二章、空葬の骸



 十八、


 たぶん、数え切れない閨のどれよりも優しく犯されたのだろう。
 手首を縛られたわけではない。無理やりに押さえつけられ、足を開かされたわけでもない。彼は、やさしかった。乱れた髪を梳く手も、濡れた頬に触れる唇も、優しくて、少し冷たくて、でもあたたかかった。けれど、これが縫から教わったような愛を重ねる行為であったのか、それともただいつものように身体の中に欲を吐き出されているだけだったのかはよくわからなかった。それを推し量るには桜はあまりにも幼くて、身体を引き裂かれる痛みに泣いていた。


 汗ばんだ髪を大きな手のひらが梳いている。何度も、何度も。呆れるくらい何度も、繰り返し。重たい瞼を押し上げて、暗闇にぼんやり灯った光源を無意識のうちに探そうとすると、泣き腫れた瞼に口付けが落ちて、睫毛の先に宿った雫も吸われた。その間もずっと指が絡まった髪を梳いている。まるで壊れたものを拾い上げてつなぎ合わせようとするかのような手つきだった。身体の奥はまだずくんずくん痛んでいたけれど、だからこそ余計に、髪を梳く手の優しさにほっとして笑みを溶かす。すると、ふと髪を撫ぜてくれていた手が止まってしまった。面影を探してゆるゆる目を上げる。彼はそこにいて、静謐とした表情で自分を見ていた。やがて、壊れるように微笑う。水に張った薄氷にも似た、透き通った儚い表情だった。

「……わらわないで」

 まだ熱の残る手のひらが桜の頬を包む。

「もう、わらってくれなくて、いいんだ」

 濡れた頬をほんの少しさすって、手がほとりと力なく落ちる。小さな衣擦れの音を立てて、彼は桜に覆いかぶさったまま畳に額をつけた。弱い呼吸に合わせて肩が上下する。本当にかわいそうなくらいにその肩は痩せてしまっていた。柔らかであった濃茶の髪は傷んで、薄汚れてしまっている。桜はそろそろと彼の髪の毛に触れる。おぼつかない手つきで撫ぜて、そしてこめかみから頬へ。濡れたものに触れた。指をそぅっと窓のほうへかざす。指先から透明な雫が流れ落ちて、射し込んだ月光を通して淡く光る。それは、この部屋にそぐわないくらいにきれいだった。思わず目を奪われるほど、悲しいくらいにきれいだった。
 
「雪瀬」
 
 そんな風に、泣かないで。押し殺して、押し潰して、まるで自分をたくさん傷つけるみたいにして泣かないで。けれど、桜の心とは裏腹に、桜の上に覆いかぶさったそのひとは震えるようにして、声を殺して、誰に助けを求めるでもなく、それに押し潰されていくようだった。桜はそれが悲しくて、悲しくてたまらなくて、そのひとにしがみつくようにして泣いていた。ずっと。夜が明けるまで、泣いていた。






 右手には今、真新しい包帯が巻かれている。
 雪瀬は糊の張った黒羽織を風に揺らしながら、長い廊下を歩く。
 十人衆の伊南に導かれてたどりついた座敷には、すでに官吏や書士官が揃っている。雪瀬が座ると、少し遅れて中央の空いている席に月詠と都察院の長官である嵯峨とがついた。
 嵯峨によって嘆願書が読み上げられる。すでに評定所には話が通っていた。あとは雪瀬が差し出された約定の末尾に己の血印を押せば、嘆願は相成る。渡された小刀を取ると、薬指に軽く刃を当てる。固い皮膚でも斜めに刃を入れれば、見る間に赤い雫が切り口から膨らんだ。眼前には、一葉の約定。雪瀬はそれを眇め見、右手で軽くこぶしを作って膝上に置いた。顔を上げる。

「ひとつ」

 雪瀬は言った。

「頼みがある」






 桜が満開の日だった。
 葛ヶ原は風音の絶えぬ里である。ざわわ、ざわわとどこからともなくまだ冷たい風が吹き寄せるたび、群れ咲いた桜は花をもったりつけた枝を震わせる。南の山裾は桜がみな開いて、白い霞がたゆとうているようだった。遠くから雪解けの水の音が聞こえる。葛ヶ原を厚く覆っていた雪はまばらに溶け、そうしてあらわれた黒土のあちこちから小さな蕗の薹が顔を出していた。
 ぐぅんと鳥が羽を伸ばして飛翔する。
 雪瀬は萌えたばかりの若草をほうばる青毛の馬に背を預け、空を翔ける鳥を眺めていた。やがて、駆けてくる馬があり、雪瀬は頭上から視線を解く。そしてのんびり若草を咀嚼する風音(かざね)の首をべしりと叩き、桜の幹にくくりつけていた手綱を解いた。


