二章、空葬の骸



 十七、


 部屋に一歩足を踏み入れたとたん、鼻腔をついた異臭に知らず肩が跳ね上がった。吐き気をもよおすほどの濃い血の臭いとそれから腐臭。床にはかすれた血の痕や、得も知れぬ饐えた臭いを発する水たまりが茶色い染みを作っている。その真ん中に、血まみれになった少年がいた。桜は目を丸くする。誰なのか、最初わからなかった。それくらいに変わり果てた姿で彼はそこにいた。

「そいつにずっと会いたかったのだろう?」

 立ちすくむ桜の肩に手をかけ、月詠が囁く。

「会いたくて、ここまでやって来たのだろう? お望みどおり会わせてやった。その小さな手足でここまでたどりつけた褒美だ」

 喉奥をさざめかせて笑うと、月詠は桜の身体を前に押し出すようにした。濃茶の眸が自分を見つめる。どうしてここにいるのだと、問うように。まるで罪人にでもなったかのような後ろ暗さが胸に押し寄せてきて、耐え切れず桜は目を伏せた。月詠が代わりに説明をする。

「嘆願状の話はさっきしただろう、雪瀬? それを持ってきたのがこの娘だ。お前を助ける代わりに、自分は帝のもとに戻るのだという。なんともスバラシイご決断じゃないか。雪瀬。お前はよい拾い物をしたな」

 やめて。桜は叫びたくなる。やめて。ちがう。桜はスバラシイことなんか何ひとつやっていない。このひとだって見ていたはずなのに、腰を抜かして、膝をがくがく震わせて、泣きながらようやく手をつかんだ自分。

「白藤」

 声を発することができないでいる桜を置き去りにして、月詠は白藤を呼ぶ。物言いたげな白藤の頭をひとつ撫ぜて黙らせてしまうと、月詠は黒衣を翻した。襖が閉じられる。日の完全に落ちた部屋には、明かりがぽつぽつと等間隔に灯っているだけで、桜と雪瀬のほかには誰もいない。訪れた沈黙に耐えられず、意を決してそろりと目を上げると、彼はすでに桜ではなく茶色い染みを作った床のほうを見つめていた。

「雪瀬」

 おそるおそる名前を、呼ぶ。血のにおい。彼の頬や衣、至るところに血液が付着している。とたんに鼓動が激しくなった。もしかしたら、怪我をしているのかもしれない。ひどい怪我をしているのかもしれない。考えたら、勝手に身体が動いて、夢中で走り寄っていた。

「へいき? どこか怪我、してるの?」

 そっと血の気のなくなった頬のあたりに触れようとする。だけど、指先が彼に触れる前に手を払われた。そのあまりの力の強さに桜は驚いた。目が合う。血やいろんなもので薄汚れているのに、眸だけはぞっとするほどきれいな色をしていた。野の獣が見せるような、鋭い、翳りを帯びた琥珀。

「何しにきたの」

 かすれた声で雪瀬は言った。喉が使い慣れていないひとみたいに弱い咳をして、ぜぇ、と息をつく。とっさに意味をはかりかねて口ごもった桜に、どうして、と彼は言い募った。

「無名たちはどうしたの? 沙羅は? 空蝉は? ねぇ、なんでこんなところにいるの? こたえて桜。こんな場所へ、何しに戻ってきたのか!」

 つかまれた肩を揺さぶられる。
 こんなに激しい語調で、罵るように彼から言葉を向けられたのは初めてだった。濃茶の眸は冷え切っていて、ああ、本当に、本当に、雪瀬は怒っているのだとわかった。心の底から嫌悪するような目。桜は怯えた。どうして。ただ、雪瀬にあいたかったからだ。何しに。雪瀬が遠いところへ行ってしまうと紫陽花が言うから、それを止めたかったのだ。だけど、それだけのことが今の桜には言葉にするのがひどく困難だった。喉がふさがったかのように声が出てこない。雪瀬は桜を責める目をしている。それだけで、桜の声は出なくなる。息を喘がせ、桜は首を振った。涙がすっと頬を伝う。ごめんなさい、と桜は言った。ごめんなさい、きよせ、ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。もはや何に対して謝っているのかもわからぬまま、幼子に戻ってしまったかのように許しの言葉を繰り返す。こわかった。その目に見つめられているのがたまらなくこわかった。だから、しゃくり上げながら必死に謝るのを繰り返す。――それを見た雪瀬は。濃茶の眸をふっと、何かに諦めた風に閉ざして、桜の肩を離した。

「……俺のせいか」

 薄暗い自嘲混じりに呟かれた声は、さっきの激情が嘘みたいに乾いていた。
 桜の肩をつかんでいた手が代わりにきつくこぶしを握っていることに気付く。きつくきつく。手を壊してしまうんじゃないかというほどにきつく。そんな風に強く握り締めてしまったら、本当に手が壊れてしまう。やめさせようと思って、桜は雪瀬のこぶしに手を伸ばした。けれど、さっきと同じように手を払われる。

