二章、空葬の骸



 十九、


「これで、本当によかったの?」

 漱は花びら混じりの風に髪をかき乱しながら尋ねた。
 桜の花の咲き乱れるその場所には何百、何千もの名のない墓石が並んでいる。春のうららかな光を背に浴びて、桜の幹に繋がれた青毛馬が気持ちよさそうに瞼を下ろした。枝から転がり落ちた毛虫に気付いて、時折ふるふると身を震わせる。寂れた墓地にあるのは馬と、男と、それから吹く風だけ。

「よかったのです」

 背後を一顧だにせず、雪瀬は答えた。
それきり途絶えた問答の代わりに、何かを削るような小気味のよい音が途切れ途切れに続く。どうやら手にした小刀で膝に抱いた石に何がしかを彫りつけているらしい。漱は苦笑する。彼と彼の兄はときどき気まぐれに似た顔をのぞかせることがあったけれど、中でもこういうかたくなさが一番なんじゃないかと思ったからだ。

「薫衣ちゃんの馬だね。名は風音だっけ。きみが引き取ったの?」
「うん。だってねぇあいつ、俺が厩に行ったら、とたんに暴れ出して噛みついてきたんだよ。馬のくせに、ほんとに主人を愛してたらしい。ああ馬鹿だなぁって思って」
「それで引き取ったの?」
「引き取った。俺は馬畜生がダイキライだし、それならあちらもこちらがキライなほうがうまくやれる気がする」

 そういうもんかな、と漱は首をひねる。そうなんですか、と尋ねるつもりで風音のほうへおうかがいを立てると、青毛はこちらのことなど気にするそぶりもなく、気持ちよさそうにうたた寝をしていた。肩をすくめる漱に、雪瀬はほらねとばかりにおかしそうに笑ってまた石を削る。春風に揺れる濃茶の髪はこの三月ほどの間にいくらか伸びて、うなじに軽やかな毛先を落としていた。
 土の下には、首がひとつ入っている。他ならぬ目の前の少年が朝廷との約定に血判を押すとき、願ったことだった。――検分を終えた首は葛ヶ原に。琵琶師の温情によって望みは聞き届けられ、彼は兄の首を故郷に持ち帰った。

「都界隈で流行っていた東方の流れ者狩りはなくなったそうだよ。よかったね」
「その『颯音さま』の首が見つからなかったって話だけど。裏で糸を引いていたのはアナタ?」

 かつっと石と刀がこすれる音がする。虚をつかれた漱が思わず目をやると、先とは一転して冷ややかになった濃茶の眸がひたと自分をうかがっていた。喉元に刃を突きつけられたかのような沈黙が一時支配する。先に白旗を掲げたのは漱だった。

「やだな。もしかして、バレバレでした?」

 丸腰であったことににわかに後悔を抱きながら、にっこり微笑む。
 そうすると、濃茶の眸によぎった光も和らいだ。雪瀬はもう役割を終えたらしい小刀を鞘に納める。それを腰に佩くと、立ち上がって袴についた埃を無造作に払った。

「だってあなた以外にこんなことやってのける奴、他に思いつかないもん。目的は――、目くらまし? 柚たちの動きを月詠に感づかせないための」
「それも一理あります」
「一理」
「まぁもうすべては終わったこと。よいではありませんか」

 漱は曖昧に笑い、改めて雪瀬のほうを向き直った。
 見つめて、暗に促す。漱は雪瀬を探してこの場所へ来た。さっきからずっと、彼が口火を切るのを待っていた。もちろん、漱の真意が伝わっていたにせよ、聞いてやるかどうかは雪瀬次第なのだけども。真正面から向かい合った漱をしばし仰ぎ見、やがて雪瀬は「何」と観念した風に言った。

「何か話があるのでしょう。俺に」
「ふふ。いいねぇ、きみみたいにひとの先回り先回りして話せる子は嫌いじゃない。それならこちらも単刀直入に言いましょう」

 実はさ、と漱は種明かしでもするみたいに手を広げる。

「売り込みに来たんですよねわたし」
「売り込み?」
「ええ。どうです、わたしを雇ってみませんか、雪瀬さま」

 果たして雪瀬は怪訝そうな顔をして眉をひそめた。

「瓦町の法ノ家の当主を? 俺が?」
「いやーうん、それがさ。それがね、わたしもちょぉーっとヘマをやらかしちゃったというか、つっきーに柚ちゃんのことがばれてですね、うん。あとはまぁきみの手を勝手に治しちゃったこととか柚ちゃんを匿っていたこととかもろもろ? 月詠サマに呼び出されてこってりしぼられて、三年の参内禁止と領地追放を食らっちゃったんですよねぇ。まぁ、半分以上きみらのせいですけど。むしろほぼすべてきみたちのせいなんですけど」

