二章、空葬の骸



 二十、


 橘颯音は刑死し、蕪木透一の遺骸は最後まで帰って来なかった。
 せめて骨だけでも、とことのほかこの孫を可愛がった蕪木家の老夫婦は足繁く漱のもとへ通って乞うたけれど、漱は骨ももうまいてしまいましたから、とすげなく首を振るだけで取り合おうとしない。また、直前に姿を消した橘真砂や暁の行方は未だ不明のまま。五條薫衣は詮議の末、葛ヶ原永久追放と南海幽閉に処せられ、その身は以降、南の豪傑網代あせびが預かることとなる。これが今回の最終的な顛末だった。




 薫衣は墓の前にいた。
 主人を失う五條の屋敷やそこで働く使用人たちの処理をするために、一度葛ヶ原の土を踏むことを許されたのだった。墓の前に立ち、睨むように墓石を見つめ続けて、もう一刻はとうに過ぎたろうか。馬をみているよう命じられた家人は心配そうな顔つきで、薫衣の、その華奢な両肩を見つめている。やがて俯いた少女のうなじに赤い残照が射すようになり、春の盛りとはいえど肌に冷たい風が吹き始めた。娘の細い肩に容赦なく風の吹き付けるのが見ていられなくて、家人はいよいよ帰りのことを促そうと口を開きかける。薫衣が懐から刀を抜いたのはそのときだった。
 五條紋の煌くそれは数日前、瓦町の柊と名乗る家人が持ってきたものである。柊は紗にくるんだ懐刀を薫衣に差し出し、橘颯音から預かってきたのだと語った。――そのときの主人の表情を家人は決して盗み見たりはしなかったのだけども。丁重に礼をして柊を返した夜、噛み殺すような細い嗚咽が固く閉じられた襖の内から夜明け方まで途切れ途切れに漏れていたのを家人は知っている。次の朝、主人が慣れない白粉で肌を厚く塗りこめて現れたことも。
 心を整理する時間が必要だったのだろう。そして実際忙しくもあったのだろう。薫衣はしばらくそのことについて触れようとはしなかったが、おおかたの処理が片付いた今日、ようやく愛馬を引き、颯音の墓に参ったのだった。

 懐刀の鞘を引き抜いた薫衣は、それを迷うことなく自分の首もとのほうへ持っていったので、家人はぞっとして声を上げた。

「薫衣さまっ!!」

 愛馬の毬栗が驚くのも構わず、主人を引き止めようと飛び出る。だが、薫衣の次の行動は家人の考えたものとは違っていた。少女は己の首筋からほんの少し刃をずらし、伸びっぱなしになっていた髪を切り落としたのだった。はらはらと淡茶の毛先が地面に落ちる。そうして切った髪の束を紐で縛ると、薫衣はそれを墓前に置いた。高らかに鍔鳴りをさせて刀を鞘に戻す。

「恨むなら恨め。私はお前と一緒には行かない」

 赤子ほどの小さな墓石を睨みつけるようにして薫衣は言った。

「私は、未来(さき)を行く。お前が見届けられなかった国の行く末と、あの子の、雪瀬のゆく道とを見届けてやる。だから、しばしのお別れだ」

 そう晴れやかに宣言して、不敵に笑う娘の横顔は、照る日を受けて壮絶に美しかった。長年娘を見慣れた家人がはっと息を呑むほどにしなやかになった女がそこにいた。そうして五條薫衣は風を切って墓石に背を向けると、「いがぐり!」と老馬の名を愛しげに呼んだ。






 その日、雪瀬は上質な絹製の羽織に黒の長袴という堅苦しい正装で、朝から夜半過ぎまで延々と正座をし続け、愛想笑いを引き攣らせながら、やってくる長老やその家族の挨拶を受けるという苦行に耐えていた。すべて、雪瀬の領主就任の祝いにやってきているのである。――表向きは。

「……しびれた」

 最後のひとりが叩頭して去る頃には夜もすっかり更け、ほーほーと夜啼鳥が鳴き始めていた。雪瀬はぐったりと脇息に寄りかかり、感覚のなくなってしまった足をさする。七輪のまろんだ火でかじかんだ指先を温めていると、襖の外から「雪瀬さま」と呼び声がした。

「申し訳ございません。お客さまですが、まだお一方いらっしゃったようで」
「げ」
「げ、とはなんぞ。客人に向かって」

 膝立ちをした家人の頭上からぬっと顔を出したのは目元を布で覆った異様な風体の少女だった。少女――顔半分が隠れているせいで定かではないが、雪瀬とそう変わらない、せいぜい十七、八がよいところであろう。そこだけいやに艶美な、紅を佩いた口元に笑みを浮かべると、少女は澱みのない足取りでこちらまでやってきて座した。