「さわんないで」

 命令するようでいて、懇願するような声だった。
 彼は弱くわらう。さっきから。桜の知らないひとの顔でわらう。

「さわんないで。……おねがいだから」

 桜には、雪瀬の言っていることがわからない。
 ただ、さわんないで、と。拒絶の言葉だけがじんじんと頭に響いて身体を冷たくする。桜は、そっと雪瀬をうかがう。うなだれていて表情は見えない。だけど、その呼吸は危うくて、さっきから絶えずぜいぜいと肺腑を傷つけるような息の仕方をしている。痩せた肩が頼りなく上下する。本当に獣が弱っていくようだと桜は思った。それが悲しくて、桜はまだ叩かれたときの熱っぽい痛みが残っている手を開く。それから、目を瞑って、きつく瞑って、ぎゅうっとそのひとのからだを抱き締めた。
 恐ろしくてしょうがなかった。床に組み敷かれるより、身体の奥を貫かれるよりずっとずっと。また、拒まれたら。振り払われて、拒絶されてしまったら。きっとどうしようもなく傷ついて、心が壊れてしまうんじゃないかと。だから、怖い。怖くて。怖くて怖くて、たまらなかった。その、自分よりずっと痩せてしまったんじゃないかという身体にしがみつくようにしながら、桜は震えていた。泣いて、震えていた。やがて、身じろぎがあった。それは、桜の脆弱な力でもねじ伏せてしまえるくらいの、小さな、小さなものであったけれども。小さく、逃げるように身じろいで、まるで追い詰められたかのように細く息を吐いて。投げ出されていた腕が確かな意思を持って桜の肩を抱き締める。それまでそのひとのものであった重みがすべて桜にかかった。支えてあげたかったのだけど、だめで、身体がぐらりとかしぎ、床に倒れこんで背をしたたか打つ。伝わった衝撃に眉根を寄せていると、つぅ、とささくれた指先が桜の頬をなぞった。ぼんやり頬をなぞる感触に身をゆだね、それから、息が触れ合うほど近くにある顔へ目をやる。
 
「どうしてもどってきたの……」

 壊れそうな吐息が瞼をかすめる。

「どうして」

 そうやってなじりながら、そのひとはとても傷ついた表情をする。それが、たまらなく胸の奥の柔らかいところを抉った。

「あいたかった、の」
「こんな薄汚い男に?」
「あいたかった」
「じぶんを見捨てて放り出した男に? あって、どうするの」

 自嘲気味に嗤う。どうしてそんな風に、自分を貶める言い方をするのか。
 悲しくなってきて桜は目を伏せ、泣きそうな顔でこくんとうなずいた。
 
「あいたかっ……」

 そのあとは続かなかった。
 唇を塞がれる。かさついた感触があって、いつものように淡く啄ばまれる暇もなく無理やり割り開かれた口内へ温かな舌が入り込んできた。むっと唾液のにおいが広がる。ひとのにおい。桜は目を細めて、それを吸う。長い指先がほどけかかった髪に挿し入り、ぐしゃぐしゃにして、乱れた袷をも引き剥がした。かしゃんと柚葉にもらった燻し銀の簪が音を立てて挿し抜かれる。肉刺や傷痕がいっぱいある手のひらがむきだしにされた素肌に触れた。びくっとひとのぬくもりに慣れていない身体が小さく震えたが、冷え切った背中をさするように抱き締められると、胸が一緒にぎゅっと締め付けられるような気分になった。唇が離れると、壊れかけた吐息がこぼれる。それをすくうようにまた唇が重なった。
 このひとの口付けはどうしていつもこんなに胸を切なくするのだろう。桜は不思議だった。そこに、甘美な味わいはない。かといって、どろどろした欲情にまみれているわけでも。それはいつもばらばらになりそうな心の痛みとともにあって、ひどく淫靡な音を立てているのに、薄暗い劣情は感じないのだった。ただ、切れ切れに、声にならない声がする。消え入りそうな。今にも潰れてしまいそうな。桜はその声をたぐり寄せてあげたくて、彼の凍えた深淵のような奥深くに触れたくて、手を伸ばすのだけど、届かないですり抜けていく、そんな悲しい錯覚に囚われた。
 長い間、せがみあうような口付けをしていた。離れたくなくて、そうするくらいなら、息をぜんぶあげて、死んでもいいと思った。だけど、本当に呼吸もままならなくなった頃、唇を離される。つぅと口端からこぼれた温かなものを彼が吸い、指の背が濡れた口端をなぞるようにして拭った。手が頬をくるむ。ぼろ切れのような包帯に覆われた手のひらはいつものひんやりとした冷たさが嘘のように、病めいて熱く、血のにおいがした。見上げた濃茶の眸が弱々しく揺らいで細まる。

「――……ゆるして」

 泣きたいくらいに優しい声が耳朶に触れ、濡れた唇と唇が重なる。
 目の前が温かな闇に覆われた瞬間、桜はどうしてか場違いに、傷ついて凍えた自分を路地裏から抱え上げ、人肌のこもった羽織で優しくくるんでくれた手のことを思い出した。深い悲しみのようでもありくるおしくもある感情が胸を襲う。ああ、と桜は思った。ああ、これを。ずっとわからなかったのに今急にわかった。あいたい、ふれたい、そばにいたい、それらでは言い尽くせないくらいの、この胸かきむしるような衝動を。ひとはイトオシイっていうんだ。


 それは、ひとつの終わりであり、はじまりでもある。