二章、空葬の骸



 十六、


「領主?」

 予想だにしなかった言葉に、雪瀬は目を瞬かせる。
 月詠は顎を引いた。

「ああ。日を置かず、評定所から放免を告げる達しが出るだろう。お前がそこに血判を押せば、それで承諾になる。これは暗に葛ヶ原に戻り、家督を継ぐことに同意したという意味でもある。くたびれ死にたくなかったら、毬街・南海・瓦町の求めに応じて、家督を継げ」

 男の言葉を咀嚼する。頭がじわじわと痺れてくる気がした。だけど、どこかでああ、と思ってもいる。漱が弱った自分を蓮に見せたのはこのためだったのだと。死なせるわけにはゆかなかったのだ。俺を、このときのために。そう思うと、暗い自嘲の念に駆られた。なんにも知らずに、さおとにいのところにゆきたいといった自分。なんて愚かなんだろう。なんて――

「非力なのだろうな、お前は」

 脳裏を貫かれるような衝撃があって、雪瀬は顔を上げた。
 月詠は切れ長の眸を細めて、のんびり香木を選んでいる。

「非力だろう。己の運命を自ら選ぶことすらままならぬお前は。雪瀬。だから、俺は今日、お前を呼んだのだ」

 すっと、男の白い手が無骨な懐刀を差し出した。

「昔、俺がお前とそう変わらぬ子供であった頃。生き倒れていたのを、旅人に拾われたことがあった。男は俺に水と握り飯とを与え、地面に置かれた太刀をじっと見つめている俺にこう言った。欲しいのか、ならこの太刀をくれてやってもいい、ただし俺の一物を咥えることができたなら」

 男の淡紫の眸が妖艶に光った。

「刀をやろう。お前の手から俺の手に返されたものの礼に」

 意図の読み取れない言葉に、雪瀬は眉根を寄せる。その所作すら愉快だとでもいわんばかりだ、喉奥をくつくつと低く鳴らして、月詠は言った。

「選ぶがよい。肉親を殺した朝廷にくだり生きながらえるか、潔くここで果てるか。選ぶ自由を与えよう。俺に跪くことができぬというなら、明朝までにそれで腹を切れ」
「ちょ、つっきー!?」
 
 漱が悲鳴じみた声を上げる。雪瀬と月詠との間に置かれていた懐刀をすばやく取り去って、青年は黒衣の男を睨み据えた。

「話が違う。あなたはこの子を殺す気ですか」
「おかしなことを。選ぶのはこいつであって、俺じゃない。第一、お前ごときに話がなんだと指図されるいわれもないな」
「いーえ、あります。ありますとも。この子を助けたのはわたしだ。そう簡単に死なれちゃあ、蓮さまに叱られる」
「ふんお前が困る、の間違いではないか? 平和主義の漱殿」
「月詠」
 
 とたん険しさを増した漱の視線からさらりと目を外し、月詠は脇息から身を起こした。

「ところで、今日はこれとは別にお前にとびきりの土産がある。――伊南」
「は」
「届いたものがあったろう。アレを持ってこい」
「は……。ですが月詠さま。お話のものはすでにふた月以上前のもので、今は日も経ち――」
「保存用の酒に漬けてあったろう。問題ない。今頃白藤が表に運んでおろう、持って来い」

 再度月詠が命じると、伊南は顔を蒼褪めさせたままどこぞやへ飛んでいった。そしてしばらくしてから、大儀そうに両手で抱えて白木の箱を持ってくる。それをひと目見た漱が軽く息を呑んだ。

「つっきー」
「なんだ」
「よもやと思うのだけど、それは」
「そうだ」

 月詠は軽く顎を引き、口を開いた。

「橘颯音の首だ」
 
 はっとして、雪瀬は膝元に落としていた視線を跳ね上げる。
 目の前に置かれた白木の箱は確かにひとの頭部が入るくらいの大きさだった。強烈な酒の匂いがする。保存用、と月詠が今しがた言っていたことを思い出した。

「実は橘颯音の死体は三日も放置されたせいで山犬に食われ、さんざんになっておってな。加えてここまで運ぶ間に奪われ、ふた月近くも消失していたときた。先日戻ってきたはいいが、誰もその首が本人か確認できんのだ。そのせいで、都の心無い連中が葛ヶ原の流れ者らしき男を見つけると、やれ橘颯音だやれなんだと言って袋叩きにしておる。――だが、血を分けたお前なら、本物かわかるであろう? 首の検分をせよ」

