二章、空葬の骸



 十五、


 部屋の中は惨憺たるありさまだった。
 大の男が三人も昏倒させられている上、宮中でも名高い文官が血塗れになって失禁をしている。残照もまもなく尽きよう薄闇の中、ひとりたたずむ少年は冷然と腰を抜かした文官を見下ろしていた。硬質な琥珀の眸。表情が無い、とはまさしくこのことを言うのだろう。


 囚獄へ雪瀬を迎えに行った伊南が血相を変えて戻ってきたのは一刻ほど前のことだ。何でも、すでに十人衆の伊南を名乗る者が現れて雪瀬を連れて行ったという。思い当たる節はあった。もしも玉津が行動を起こすとすれば、今日をおいて他ないと漱も考えていたから。そのためもあって、伊南に雪瀬を迎えに行かせたのだが、あちらのほうに先手を打たれたらしい。にわかに焦りを帯びる漱をよそに、報告を受けた月詠はのんびり香を調合しながら、十人衆の白藤(しらふじ)を呼んだ。現れた、まだ少女といってもおかしくない顔つきをした女は月詠から事情を聞かされると、顎を引いて、指笛をひゅるりと鳴らす。まもなく少女の白い手の甲に止まったのは、どこにでもいそうな二匹の蝿だ。ふんふんと深刻そうな顔で、羽音を鳴らす蝿に相槌を打つと、白藤は月詠に何がしかを耳打ちした。遠いな、と意味深な呟きを漏らして、月詠は脇息から腰を上げる。――あなた自ら動くのか。心中を注意深い漱は言葉にこそしなかったが、月詠は苦笑し、「この娘がお前に道案内なぞしとうないと駄々をこねるゆえな」と白藤のおかっぱ頭を撫ぜた。
 そうして、向かった先。不吉な予感に駆られながら襖を引くと、少年は立っていたのだった。漱の予想とは逆の立ち位置で、ひどく冷めた表情をして。

「これは……、きみがひとりでやったの?」

 誰かが確認せねばならないことだったので、漱は尋ねる。
 漱の声が届いたのだろうか、雪瀬はつとこちらを振り返ると、すぅっと眸を眇めた。

「やった」

 それが正気を失った者の目であったなら、どんなにか安堵しただろう。しかし、彼の濃茶の双眸は硬質な琥珀のように冷え切って、冴え冴えと理知の光を宿している。この少年は正気と狂気の境が曖昧になってくると逆に理知的な顔をするのではないかと漱は思った。この状況ではいっそそちらのほうが異様だ。
 
「伊南さん。医者を呼んでください」

 漱は呆けた顔で突っ立っていた男に頼むと、倒れている輩をざっと確認し、一番重傷そうである玉津のもとへかがみこむ。肩のあたりが真っ赤に染まっているのでそこを負傷しているのかと思ったが、よく見ると片耳がない。気付いて視線を落とせば、すぐ足元に脂肪のたっぷりついたふくよかな耳が落ちており、声を上げる代わりに漱は眉を少しひそめた。

「失礼」

 詫びて、切り裂かれた直衣を開かせてもらう。布地がところどころ赤く染まっているので肝を冷やしたが、でっぷりした腹を検分すればなんということはない、皮膚が浅く傷つけられているだけだ。ほっと思わず安堵の息を漏らす。それでようやく思いついて、玉津さま、と声をかけるが、応答がない。男は太い首をがっくり落として沈黙している。

「玉津さま。平気、ですか」

 もしやあまりのことに心のほうが先に壊れ――もとい、気絶してしまったのだろうか。肩を揺らすわけにもゆかぬので、控えめに男の頬のあたりを叩こうとすると、くつくつ、くつくつ、と男の喉が奇妙に震えた。生気を爛々とみなぎらせた目がぎょろりと動く。

「残念でしたなぁ、黒衣の君。あなたの計画は破綻だ。わたしがこんなことになった! 重罪だ! 明日にでも詮議にかけて、こやつを兄と同じ磔刑に処してやる!」
「それは穏やかじゃないな」

 対する月詠は口元に愉快がるような笑みを載せている。どうやら想像と違う反応だったらしい、玉津は面食らった様子で目を瞬かせた。

「そ……、そうだ磔刑だ。これでおぬしの計画も水の泡よの」
「計画とは、はて、なんのことやら判じかねるが。明日の貴殿にさほどの力が残っているかははなはな疑問であるな」
「なにを……」
「実は数日前に、都察院のほうへ足を運んできましてな。あそこは私の世話した男が長官をやっているのだが。嵯峨という――、そういえば貴殿も既知だったのだな。世間話ついでに、先日小耳に挟んだ噂話などをしてきた」
「噂話?」
「ああ。無臭の毒はさぞや金子がかかったでしょうな。しかも異国産となると」