 帝の代理でやってきた老勅使に、迎賓として招かれた黒衣の丞相補のほか、領主不在の間葛ヶ原を取り仕切っていた百川諸家、葛ヶ原の長老たち、近隣の領主たちが集まったため、広間はひとでいっぱいになっていた。橘宗家の使用人たちが駆けずりまわるのをはために、無名は戻ってきた風音の轡を取って厩の中に入れた。
 橘雪瀬の到着は若干遅れた。せっかちな老勅使がまだなのかとごちり、苛立たしげに指で膝を叩き始めた頃、すぱんと障子が開いたのだった。現れた今年齢十六を数えた少年の姿は格式を重んじる老翁たちの目を剥かせ、それより若い男たちを苦笑させた。白い小袖は確かに質のよい絹製らしい光沢をわずかばかりか残していたが、そのところどころや黒袴の裾には泥っぽい埃がこびりついている。橘の家紋がついた黒羽織の肩には桜の白い花弁が乗っており、一歩進むごとにそれが羽織を離れて床に落ちた。雪瀬は包帯の巻かれた右手で黒羽織を軽く揺らし、一同の前でさわりと花を払ってしまうと、遅れたことを詫びて、中央に置いてあった金銀で縁取りの為された座についた。

 ぴっと羽織を翻して、上座に座る勅使並びに丞相補の前に額づく。研ぎ澄まされた静寂がその場を支配した。呆けた顔をしていた勅使は雪瀬が顔を上げるにいたって我に返り、隣の丞相補を見た。月詠が面白そうに細めていた目を伏せたので、勅使は居住まいを正して声を張り上げる。

「で、では、これより橘宗家十代目当主及び葛ヶ原領主の相続の儀を執り行う!」

 広間に集った一堂がさっと身を正す。
 橘の花挿(かざし)をした若い娘がしずしずと進み出てきて、白折敷の上に載せた盃を雪瀬に差し出した。黒漆のそれには透明な酒が湛えられている。雪瀬は初代華雨の代から新たな当主が生まれるごとにその頭上にかざされてきたという橘の枝の前で額ずき、盃に湛えられた酒を飲む。新しく最長老の大役についた老翁がやってきて勅使に向けて深くこうべを垂れたあと、橘の枝を取って雪瀬の頭上で一度振った。常緑の葉がしゃらしゃらと鳴る。花挿をした娘に橘の枝を渡すと、最長老は古い書物を紐解いた。橘の歴史を連綿と綴ってきた史書、一章三節、華雨の言葉。

「『帝を守る盾となり矛となれ 常緑の樹 我が血族』」
「――風の血族の末、橘雪瀬」
 
 勅使が厳かに告げる。

「その頭上に風の恩恵はあり。これよりそなたを血族の名を継ぐ者と光明帝から与りし常緑の地を統べる者としてここに宣言する」
 
 そして、花挿しに挿された橘の枝を勅使に捧げれば、それで相続の儀は終わる。そのはずだった。だが、雪瀬は艶やかなる常緑の葉に一瞥を送っただけで、すいと視線を解くと、懐から別の枝を取って差し出した。はらはらと白い花びらが散る。ざわめきが起こった。常緑の橘に代わり、儚き春の花を。それはまごうことなくこの儀式を冒涜する行為であったからだ。

「なんたること。これがおぬしの心であるとでもいうのか」
「ええ」
「つまり、帝への忠義は花移ろうがごとく脆きものであると!」

 ざわめきの中、勅使の金切り声が響く。それを受けた雪瀬は静謐とした面持ちを崩さないまま濃茶の眸を細めて、薄く笑った。

「二心など。ただ、俺には御言葉にあったような風の恩恵がない。ご存知でしょうけど、俺は風の恩恵を与らなかった。そういう者が橘の枝に触れるには恐れ多いから、代わりに、葛ヶ原を歩いていちばん美しいと思ったものを差し出しただけです」

 大人というにはまだ少し細いところのある声が淡々と紡ぐ。細いのに、不思議と通る。声を失した勅使が手元へと目を戻すと、なるほど白い花をこぼれんばかりに咲かせた枝はたいそう美しかった。そうして勅使とその場に集まった者たちを黙らせてしまうと、雪瀬は天井のほうへすっと伸びる橘の枝を仰いだ。

「俺に風の恩恵はない」

 しんとした声が響く。

「ないんだ。強さも、ひとを守る力も、ひとをいとおしむ力さえ、何ひとつ。だけど、そういう俺を今日まであなたは育て生かしてくれたから。歩いてゆける。きっと、歩ききる。だから、心配しないで颯音兄」

 伸ばされた指先が何かをいとおしむように常緑の葉に触れ、離れる。そうして振り返った少年は集まった大勢の長老たち、領主たちを見つめて、不意に、淡く、春風がまろんだように目を細めて微笑した。それはまさしく優美といってよく、彼らはそこにたまゆら亡き風の影を見た。
 ――ここにおいて、十代目橘宗家当主ならびに葛ヶ原領主が東に立つ。
 十六歳という年齢は、先代が急逝した四代目の次に若かった。