「お初お目にかかる。私は百川紫陽花。本日は百川諸家代表としてまかり越した」
「ああ」

 あのしらら視の、という言葉を雪瀬は胸の中で呟く。

「そう、そのしらら視じゃ」

 紫陽花はにやりと笑い、砕けた様子で膝を崩した。
 
「まずは家督継承おめでとう。あるいは修羅の道へようこそと言うべきか。ああ、そういえば蓮さまがおぬしのことを気にしておったぞ。右手の熱が引かぬようなら、自分のもとへ来いと」
「『蓮』?」
「私の婆じゃ」

 明かされて、得心がゆく。漱が連れてきた医者を名乗る老婆とこの娘、喋り方といい、ふてぶてしい、わりに憎めない雰囲気といい、そっくりだ。

「こちらこそ。蓮さまにはありがとうってゆっておいて。助けてもらった」
「あれはあれが天職の婆だから礼には及ばんよ。報酬だって漱からもらっておる。――しかし、どうじゃ、くだんの長老たちは。おぬしの力で束ねられそうか」

 にやにやと底意地の悪い笑みを浮かべた少女へ、雪瀬は淡やかに苦笑して返す。広大な葛ヶ原の領地のそれぞれを直接に治める個性豊かな五十の長老たちは、新しく立った領主に対する態度もまたまちまちであった。肩を叩いて励まし、真摯に手を握ってくれる者もいるにはいた。くるしかったろうつらかったろうと滂沱の涙を流す者も。中には金の鳥籠に入った金糸雀を持ってきてあからさまに媚びる者や、己の自慢の娘を連れてくる者、手のひらを返したかのように美辞麗句を連ねる者もいたけれども、その一方で反感をあらわにやってくる者もまた多い。皮肉なことに、その多くは先代の橘颯音を支持し、支えた長老、その子息たちなのだった。今上帝に寝返るとは何たることだと嘆かれ、お前はそうまでして領主につきたかったのかと罵られ、あるいは、ともに兄のあだ討ちをしようと熱っぽい目で訴えかけられる。そのすべてを、雪瀬は冷ややかに眸を眇めて見ていた。

「どうしたらいいか、今考えているところ。よろしければ、よい策を授けてくださるとありがたいんだけど」

 脇息から少し乗り出して尋ねてみる。
 紫陽花は肩をすくめた。

「ふん、私に聞くな。どうしようかと思案するくらいなら、そんなものは捨て置けばいい。捨て置けないぶんは、こやつに頭を砕いてもらえばよかろ」
「こやつ?」

 面倒そうに息を吐き出すと、紫陽花は衿元から一羽の折鶴を取り出す。白い紙で折られた、見慣れた形の折鶴だ。雪瀬は軽く目を瞠った。

「これは私からのささやかな餞別じゃ。どうじゃ、懐かしいであろう?」
「それ、あおぎ……?」
「ああ」

 尾のあたりが少しよれている折鶴は、紫陽花が手を振るや、両翼を大きく羽ばたかせる。現れたのは、黒い嘴と白に輝く羽毛を持つ白鷺だった。

「あお――」
「いだーーーーーー!?」

 だが再会の喜びもつかの間、突如、嘴の奥から断末魔がごとき叫び声が上がる。扇は翼を意味もなくばたつかせ、別に何も刺さっていないのに腹のあたりにかちかちと嘴を這わせて何かを抜き取るようなそぶりを繰り返す。はたから見ていれば、狂人……もとい狂鳥の沙汰だが、何もないのに痛がっているのもかわいそうであったので、雪瀬はもう一度、あおぎ、と静かな声音で白鷺を呼んでやった。黒目がちの眸が瞬き、こちらの姿を映す。

「おう雪瀬。って、なんだ。なんでお前がここにいる? いやいや、そんなことはどうだっていいんだ。今百川紫陽花がだな――」
「私がなんじゃ?」
「ひっ!?」

 舌を噛みそうな勢いで扇が飛び上がる。どうやら時間軸がこいつだけずれているらしい。紫陽花の姿に恐れをなして、こちらの懐に飛び込んできた扇を雪瀬は苦笑気味に受け止める。ふかふかした温かな羽毛。それは、雪瀬の心の柔らかいところをくすぐる。

「……おかえり、扇。ずぅっとご苦労さま」

 だからつい、溶けるような笑みをこぼして、言った。
 意味がわからなかったにちがいない。扇はかちりと嘴を鳴らして、不思議そうにこちらを見上げる。

「それから、もうひとつ」

 紫陽花は口元に薄く笑みを忍ばせ、背後を振り返った。

「今日は懐かしい顔に会えるぞ」

 それと、すぱんと勢いよく襖が開いたのは同時だった。