 月詠が黒の衿元から懐紙を取り出すと、はっとした様子で玉津が息を呑む。

「もしやおぬし……!」
「そのとおりだ。察しがよくて助かるよ玉津。――牢役人に毒を渡したな? 罪人を私怨で殺めようと画策するとは、と刑部卿も怒っておる。毒を手配した霧井の商人はすでに口を割った。さらに不正な官職売買についても二、三言及してやってもよいが」
「私を葬り去る気か!」
「しばらくは自宅に蟄居していただこう。まぁじきに都察院から召喚状が来る」

 月詠が告げると、玉津はくそっと血走った目に憎悪を湛える。

「丞相に、就く気か素性の知れぬ下賎が!」
「少なくとも、貴殿がその座に就かぬことだけは明らかだな」

 肩をすくめ、月詠は白藤に目配せした。
 微かに顎を引いた白藤に、「それから」と小さく何がしかを耳打ちする。白藤は軽く目を見開いたが、御意に、と告げて、衣を翻した。




 喚く玉津とのびた護衛たちが白藤によって連れて行かれてしまうと、あたりは奇妙な静寂に包まれた。いつの間にか落陽もすっかり尽き、暗闇がじわじわと足元を侵食している。気を利かせた伊南が外から取ってきた火で灯台をともすにいたって、月詠はようやく顔を上げた。

「伊南。それを解いてやれ」

 雪瀬の手首にかかったままの枷を顎でしゃくって、言う。
 とたんに伊南の顔が強張った。

「しかし月詠さま! こやつは中務卿に重傷を負わせた野郎ですよ!」
「なんの。皮膚を一枚めくってやっただけではないか。もともと面の皮がことのほか厚い男だったからちょうどよかったのではないか?」

 別に冗談のつもりはないらしい。抜け抜けと真顔で言って、「――それに」と月詠は脇に置いた太刀の表面をひと撫ぜした。

「飛び掛ってみろ。一瞬後には首と胴体とを切り離してやる」

 それは伊南への返答であると同時に、雪瀬に対する威嚇でもあったのだろう。実際、今の状態の雪瀬では月詠に勝てるわけなどなかったから、事実と言ったほうがよいのかもしれない。一瞬閃いた、殺意にも似た冷気はその場にいた他の者にも伝わったらしい。伊南はしぶしぶといった顔で、手枷を外す。久方ぶりに自由になった両手を膝につけ、雪瀬はそれまで引き結んでいた口を開いた。

「……俺はどうなる」
「さぁな。どうしてくれよう」
 
 月詠は蘇芳色の脇息を引き寄せ、黒衣の衿をくつろげた。

「中務卿の監禁に拷問。常ならば、それこそ鞭打ち千回に妥当する所業だな。まぁそのような身体では五十回あたりでくたばるのが関の山だが」

 口端を歪めて語る様子は、この状況を楽しんでいるかのようだ。
 見かねたらしい漱が大仰に息を吐く。

「ねぇ、つっきー。いい加減にしなよ。あなたが今日弟くんを呼んだのは別の用件があったからでしょう?」
「『用件』?」

 そこでようやく、そも自分は伊南という男に呼ばれて外に出されたことを雪瀬は思い出した。てっきり玉津の嘘かと思っていたのだが、そうではなかったらしい。

「今日お前を呼んだのは他でもない。お前の処断が昨日上で内々に決定したからだ。正式に勅旨が出るのは明日以降になると思うが」

 黒と紫の眸がすぅっと蛇のように細まる。
 月詠は横に置いてあった文箱からおもむろに書状のようなものを取り出すと、結び紐を解いて、こちらに投げやった。床に転がったそれはおのずから中身を開いていく。中央にいくつかの赤い――判が見えた。誓約の証。そして右端を見れば、「嘆願状」と流麗たる筆致で書かれている。

「毬街と瓦町、さらに南方を中心にした諸領と南海による減刑の嘆願書だ。お前の刑を軽くするようこちらに求めてきている。ちなみにこれは俺宛で、評定所宛のほうは十日前に提出してきた。協議の末、評定所はおおむねこの嘆願書を受け入れる方針のようだ。大量の金が、裏で支払われたゆえな。いきり立っていた玉津もあの調子だし、このぶんだと、お前は命を取り留めるらしい」

 月詠は嘆願書へ目を落とし、感情の籠もらない声で言う。

「ただしこれにはひとつ条件がある」
「条件?」

 聞き返すと、怜悧な双眸が自分を捉えた。

「葛ヶ原に戻れ、雪瀬。そして準備が整い次第、宗家の家督を継ぐのだ。毬街、南海、瓦町はそれを求めている」