二章、空葬の骸



 二十一、


 現れた少女を見て、雪瀬は目を瞠る。

「柚……?」
「嫌ですね、兄さま。そんな化け物でも見るような顔をなさらないでください」

 息を切らした少女は泣き笑いのような表情をして、それから、羽根がふうわり舞うがごとき軽やかな足取りでこちらの首に腕を回した。

「すぐに駆けつけられなくてごめんなさい。でも、よかった……!」

 首筋を柚葉の柔らかな濃茶の髪がくすぐる。それは雪瀬が知っていたものよりいくぶん長くなっていたけれど、でも柚葉であることには変わりなかった。紫陽花のほうへと視線をやると、老獪な少女はしてやったりとばかりに口端を吊り上げてほくそ笑んでいる。ひらひらとこちらにだけわかるように手を振って、紫陽花は部屋を出て行った。

「……ずっと、おひとりにしてすいませんでした兄さま」
 
 首に回していた腕を解くと、柚葉はこちらの頬に手のひらをあてがう。

「ひどいことをたくさんされませんでしたか? ずいぶんお痩せになられました。右手の包帯はどうなさいました? ……兄さま?」
「……うん」

 矢継ぎ早になされる問いに、返す言葉はたくさんあったはずなのだけど。結局何ひとつとして声にはならなくて、雪瀬はぽすっと柚葉の肩に寄りかかる。こんな風に。肩の力がぜんぶ抜けたのはいったいどれくらいぶりなんだろう。そのとき、小さく柚葉が息を呑む気配がした。

「――真木」

 顔を上げ、柚葉はおもむろにそばに控えていた家人を呼びつける。

「明日の訪問客は何人でしょうか」
「ええと、確か十五人ほどだったかと……」
「では、それらをすべて次の日に回してください。ひとりひとりの時間を切り詰めれば、どうにかできるでしょう?」
「はい。もとい、あさっては空き日でお客さまはおりませんので」
「なら、ちょうどいい。お断りをする方々には私がお詫びの文を書きます」
「ちょ、何? 柚。俺まだ」
「うるさいです。あなたは黙って私についてくるのです」

 般若がごとき表情でこちらを黙らせると、柚葉は雪瀬同様ぽかんと事態を見守っていた扇を呼んで、何がしか耳打ちした。いったいどんな密談をしたのやら、扇は首を振って、柚葉が開いた障子戸から外へ出て行ってしまう。返す刀でこちらの腕をむんずとつかむと、柚葉は一直線に奥の――雪瀬の自室へと向かう。そして部屋に入るなり、いそいそと夜具を引っ張り出してきて畳の上に敷いた。

「どうぞ寝てください。ああ、皺になるといけないので長袴と羽織は脱いでくださいね。――もうとろいひとですね。勝手に引き剥がしますよ」

 抵抗する暇すら与えられず、言葉のとおり羽織と長袴とを引き剥がされ、半ば無理やり褥に寝かしつけられる。掛け布団を引き上げると、柚葉はそっとこちらの額に手を置き、「熱がありますよ、兄さま」と言った。

「え、ナニ?」
「お熱です。道理で目がとろんとしているわけです。さっき寄りかかられて気付きました。もうあなた、いったい何日我慢してたんです? まさか葛ヶ原へ戻ってくる前から身体を悪くしてたんじゃないでしょうね?」
「あー……」
「あー、じゃないです。ドコの子供ですかあなたは」

 一転して囀る小鳥のようなうるささになった柚葉から、雪瀬は視線をよそにやって逃げた。具合が悪いも何も、ほんのひと月前まで死に掛けていたのだから、ずいぶんマシになったというものだ。それに雪瀬はどうやら船とすごく相性が悪いのだ。――というようなことを往生際悪くぽつぽつと呟くと、柚葉は心底呆れた風に息をついた。まだほんのり子供らしさを残した小さな手のひらが雪瀬の前髪を梳く。

「本当にどうしようもないひとなんですから。扇に頼んで、瀬々木さまをお呼びしましたからね。あとで真木に言って、氷を持ってきてもらいましょう。生姜湯も作ってあげます」
「……うん」
「兄さま」
「うん?」
「お身体拭いてあげましょうか。いっぱい汗をかかれているでしょう」
「いや」
 
 息を吐き出すのと一緒に、いい、と言って、雪瀬は目を瞑った。短い沈黙があってから、髪を梳いていた手が額に置かれる。

「百川漱に聞きました。囚獄に入れられたのだって。きっとたくさん叩かれたのでしょうね。背中、さっき上着越しに触ったとき、すごく熱かったです。きっとひどい傷なんでしょうね。痕は残ってしまうでしょうか」
「平気だよ。だって俺、オトコノコだもん」
「そういう話はしてません」

 ぴしゃりと跳ね返される。目を閉じていても少女の生真面目な表情が浮かぶようで、雪瀬は苦笑した。

「聞かせて。死んだと思っていた柚葉さんはいったいどうやって生還を果たしたのでしょう」
「たいした話じゃありませんよ。要するに百川漱が私を助け、匿ったのです」
「百川漱が? あいつ、全っ然俺にそういうこと言わなかった」
「あの方も、いまひとつ腹のうちが読めませんからねぇ。油断なりませんよ。――そのあと私は記憶がなかったのですけども葛ヶ原を出て、目を覚ましたときは毬街の瀬々木さまのところにおりました。……桜さまを偶然見つけたのもそのときで」

