとりというわけではない、ここにはあせびも薫衣も柚葉だっているのだから大丈夫、と自分に言い聞かせるのだけど、やっぱり不安は拭い去れなかった。あの、自分を検分するような目を、指を、声を、行為の数々を、思い返すだけで、身体の芯のほうから熱が引いていく。桜は気もそぞろに柚葉の後ろに座って、震える手を組み合わせた。すべての話は柚葉がすることになっていた。桜はだから、ただここに座って話を聞いていればいいはず、なのだけども。
そのとき、ぞわりと腹の底から何かがざわめく気配がして、桜はびくっと肩を強張らせた。それまで沈黙を守っていた外の床板が軋み、障子戸に黒い影が差す。現れたのは、ひょろ長い体躯の青年――百川漱と、供らしい男を連れた月詠だった。何気なく部屋へ視線をやった月詠であったが、桜のほうは一瞥しただけで感慨らしい感慨もなく素通りする。その代わり、目を留めたのは部屋の中央に鎮座する柚葉だった。
「――たばかったな、漱」
静かな声音がその場を支配する。
返答を待たず、月詠は携えていた太刀で青年の腹を打った。
「橘柚葉を始末したと報告したのはどこのどいつだ? 虚偽の報告をするとはいい度胸ではないか、なぁ平和主義の漱殿?」
一撃をまともに食らった漱は激しく咳き込み、腹を抑えてうずくまった。さらに追い討ちをかけるように鞘が青年のかがんだ背中を打つ。骨を砕くかのような嫌な音が鳴り、桜は知らず悲鳴を上げた。漱はなされるがまま、ぐったりしている。月詠の手が愛刀の柄にかかるに至って、柚葉が毅然と立ち上がった。
「お待ちください。その方を責めるのはやめて」
しゅるりと衣擦れの音が立つ。このときの柚葉は小袖に切り袴の旅装ではなく、たっぷりと袖を取った女物の着物を着ていた。色はいつもの柚葉だったらまず身につけることのないだろう墨色一色であり、それはちょうど月詠の衣の色と同じだ。対面に立った柚葉へ月詠は冷めた視線を向ける。寄越された視線をにこりともせずに引き受けると、柚葉は墨色の帯を解いた。衿を持ち上げるようにしてあらわにされた沁みひとつない白い肌には、しかし腹部にまだ生々しい赤色をした縫合痕がある。
「漱殿は確かに私を『斬り捨て』ました。ただ、ところどころ焼き潰された切れ味の悪い刀を使っていたというだけ」
「斬り捨てた、か。――おおかたその刃には痺れ薬と眠り薬とが塗られていたのだろう。瓦町の狩人がよく野生馬を相手にする技だ。深く身体を傷つけずに生け捕ることができる」
「月詠さまは博識であらせられること」
柚葉は冷笑すると、はだけた衣を直して紐で結んだ。
「座興はもうよろしいでしょう。私は今晩、あなたと取引をしに参ったのです、丞相補。私が望むのは、ただひとつ。兄、橘雪瀬の命と自由。そしてあなたに差し上げるのは、この国の最高位、丞相の地位です月詠さま」
*
「丞相の地位、か。これは啖呵を切ったな橘柚葉」
月詠は少しの動揺も見せず、ただ口元に冷笑を載せて柚葉を見つめる。どう話をしてみる、と月詠の表情はまるで柚葉を試しでもしているようだ。柚葉はかたわらに置いていた文箱を紐解くと、一通の書状を月詠へ差し出した。はらはらはらと長い書状は月詠の手からこぼれ落ち、床に広がる。毬街で苑衣たちに押印を求めていたあの書状だ、と桜は気付いた。
「嘆願状――減刑嘆願の訴状か」
「毬街、瓦町、南海に、南方諸領の連中――白海、黒海、青海の代表が名を連ねている。むろん俺も」
月詠の声に、あせびが応える。
「さらにいくらかばかりの金もつけてやった。どうだ、これで十六の餓鬼ひとりの命だっていうんだから気張ってるだろ。そっちにとっても悪い話じゃあるまい」
「そして」
それまでひとり濡れ縁でのんびり琵琶をかき鳴らしていた老翁が穏やかな眸を上げる。
「そこに琵琶師の名前も連ねてくだされ。なぁに、金なんぞわたしは払いませんがな。名前だけなら貸してやってもよかろう。もともと名ばかりの卿でございますからの」
「この国にはずいぶんと親切な輩が多いようだな」
「親切? まさか」
月詠が皮肉げに口端を吊り上げると、打たれた腹を抑えていた漱が未だ少しかすれた声で口を挟む。
「知らないふりはさせないよ、月詠さま。申し上げたでしょう? 颯音さまが斃れたのに乗じて、玉津は仕掛けてくるって」
