二章、空葬の骸



 二十二、


 白い花びらが舞っていた。
 いったいなんという名前の花なのだろう。風に吹かれるその姿がまるでユキのようで、天に向けて手を伸ばすのだけど、あと少しというところですり抜けていってしまう。ようやく捕まえたひとひらは、すべらかで、思っていたような冷たさはなかった。
 夜明けのまだ暗い空を舞う花びらにしばらく目を奪われていた桜は、床板の軋む音に気付いてゆるりと視線を戻した。そば近くに置かれた燭台の、甘い匂いのする蜜蝋が隙間風に吹かれて頼りなく揺らめく。現れたのは夜の闇をそっくり映し取ったがごとき黒衣に身を包んだ男だった。

「見慣れない格好をしているな」

 笑い声がさざめく。男が嘲るのも道理で、桜は今何枚もの白い絹の衣に埋まるようにしてそこに座っていた。どれも沁みひとつなく白い。織糸で花が描かれた打掛ははためにはまるで嫁入り装束のようである。それはあながち間違っておらず、桜もよくは覚えていないが、老帝のもとに空蝉が桜を献上したときもまた、貧相な身体にこれでもかというほど絹を重ねていたらしい。白は純潔を表す。処女を表す。夜伽の自分がそんな意味の衣をまとっているのはひどくおかしなことのように思えた。衣の他に身体を飾るものはなかったが、桜の、前より短くなった黒髪は今は結われて、銀の簪が一本挿されていた。

「……ろうていは?」
「相変わらず病がちなんだそうだ」

 まるで他人事のように冷ややかに言って、月詠は調度の片隅に置いてあった白磁の香炉を引き寄せた。慣れた手つきで炭を入れ、香壷から取り出した練り香を置く。ふうわりと独特の芳香がくゆり立つ。脇息に寄りかかって目を細めていた月詠は衿元を少し緩め、重ねられた衣の中に埋まるようにして小さくなっている桜を見やった。

「お前は俺に下賜された」
「……『カシ』?」
「橘一族の謀反を丸くおさめた褒美に、何でもやるとのたまうから、帝のことさら気に入りの白磁の香炉と一緒にお前を所望させていただいたというわけだ。老帝は近頃別の妾のほうに夢中でお前のことはすっかり忘れておったよ。一時期はサクラ、サクラと名を呼んで寝付くこともなかったというのに、お前も所詮はその程度の玩具だったというわけか」

 香のくゆる白磁の香炉を指差し、月詠は言う。気だるげな双眸が不意に桜を捉えた。背中に冷たい悪寒が走る。とたんに情けなく震え出しそうになる身体をこぶしを握って押さえつけ、桜は男を見つめ返した。

「わたしを、どうするの」
「さぁ、どうして欲しい」

 真正面から視線がかち合う。腕を差し伸ばされると、ほんの数歩ぶんの隔たりはたやすく潰える。艶かしい指先がきつく噛み締められた唇に触れ、すぅっと紅を刷くかのように横に滑った。小さく喉を震わせると、それを機敏に察した様子で男が喉骨をやわく押す。

「今さら何を怯えることがある。こうなることを知って、ここに戻ってきたのではなかったのか」

 桜はうわ言のようにふるりと首を振った。

「ちがう……」
「違う?」
「わたしは、あなたや老帝の夜伽をするために戻ってきたわけじゃない」

 きゅっとこぶしを握る。そうすると、ぼろぼろに傷ついた手のひらの温かな感触が蘇ってきた。たくさん傷ついて、血に塗れて、ぼろぼろになった手。あの手は誰よりも醜くて、でも、誰よりもいとおしかった。だから、桜は。あの手を。あのひとを。

「たたかうため」

 桜は言った。

「雪瀬がひとりぼっちでたたかっていたから、わたしも、同じように、ここであなたとたたかう。ギセイ、じゃない。ニエ、じゃない。わたしはわたしがそう決めたから、ここにいるの。雪瀬の手がもうあんな風に、傷だらけになってしまわないように。わたしは、あなたとたたかいにきた」

 震える声ですべてを吐き出す。男は淡紫と黒の双眸を細めて桜を見ていた。その指がおもむろに桜の目元に触れ、すぅっと横になぞる。まるで目の色を確かめでもするような仕草だった。はたはたと瞬いた睫毛が男の指先に触れる。
 
