二章、空葬の骸



 十四、


「どうする。嫌なら首を振ってもよいぞ」

 ふっと冷笑し、「そのときは嘆願状はここで破り捨てるわけだが」と月詠は続ける。男の双眸は冷ややかで、桜が否といえば、すぐにでも書状を破り去るような恐ろしさがあった。どうして、と桜は思う。どうしてこのひとはいつも桜にこんな二択ばかりを突きつけるのだろう。選ばせるのだろう。いっそ、力づくで押さえつけられ、命令されたほうがましだというくらいの、二択を。

「わたし……」

 わからなくて、桜はおずおずとあたりを見回す。だけど、座している誰とも目が合わない。見捨てられたような気分になって、桜は足元に目を落とした。

「わ、たし、」

 答えは決まっていたはずだった。だけど喉が強張って、声が出てこない。だって、あの場所に。あの暗く閉ざされた場所に、また。今度はずっとひとりで。心の臓を鷲づかみにされるような冷たい恐怖に身体が震えた。にげだしたい。ここから逃げてしまいたい。くらくらする頭でそんな馬鹿なことを考える。そのとき不意に後ろから肩をつかまれた。

「桜さまはどこにもやりませぬ。贄など。この娘はあなたをおびき出すための『餌』にこそ過ぎない。報酬が欲しいというのなら、私があなたのもとへ参りましょう。手篭めにするなり、下女にするなりどうぞご自由に」

 毅然とした柚葉の声であった。
 どうしてそんな恐ろしいことを凛とした眼差しで言えるのか桜には不思議だった。その勇気が。強さが。桜は欲しくてたまらないというのに。どうしようもなくなって、桜は柚葉の腕を抱き締めた。ふるふると折れるくらい何度も首を振る。立ち上がろうとすると、膝ががくがく震えた。言葉を紡ごうとするのに、喉に張り付いたかのように声が出てこない。案の定、足に力を入れようとしたところで崩折れた。

「桜さま!」

 こちらの意図を察したらしい柚葉が腕をつかんで止める。その手を桜は身体いっぱいの力をこめて振り払った。乾いた大きな音が鳴り、濃茶の眸が驚いた風に見開かれる。嗚咽が喉を震わせそうになって、桜はぐっと奥歯を噛み締めた。向き直る。ほとんど這うようにして、差し伸ばされたその手を取ったといっていい。こわごわつかむと、男の手は凍りつくくらい冷たくて、やっぱり身体が震えた。

「――決まりだな」

 手を握り返される。冷酷な男の手のひらは、握ると固く肉刺だらけで、桜の大好きなひとの手に少し似ていた。




 ――三日後。梅の花が散り始め、都の歌人たちがそれを歌にするのに夢中になっている頃、橘雪瀬の処断が内々に詮議によって決せられた。詮議が終わるや、中務卿玉津史は柔和な顔を少し引き攣らせながら退席した。




 囚獄の最奥の牢が叩かれたのは、翌日の昼下がりであった。牢役人に突っ立てられ、雪瀬は牢の外へ出る。出口ではなく懲罰房のほうに連れて行かれるので、果たして自分は何をしでかしたのだったかとうまく働かない頭で記憶をたどっていると、懲罰房の手前のところで止められ、代わりに湯気の立つ浴槽のほうに突っ込まれた。手枷を解かれ、身を清めろと命じられる。そういえば、雪瀬の衣服は今までずっと取り替えられていない。つまり、捕まったあのとき着ていた小袖と袴のままである。ふた月以上も着古したそれは血と汗とで汚れ、もはやぼろ布といってよく、悪臭もひどいにちがいなかったが、そういうことはもうよく雪瀬にはわからなくなっていた。嗅覚がおかしい。鋭かったはずの視覚や聴覚も衰えている。ふた月でこれなのだから、十年以上光の差さない檻の中に閉じ込められるのはいったいどんな地獄だ。
 
 清め終わると、糊のはった新しい小袖と黒羽織を渡される。いかにも上質そうな黒羽織の衿には花紋が入っていることに雪瀬は気付いたが、橘紋のついた羽織を持って来いと騒いだところで栓のないことなので、見なかったことにしておとなしくそれに着替えた。



「十人衆の伊南(いな)だ。月詠殿の命を受け、迎えに来た」

 囚獄を出ると、待ち構えていた男へと引き渡される。見覚えのない顔だが、十人衆を名乗ったからには月詠の配下なのだろう。質素な牛車に押し込まれ、どことも知れぬ場所に運ばれていく。手首には木の手枷がはめられており、そばでは帯刀した武者らしき男が見張っているという徹底ぶりだ。逃げようもない。
 半刻ほど牛車に揺られた。どこをどう曲がったのか、よくわからなくなってきた頃、規則的な振動を伝えていた車輪が唐突に止まる。武者に無言で促され、雪瀬は地上に降り立った。砂ぼこり混じりの凍えた風が吹き抜ける。あたりには人気がなく、目の前に立つ屋敷の築地塀もところどころが崩れていて、長年使われていない廃屋のように見えた。いったいここはどこなのだろう。さすがに雪瀬も不審に思って、背後の伊南と名乗った男に探るような視線を向ける。しかし男はそ知らぬ顔で、歩けと命じた。
 