「祭り上げられる気はないと言った」
「知ってます、だけど、知りません。わたしたちはね、月詠さま。二百年、この国の果てを守ってきた。中央で、皇族や公家どもがのんびり宴を開き、国庫を崩すその間も、この国の東や南で血を流し、屍を踏みしめ、国果てに立ち続けた。すべてはひとつの約束――、帝が国の真ん中で戦い続けるというなら、わたしたちは国の果てにて戦いましょうと、その言葉を果たさんがために。だけど、『彼ら』は約束を守らなかった。もはやわたしたちは、玉津みたいな古だぬきやその傀儡にしかならない第四皇子、老帝にしがみついて心中する気はないんだ」
「それで、代わりに俺を置くと?」
月詠は一笑した。
「お前が凡庸と呼ばれるゆえんがわかったな。頭だけを挿げ替えても、この都深くに根付いた膿みはなくならん」
「だとしても。物事にはマシってもんがあるんです」
「橘雪瀬の刑の減免を求めるのは、玉津派への牽制か」
「玉津卿は我々辺境の力を削ぎ、中央へと力を集めたがっている。手始めが葛ヶ原の直轄化でございましょう。だけど、弟くんは葛ヶ原の継承権を持っている。颯音さまが亡くなった以上、正統なるね」
「兄の二の舞を踏まないという確証がない」
「彼は幼い。そして大事を為すにはあまりに優しすぎる」
「それがお前の見立てか」
「ええ。この数ヶ月、彼を観察し続けたわたしの。彼に反逆者の器はない。そうでなかったら、助けたりなんかしませんよ」
ひどく冷淡な声音でものを言うひとだと桜は思った。それが冷静であるのか、冷酷であるのかまでは桜にはまだわからなかったけれども。
すっと柚葉が畳に手をついて額づく。
「どうか兄を助け、兄を領主にお据えくださいませ月詠さま。それが玉津派を牽制し、あなたの地位を約束しましょう」
顔を上げた柚葉が月詠を見つめる。淡い熱を帯びた濃茶の眸に対して、男の双眸は冷然たるものだった。くつ、と青白い喉を震わせてくぐもった笑いが起きる。
「……地位など欲しくもないのだがな」
一時、その眸に果てのない空にも似た虚無が映ったように見えたのは気のせいだろうか。儚い微笑をいつもの冷笑に変えると、月詠は広げていた書状を畳に放った。
「詮議所に提出してやる。――だが、それだけだ。俺は名を連ねるつもりはないし、助言をするつもりもない。それでいいな」
「は、い――!」
柚葉の顔がぱっと明るくなる。
うまくいったのだ、と桜にもわかって、温かな安堵が胸を覆った。身体中に張っていた緊張が解けて、危うくその場に脱力しそうになる。月詠が脇息から緩やかに身を起こしたのはそのときだった。
「代わりに」
白く長い指がもたげて、桜のほうを指し示す。
「その娘をここへ」
向けられた指先の意味がわからず、桜は目を瞬かせた。水を打ったかのような沈黙が落ちる。その中で月詠の忍び笑いだけが鮮やかだ。
「よくよく善人面の好きな連中だな。あせびも漱も、それからそこで蒼白になっている橘柚葉お前すら、薄々気付いていたはずだ。そのつもりでその娘を連れてきたというのに、今さら何をためらう必要がある」
話がよくわからない。ただ、じわじわと身体を這い上がる不安に押されて月詠から目を離せないでいると、不意に自分を見つめる男の眦が和らいだ。白皙の美貌はそうすると、とても優しそうな面立ちになる。
「無知ゆえの無垢ほど滑稽なものはない。そうは思わないか桜」
「こっけい……?」
「今お前の周りにいる大人たちは自分の利益のために橘雪瀬を領主に据えたいから、お前を連れて、俺のところまでやってきた。さながら贄だ。お前だけが知らないでやってきた。騙されているのも知らず、踏み躙られていることにも気付かず。帰りの通行手形でも見てみよ。おそらくお前のぶんだけ用意されてなかろうよ」
意味がわからない。
ニエ? ニエって何?
どうして私のぶんだけ帰りの手形がないの?
「――この俺を動かすからには相応の報酬を払っていただこうではないか、橘柚葉。逃げ出した夜伽は俺のもとに。これが嘆願状を詮議所に持っていく交換条件だ」
月詠の声を桜は呆然と聞いた。
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