 さすがにきみら、きみら、と強調しすぎたらしい。閉口してしまった雪瀬に、漱は「わたし、有能ですよ」と畳みかける。

「本当だったら千金積んででも雇いたいってひとがたくさんいるんだけど、きみが望むなら百金くらいで働いて差し上げる。どう? 人材不足の上、朝廷に支払わされる補償金やら毬街に譲渡する権益やらのせいでとても大変そうな葛ヶ原ときみにはこれ以上なくオイシイ話だと思うんだけど」

 ――さぁ、いったいこの子供はどうするだろう。
 お前の手など借りたくないと断るか、それともこれ幸いと乗ってくるか。そちらのほうへ興味を惹かれて、意地悪く見守っていると、思案げに伏せられていた眸が不意に確かな意志を持って漱を仰いだ。

「聞きたいんだけど」
「なんでしょう」
「その引く手数多らしい領主の中から、どうして俺を選んだの?」

 もっともな質問だ。
 いっそわが子を見つめるような気持ちになって漱は微笑む。

「かわいそうに思ったから」

 濃茶の眸が一度瞬いた。

「あとは人並みにセキニンをね、感じたんですよ。きみから颯音さまを奪い、望んでいない運命を背負わせる一端を担ったのはわたしだったから。瓦町をおんだされて、どうしようか考えて、迷わずここを選びました。きみひとりに不幸になられちゃあ、寝覚めが悪いもの。わたしはとっても心がヤサシイんです」

 だからお前は性格が悪いんだ、と嘆息する紫陽花の声が聞こえてくるようだった。およそ聞きしに耐えない侮辱をされて、しかし目の前に立つ子供は別段表情を変えなかった。ゆるりと目を伏せ、ひねくれてんね、と呟いた。

「もう一個」
「どうぞ」
「もしも俺があなたを雇うとして。あなたは俺に何をもたらしてくれるの?」

 不意打ちであったにもかかわらず。
 探す前に、言葉は口から滑り出た。

「――この世界で生き抜く術を」

 足元の若草をさざめかせて風が舞う。強い風が草をそうと波立たせ、木々を揺らし、青空へと。眩しそうに眸を細めて雪瀬はそれを見ていたが、ふと何を思ったかしたたかに笑った。

「よいね。ちょうどそういうの、欲しかったんだ」
「じゃあ決まりだ」

 漱は微笑み、右手を差し出す。だが、一拍置いても反応が返ってこないので、自分から手を伸ばして包帯の巻かれた手をぎゅっと握った。握った手のひらは、熱かった。大人びた顔をして、眠る前の子供みたいに熱い手だった。

「……蓮さまを呼んでこようか」

 苦笑気味に尋ねる。思ったとおり、彼は「結構」だと突っぱねた。ほらやっぱりかたくなだ、と思って、漱は歩きだした少年を追う。木々の合間から春の光が穏やかに道筋に射していた。幹にくくりつけておいた青毛の轡を取ると、雪瀬はふと何かに気付いた様子で、崖下の道のほうを振り返る。ここは葛ヶ原でもおそらくいちばんの高台だ。足元には、淡い陽光に包まれた緑の大地がどこまでも広がっている。長く伸びる道には小さなひとの列ができていた。

「……西はどっちかな」
「西っていうと、都のほう?」
「うん」

 轡を手に巻きつけつつ、雪瀬は遠くのほうを見ている。細められた眸は何かを探している風にも見えた。

「都に、のぼりたいの?」
「のぼるよ」

 答えは意表外に確信的な口調で返ってきた。
 目を瞬かせた漱を、うららかな緑の大地から視線を解いた雪瀬が見据える。

「のぼるよ。――あの男に奪われたモン、ぜんぶ取り返しに」

 遥か緑の大地に伸びた道には、男がいた。黒衣に身を包んだ丞相補が馬を歩かせていた。徐々に小さくなっていく男の姿を見送りきらずにぴっと風で乱れた衿を直すと、彼は轡を引いて、歩き出す。残された墓石には『橘颯音』の名が刻まれ、手向けのように桜の枝が置かれた。






 南風が吹いている。
 東の葛ヶ原とは異なる、湿っていてもっと暖かい海の風。暦の上では春真っ盛りであったが、南海地方ではすでに初夏に近い日和が続いていた。こちらにしか咲かない濃い色の桜は今はおおかた散って、柔らかそうな子どもの手のひらほどもある大きな若葉を茂らせている。風が吹くたび、それらはざわざわと揺れて音を立てた。
 潮の強い香がする。港の船着場。
 けーんけんぱ、けーんけんぱ、と歌う子供たちに混じってひときわ高い背丈の青年が遊んでいた。
 ――否、むしろ。まだ年端の行かない子供たちを押し分け、力一杯自分が先陣を切る勢いで遊んでいた。けんけんぱ、という掛け声にあわせて、とん、とん、とん、と木の軸が動く。青年の着物から見える足は片方こそは下駄を履いた普通のひとの足であったが、もう一方は無骨な木の棒だ。青年はその足を杖をつきながら少し不自由そうに、だけども一緒に遊び回る子供たちの小さな足には決して負けない身のこなしで動かしながら、地面に縄で書かれた丸の上をけーんけんぱ、と器用に飛ぶ。