 傾いている戸を開け、中に足を踏み入れる。思ったとおりひとのいる気配も独特の生活臭もなかった。通された部屋には申し訳程度の畳が一枚敷かれているだけで、御簾や几帳のたぐいはない。灯台が二、三あるが、明かりは灯されておらず、夕方のため、中はぼんやりと灰色に沈んでいた。

「そこで待て」

 背中を小突いて座らされる。しばらく待っていると、外のほうでまた何やら牛車の音がして、中に誰がしかが入ってくる気配がした。おそらく月詠であろうと見当をつける。けれど雪瀬の予想を反して、襖を開いて現れたのは、桜色の直衣に身を包んだ中年の男であった。詮議のときに顔だけ見たことがある。確か、中務卿の玉津といったか。ゆったりした直衣からもなおこぼれて落ちそうな肥えた腹はまるでどこぞの山のたぬきのようで、化粧のされた面だけが異様に白い。刀を携えた幾人もの武者で左右を固め、口元を隠す檜扇越しに男が一瞥を送る。雪瀬は無感情にそれを見返した。

「――似ておるな」

 少し高めの、滑らかな声が呟く。
 扇のせいで口元は見えないが、目は笑っていた。

「どぶ色の髪にどぶ色の目。忌々しい目つきまでそっくりだわ。もう三年もすれば、まこと兄と同じ顔になるな」
「……あなた何。月詠は?」

 くだらない口上を続けられるのもうんざりだったので、雪瀬は別のことを尋ねた。

「中務卿、の顔も知らぬか田舎者」
「存じておりますよ。中務卿がたぬき顔で肥えた腹をお持ちなのも含めて。あなたが言うところのどぶ色の髪にどぶ色の目の兄が酒の肴に教えてくれましたから」
「……ほう」

 それまで柔和であった男の双眸が狡猾な狐のごとく細まる。ちんと鍔鳴りの音がして、雪瀬の背に知らず緊張が走った。肩越しに視線をやって、諒解する。刀を抜いた男が三人。すべて切っ先をこちらに向けている。

「ああ、そういうこと」

 雪瀬は冷笑し、刀の切っ先を睥睨した。

「“十人衆の伊南”なんて嘘っぱち。肝心の月詠はいつまで経っても現れず、代わりにしゃしゃり出てきたのは関係ないはずの中務卿。何かおかしいと思っていたら、最初から月詠のところに連れて行く気なんかさらさらなかったわけだ」
「月詠殿がおぬしに迎えをやったのは真だよ。ただ、それより早く私の手の者がおぬしを牛車に乗せたというだけ。今頃、本物の伊南は囚獄に立ち尽くし、きょとんとしておろうぞ」

 ほっほと高い笑い声が立つ。首と顎との境がつかなくなるくらいでっぷり喉にまとわりついた肉がそれにあわせて上下に蠢き、何か得体の知れない生物のような様態を見せた。奇妙に揺れる喉を抑えて、玉津は檜扇で分厚い面にせっせと風を送る。

「しかしひとつ、どうにも解せぬことがあってな。それを聞きたくて、ここに参った。おぬしの粥に混ぜた毒、あれをどのようにして切り抜けた?」
「ドク?」

 寝耳に水の言葉に、雪瀬は顔をしかめる。男はそれを法螺だと取ったらしい。ぱち、と扇を鳴らすと、落ち窪んだ目を冷たく眇めた。

「よもや、百川漱か?」
「……何の話?」

 漱が雪瀬を助けたことはあるにはあったが、それは今包帯の巻かれている右手に関してで、粥だの毒だのは聞いたことがない。いぶかしんで雪瀬が反対に聞き返すと、玉津はしらけた顔でこめかみを揉んだ。

「あくまで知らぬ存ぜぬを通すか。――まぁ、それもよい。まだ十六の子供ゆえ憐れではあるが、すべてはおぬしの兄の不徳の起こしたこと。おぬしにはここで消えていただこう」
「どうして、」

 わからなかった。
 中務卿まで務める男が何故このような手の込んだことをするのか。

「俺を斬ったってあなたには何の得にもならない。なのに、何故こうして命を取ろうとする」
「知る必要はない。ただ、おぬしに葛ヶ原に戻られると、こちらは困るのだ」
「葛ヶ原に、戻る?」
「時間がない。話は終わりだ」