 唐突に言葉が途切れる。しばらくためらうような間を置いてから、柚葉は叱られる前の子供みたいに深くうな垂れた。

「桜さまのこと、ごめんなさい兄さま」
「……なんで謝んの」
「あの方を都まで連れて行ったのは私ですから。軽率でした。――いいえ、どこかでこうなるとわかっていて、あの方の心を踏み躙ったのです。ひどい娘。私が余計な真似などしなければ、かようなことにはならなかったかもしれない」
 
 否定をするのも肯定をすることもひどく億劫で、雪瀬は目を伏せた。
 彼女が都にやってきたのは彼女の意思だ。柚葉のせいではない。だけど、そうさせたのは自分で、守れなかったのも自分だ。否、守れなかったどころか。雪瀬は。あの、小さな身体を、抑え付けて。

「兄さま?」

 柚葉の声に、雪瀬は我に返った。
 見れば、心配そうにこちらをうかがう濃茶の双眸がある。

「……柚のせいじゃないよ」

 雪瀬はだから、首を振った。

「誰のせいでもない」

 どこか突き放した物言いに柚葉は戸惑ったようだった。だけど、それ以上言葉を連ねるつもりも、腹のうちを明かすつもりも今の雪瀬にはなかった。重たい息を吐き出して、瞼の上に腕を乗せる。暗く冷たい気持ちが身体を侵食していき、それが全身を隈なく覆ってしまう前に思考に蓋をする。かんがえたくない。かんがえたく、ないのだ。かのじょのことはなにひとつ。頬に温かな水滴が落ちてきたのは刹那だった。雪瀬は目を瞬かせ、腕を少しのける。はらはらと涙をこぼしている少女。まるで聞き分けの悪い幼子みたいに口元をぎゅっと引き結んでいる。

「なんで、泣くの」

 柚葉から声は返らない。雪瀬は眉をひそめてしばらく少女を見つめていたが、やがて息を吐いて、柚葉のまるい頬に手をあてがった。包帯の巻かれた手でやりにくそうに涙を拭く。いったいどうしたらいいものか困ってしまって、本当に途方に暮れてしまって、雪瀬は結局別のことを口にした。

「柚。落ち着いたら高台のほうへ行こう? ほら、凪とかかあさんとか眠ってるところ。たくさん並んだ石のひとつに颯音兄の名前彫っておいたから。身体はないけど、いいよね。首はかえった、あそこが颯音兄の墓」
「兄さま」

 涙をいっぱいに湛えた少女の身体を引き寄せる。肩口に顔をうずめてしゃくりあげ始めた少女の頭を撫でて、背をさすった。出来の悪い親が子供にそうするように何度もさすった。衿のあたりを白くなった指先がぎゅっと握り締める。とたん糸が切れたようにわぁわぁと少女が泣き出した。そうすると、柚葉はやっぱりまだ小さな少女で、肩も背中も、雪瀬の腕でぜんぶ抱き締められた。雪瀬は柚葉の頭を引き寄せて目を瞑った。





 目を開くと、そこは真っ白い桜がそよめく夜の水辺で、雪瀬はひとりでそこに立っているのだった。微かに、どこかから泣き声が聞こえる。ああ、泣いているのだ、と不思議なくらいすんなり理解した。桜が、また泣いているのだ。
 雪瀬は懸命に少女の姿を探そうとする。さやさやと揺れる花影の中、少女を探そうとする。だって、桜がまた泣いているのだ。





 そよ、と微かな風が吹き抜けた気がして、雪瀬は瞬きをする。
 気付けば、あたりはほの青い闇に包まれており、泣き疲れたらしい柚葉が褥に身体を投げ出して眠っていた。雪瀬は茫洋とあたりを見回し、庭に面した障子戸が微かに開いていることに気付く。そこが風の通り道になってしまっているようだった。
 春の夜はまだ花冷えがして寒い。雪瀬はひとまず自分の夜具を引っ張ってきて柚葉の身体にかけると、腰を上げて、障子戸に指をかけた。そのとき、ひらりとどこからともなく舞い込んできた白い花びらが頬をかすめて小袖に落ちた。雪瀬の部屋に面した庭に桜はないが、近くに何本か連なって植えてある桜の樹の花びらを風が戯れに運んでくることはしばしばあった。褪せた濡れ縁の板敷きに幾枚も折り重なっている花びら。それはまるで雪のようで。
 ――ユキみたい。
 不意に雪瀬の脳裏に、板敷きにちょこんと座る少女と彼女に花枝を差し出す自分の姿が蘇った。枝についた白い花を見つけて、甘く細められた緋色の眸。不思議なもので、そのときの彼女の仕草や声が今はつぶさに思い出せた。花の名を知らないと言った彼女に、自分は言った。この花がいつか葛ヶ原を満開にしたら、そのときは名を。きみに名を教えると。

「……俺をいっぱい恨んで、桜」

 だって、傷つき震えながらなお差し伸べられた手を裏切った、踏み躙った、モノみたいに扱ってどろどろした性欲で汚して打ち捨てた。それなのに。それなのにあんな美しい花みたいに微笑われたら。自分はきっと頭をおかしくするだろう。頭もこころもおかしくするだろう。
 夜の風の気配がしたので、こぶしを開いてそこに乗った花びらをさらう風に任せた。緩やかに手のひらから滑り落ちた花びらは板敷きを舞い。やがて、音もなく暗がりに紛れた。