 肩が小さく震えた。

「けんぶん……俺が?」
「そうだ」
 
 月詠はうなずき、箱を雪瀬の前に押しやる。
 
「箱を開けよ」

 けれど雪瀬は動けない。
 ただ魅入られたように自分の前に置かれた箱を見ることしか。

「どうした」

 ふっと月詠は笑ったようだった。
 玉津の残していった檜扇をぱちんと開いて、閉じる。
 
「できぬか。――ならよいが」

 箱を取り去られそうになるにいたって、雪瀬はそちらへ手を伸ばした。

「やる」

 その声は、すでに自分の喉から発せられたものには思えなかった。誰か別の人間が雪瀬の喉を借りて、喋っているような、そんな気すらした。月詠はひとつうなずき、「漱」と隣の男へ目を向ける。

「お前は下がれ」
「この子をどうするつもりです」
「命令だ、下がれ」
「ねぇ、その前に聞かせてよ。あなたさっきからいったいこの子に誰を重ねているっていうんです? 答えてみなよ、何をして、どうしたらあなたは満足するんだ白雨黎!」
「――漱さま」

 伊南にも肩をつかんで懇願され、漱はこれみよがしに舌打ちした。
 しぶしぶといった風に席を立つ。

「……そんなに楽しいもんですかね。過去の自分をいたぶるっていうのは。わたしには一っ生わからないな」

 月詠の返答を待たずにぴしゃりと荒々しく扉が閉まった。
 静寂があたりを支配する。雪瀬は覚悟を決めて、箱に手を伸ばした。
 白木の冷たい感触が手を通して伝わる。紐を解き、蓋を開けた。中には灰色の壷が収まっている。それを抱え上げ、自分の膝元に置いた。何度も失敗をしながら壷の蓋を閉める封を解く。ひどく手間取りつつ蓋を開くと、むっと酒の臭気と何かが腐敗したような臭いが鼻についた。強烈な吐き気を覚えながら、雪瀬は酒にぞわりと浮かんでいた髪の毛のようなものをすくいとる。
 褪せた茶の髪だった。
 雪瀬は中に沈んでいた塊を引き出す。漬けていた酒がぽたぽた畳に水滴を落とし、一緒に頭皮と一緒に禿げた髪が絡まり落ちた。ふた月以上酒に漬けられていた首はすでに内側から崩れて人間とは思えないほど膨張しており、つかめば頬肉らしきものの中に手が沈んでいく。目玉はなかった。唇はめくれあがって歯がのぞいていたし、鼻もそげてただ穴のようなものだけが残っている。少し引き上げただけで、ぼたぼたと腐敗した肉片が膝や畳の上に落ちた。雪瀬は眸を眇めてそれを見ていた。静かに見ていた。

「どうだ雪瀬」

 男の声が遠くからした。

「どっちだ。橘颯音の首なのか、そうではないのか。――あぁ、腐敗が進みすぎていて、お前であってもわからぬか?」

 嘲笑に、雪瀬はこたえることができない。
 不意に激しい衝動が襲ってきた。口元を手で抑えて、腹の底からせりあがってきた酸っぱいものを耐える。嘔吐感はすぐにはおさまらなかった。喉が変な風に鳴る。

「雪瀬」

 男が呼ぶ。嘲笑うかのように。いたぶるかのように。
 ああ、息ができない。
 それでも、一心にその声にこたえようとしたのは。意地、だったのかもしれない。あるいは何かもっと大きなものに突き動かされるようにして、雪瀬はぐっと顔を上げた。

「――俺の兄だ」

 雪瀬は、言った。迷うことなく。
 背に芯が通る。首を元に戻し、蓋をし、紐をかけ、白木の箱に入れて男のほうへ差し出す。見据えた先の男は無表情だった。眇められた眸がしばし雪瀬を見つめ、やがて、ふっと淡い笑みを口元に載せた。

「そうか」

 うなずくと、「伊南」と控えていた男を呼び、白木の箱を下げさせる。
 白木を運ぶ男と入れ違いに、白藤と呼ばれていたおかっぱの少女が襖を叩いた。それに気付くと、月詠は弄っていた檜扇を腰帯に挿した。

「頃合もよいな。これで俺の用は終わりだ」

 黒衣をばさりと翻して立つ。
 細く開いている襖の闇を見やって、月詠はこちらを振り返った。

「時に雪瀬。お前、お前の逃がした小鳥の行方は知っているか」
「……ことり?」
「桜」

 その名にどくりと大きく鼓動が打つ。
 知らず視線を上げた雪瀬に、男は暗がりの中。

「ああ、そういえば、お前いつぞやに俺には決して見つけられないと嘯いていたのではなかったか」

 暗がりの中男は、ぞっとするほど美しく微笑った。

「ここにいる。桜」

 そんなはずは、ない。
 そんなことは、起こらない。
 だって、袴裾にすがりつく小さなその手を離したのは雪瀬なのだから。
 あの雪のちらつく大地に置き去りにした。ここよりずっと遠く。ずっとずっと遠くの、誰の手にも届かない場所に置き去りにしたのだ雪瀬は。だから、そんなことは。

 かたん、と小さく襖が揺れる。
 暗闇の中からそっと顔を出した少女を見て。
 雪瀬は、絶望した。