「皮肉なものだな」

 低く喉を鳴らして月詠は呟いた。

「やっと手に入ったというのに、もう彼女に見えないというのは」

 男の美しい横顔に虚無的な翳りが滲んだのはほんの一瞬だった。その一瞬が、どうしてか桜には遠い空の果てに想いを馳せる大好きな少年と重なった。息を呑むほんのわずかの隙に、男の手は何事もなかったかのように下ろされる。

「お前の部屋は屋敷のこの場所以外のどれかだ。好きなものを自分で選んで使うがよい。格子や錠はつけないから、安心しろ。飯炊きにひとり老婆を雇っているが、耳が遠いゆえ、話しかけてもろくな答えは返らない。欲しいものがあれば、玄関に銭の入った瓶が置いてあるからそこから勝手に好きなぶんだけ取って行け。――何か他に聞きたいことは?」
「……え、と」

 銭の入った瓶を出入り口なぞに置いておいていいものなのかと桜は不思議に思ったが、とりあえず首を振った。男から投げられた言葉があまりにも『普通』であったので、拍子抜けしそうになったのだった。

「戦う、と言ったな」

 おもむろに月詠が脇息から身を起こす。
 乾いた衣擦れの音がすると、知らず肩に緊張が走った。

「それならひとつ、賭けをしようではないか。この退屈な日々に興を添えてやる。桜。俺の名を、呼べ」
「……つ、くよみ?」
「違う。それは、朝廷に上がったときに名乗ったものに過ぎない」
「れい?」
「それも違う。正確に言えば、それは俺の母親がつけた名前であって、俺の本当の名ではない」

 肉親がつけた名が本当でないのなら、いったい誰のつけた名が本当だというのだろう。
 ほとりと小首を傾げた桜の、肩から滑り落ちた髪房を捕えて、男は甘く微笑む。

「もしも俺のほんとうの名を、呼ぶことができたら。褒美に、お前の望みを何でも叶えてやろう。カネでも、自由でも、国でも、橘雪瀬でも」

 よい余興だろう? と真意の読み取れない顔をして、月詠は囁く。

「わたしの、のぞみ」
「ああ。お前が心から望むものを」

 ふふっと笑い、月詠は髪を絡めた手のひらで桜のまるい頬を包む。

「お前はまだ生まれたての、欲を知らない赤子。やがてその目が開け、その心が熟すとき、何を乞い、何を願うようになるのだろうな。桜」

 そうして男は、不意に慈愛のこもった眼差しをする。あたかも、娘を見る父のような。――わからない。これが果たして本当に単なる余興なのか、それとももっと別の大きな意味があるのか。桜に、月詠の心は読めない。呆けた顔をする桜から手を離し、月詠はすべての興味を失ったように香炉を引き寄せた。もう話は終わったものらしい。脇息に肘を乗せ、書見台に草紙を置く月詠をしばしうかがってから、桜は衣の端をつかんでそろりと立ち上がる。書見台に向けられた伏せがちの長い銀の睫毛が動く気配はなかった。それを確認して、御簾から滑り出、ふと桜は足を止めた。

「……オヤスミ、ナサイ」

 か細く呟いた声に、応える声があったかは知らない。桜はすぐに床板を軋ませて、歩き去ってしまったから。ずいぶん歩いて、もう男も追いついてはこないだろう廂の端までたどりつくと、急激な安堵と肩透かしとで脱力しそうになった。絹の衣に埋まるようにして座り込んで、桜は深い息をつく。あたりは明るい。いつしか空は白み、朝の眩い光が群青の瓦屋根に射し始めていた。顔を上げ、桜はまだ冷たい春の朝の空気を胸の奥まで吸い込む。そのとき見た蒼空があまりにも美しかったので。東の果てにいるひとが見ていればいいと思った。見ていなくても、朝の柔らかな光が眠るそのひとの背に降り注いでいればいいと思った。
 ――雪瀬。
 わたしね。わたしもう――……

「泣いたりしないよ」

 心を決めて、目を開く。
 視界に、まっしろい光が飛び込んできた。




 ――かくして三年の月日が過ぎる。


【二章・了】