「まぁさぁごー!!」

 遠くのほうから小さな子供が走ってきたのはそのときだった。
 ぴょんと青年の腰に飛びつこうとした子供を彼はいっそ華麗といえるほどの足裁きで横によけてかわす。おっとっと、と前につんのめりそうになった子供に手を貸しもしない。ただ、びしりと子供の額にどこからともなく取り出した筆先をつきつけ、「お前ね」と口を開いた。

「この真砂さまに飛びつこうなんざ百万年はやいんよ。胸にもう少し肉つけて出直してきやがれ餓鬼んちょ!」

 あっはっはと大人気なく大口を開けて笑う。餓鬼、と言われた童女は何やら不服そうに自分の胸あたりを見つめ、頬を膨らませた。

「うっさい! 私もあとちょっとしたらかあさまみたくすらっとした背で胸だってでっかくなるんだもん馬鹿真砂。後悔したって知らないから!」
「へーへーせいぜい大口叩いて夢見とけば。数年してから絶望するんだから」
「しない!」
「いーや、すんね。胸にもいろいろあるんよ、お前の胸はいわゆるでかくなんない胸だ。俺にはわかる」

 青年が意地悪くへっと鼻でせせら笑うと、気の強そうな顔をした童女は頬をみるみる赤らめて、青年のうなじのあたりでくくられた長い濃茶の髪を仕返しとばかりに引っ張った。うぎゃ、と潰れた蛙みたいな声が上がる。

「おまっひとの髪をひっぱんな痛い痛い…って、あー!? 抜けた! 抜けてんじゃん髪! おい妃(キサ)!」
 
 このくそ餓鬼、と袖まくりをすると、青年は童女の頬をむんずとつかみ、ぎゅううううと横に引っ張る。が、負けん気の強い童女はそれでも髪を離さない。大人対子供の格闘が始まりかけたところへ――船の到着を知らせる法螺笛が鳴った。見れば、沖のほうに大きな黒船が停泊し、そこから幾槽もの小船が男たちの手で下ろされている。そのうちのひとつが船着場のほうへといちばんに近づいてきた。小船に乗った大柄な男の顔を認めるなり、妃はあれほどつかんで離さなかった青年の髪を放り出してぱっと身を翻す。

「とおさま! かあさま! 海紗!」

 岸のぎりぎりのところまで駆け寄って、童女は大きく手を振った。残された青年のほうはというと、別に走りなどはしなかったが、やれやれといった風に杖を使いながら童女の背を追いかける。

「よう妃! ただいま、元気だったか!」

 巨漢の男――網代あせびは妻の淡に赤子を預けると、岸へ降り立つや胴に飛びついてきた童女を軽々と抱き上げた。それからその後ろに立つ青年に気付いて、紫紺の眸を和らげる。

「――お前もな」
「おかえんなさいませー船長。船旅はいかがでござんしたか。というか」

 青年はにこっと人懐っこく笑うと、木でできた義足でぴょんと前に踏み出し、男へ向けて手を差し出した。

「とおさまとおさま俺もお土産―! 都の栗屋本店の春限定の桜餅、塩のきいた桜葉ともち米のもっちり感、あんこのしっとりさが絶品の品! 買ってきた? 買って来てくれた? なぁなぁなぁなぁさーくーらーもーちー!」
「あー! やかましいかしましいうるせえ! 俺ぁ十八になるでっかい息子を持った覚えはねぇ!」
「ええええ、そんなすげないことを? 浜辺で息絶えそうになっていた俺を抱き締め息を吹いてくだすった仲じゃあないですか」
「ありゃあ淡がやるっちゅうから断固阻止しただけだ」
「うん、俺もこんなオジサンよりは淡がよかったなぁ」
「ひとの妻を呼び捨てにすんな」
「淡ちゃんがよかったなぁ」
「ちゃん付けにもすんな。――真砂。お望みどおり土産話だ。葛ヶ原で橘雪瀬が立ったぞ」

 あせびの言葉に、橘真砂はひとつ目を瞬かせた。
 へぇ、と顎を引く青年はあせびの予想を反して淡白そのものである。

「なんだお前、気にしてたっぽいから教えてやったのに」
「まさか。俺さまがそんな名もねぇ小庶民その一のことなんざ気にするわけないっしょ。まぁいいんじゃないの。あ、淡、淡。今日の夕飯、俺、蟹鍋がいいー」

 さらりと話を切ると、真砂は海紗と淡のほうへとすっ飛んでいく。その頬に不意に生暖かい海風が吹いた。かき乱される長い濃茶の髪をうっとおしげに押さえ、真砂は一時怜悧な視線を海の彼方に送ったが、それもすぐに解いて歩き出した。