 ぱち、と扇が閉じられ、玉津が後ろに下がる。

「――やれ」

 命令が飛ぶや、三人の武者たちが一斉に飛びかかってくる。
 とっさ、ほとんど反射的に雪瀬は両腕を前に突き出した。手枷と刀とがかち合って大きな音を立てる。それに相手が怯んだ隙に、脇に置いてあった空の灯台を取って、まず右の男の横っ面を殴りつけた。泡を吹いて男が倒れる、そのときには雪瀬は灯台を二人目に向けて投げつけており、さらに床に転がった刀を取った。灯台を腹に食らってたたらを踏んだ男の胸のあたりを薙ぐ。血が派手に散った。皮膚を裂いただけなので、命に別状はなかろうが、それだけで男は戦意を喪失してしまったらしい。ぺたんと座り込んだ男から目を上げて向き合うと、最後に残った男は刀を捨てて逃げ出しているところだった。とんだ腰抜けばかりである。
 頬のあたりに飛んだ返り血を袖でぬぐい、雪瀬は部屋の隅でかたかたと歯を鳴らして縮こまっている玉津を振り返る。ひゅんと風を切って首のすぐ横に刀を突っ立てた。

「もう気ぃ済んだでしょ。月詠のところに案内して」
「ひ、ひ、人殺しぃ……」
「そうだね、人殺しだよ。だけど、そういうあなたも立派な人殺しだよね。こうして俺を殺そうとしてるんだからさ」
「……ば、馬鹿にするな! わたしはおまえらのような野蛮な輩とは違う!」
「へえ? なら、ご高説たまわりたいもんだ。どう違う」
「お、おまえらとは根本からして違う。まず生まれが違う。血が違う。そ、そうだ、たとえばたちばなさおと、」

 思いつきで名前を出したのかもしれない。しかし雪瀬の表情が意図せず引き攣ったので、それで気をよくした風に玉津は饒舌になった。

「お前、お前の兄の最期を知っておるか? 手のひらを杭で貫かれ、足も貫かれ、槍を腹に何度も刺されたせいではらわたをはみ出させ、痛い痛いと泣き喚いた挙句、処刑人に鼻水たらして許しを乞うたというぞ。ふ、ふふ、末期に及んで本性を現すとはこのことだな。あやつも所詮は田舎の――」

 だん、と刀を壁に叩きつける音が男の声を遮る。その先は男自身の甲高い悲鳴によって掻き消えた。耳を。男の耳朶を刀が縫いとめていたのだった。

「ご教授ありがとう」

 壁に縫いとめた男の耳に唇を寄せ、雪瀬は淡然と囁いた。一度刀を引き抜いてやると、玉津は腰が抜けた風にぺたんとその場にへたり込む。丸い鼻先に刀を突きつけ、雪瀬は言った。

「なら、試してみましょうか。今から、ここで、その血の違いというヤツを」
「な、何を……ひっ」

 男の声がうるさかったので黙らせる目的で、さっき縫いとめた耳を切り捨てる。男の喉元から悲鳴がほとばしった。鮮血がどろどろと吹き出して桜色の直衣を濡らす。雪瀬は床に落ちた耳には目もくれず、騒ぐ男の肩を足で押さえつけ、直衣を切り裂いた。破れた衣を刀の先でよりわけると、生白くでっぷり肥えた腹がのぞく。すっとなぞれば、赤い線が引かれて新たな血が滲み出た。なんだこんなに肥えているくせに出るのは赤い血なんだなと妙な感慨を抱く。

「ああ、なんでしたっけ。手を杭で貫いて? 足を杭で貫いて? その上で、腹を抉ってはらわたをはみ出させる。それでも穏やかに微笑ってられるんだったらなるほど、あなたは高潔だ。尊敬して差し上げる」

 薄暗い愉悦のようなものが身体を支配していた。
 愉悦。そう、認める。これはまごうことない、人間の中でもっとも低俗にして醜悪な快楽の情動だ。自分が目の前の男の生殺与奪を掌握しているという優越感。それがこうも心地よいものだとは思わなかった。別に雪瀬はこの男に報復をしてやろうとは思っていなかった。橘颯音を殺したのは彼ではないし、自分がこの男に痛めつけられたというわけでもない。ただ、雪瀬は目の前の男をいたぶりたかった。嬲って、いたぶって、いっそ死んだほうがマシだというくらいの屈辱を与える。いかにも矜持の高そうなこの男に、果たして耐えることができるだろうか。

「や、やめろ……」
「――ご冗談」

 雪瀬は男の懇願を一蹴すると、肥え太らせた肉のせいで醜くたるんだ腹部を刀の切っ先でなぞった。それだけで怯えた男の喉からみじめったらしい悲鳴が漏れ、肌にぶつぶつと鳥肌が立つ。血色のよかった肌からはすっかり血の気が失せていた。雪瀬は刀の切っ先でさらされた肌のあちこちをなぶるように切り裂く。男の白い肌はやがて血まみれになった。つー…と生暖かいものが股下を濡らし、床に広がる。男は失禁をしていた。涎と涙を垂らした顔ですがるようにこちらを見ていた。それを冷めた眸で眺める。
 
「どうか……」

 男の喉が低く震える。

「何でもする。どうかお慈悲を……」
「――どちらがいい」
「は、」
「手を貫かれるのと足を貫かれるのどっちが先がいい」

 男の落ち窪んだ目が驚愕から絶望の色を帯びる。
 そのとき背後の襖が開いた。