三章、青嵐
一、
初秋の月曲湾は、荒れていた。
嵐が近いのだという。ざぁぶざぁぶと波立つ沖に、降りしきる雨から逃れるようにして一隻の商船が現れた。海水に幾度も打たれて色褪せた船の側面には、踊る龍の紋様。南海の商船だ。しばらく沖に停泊していた船は、風がふと凪いだのを見計らって、小船を出し、埠頭のほうへ向かった。商人らしき男たちが荷を下ろすのに混じって少なくない数の旅人たちが陸の土を踏む。藁の合羽をまとった男たちからはぷんと雨と泥のにおいがした。その中にひとり、目を引く長身がある。背筋をぴんと張った旅人は短い間船を共にした仲間から己の荷物を受け取ると、立ち並ぶ船宿の軒先まで歩いていって、水分を含んだ合羽を脱いだ。合羽で膨らんでいた体躯の下には、衣越しにもそれとわかるしなやかな若者の身体がある。たいそう、美しい男だった。幼い頃はどちらかといえば、可憐さのほうが目を惹くかんばせであったかもしれない。淡い色をした髪に、少女のような大きなまあるい眸。だが、その眸の冬の海にも似た透明な灰色と、首筋に入った生々しい傷痕が男をそういったたおやかさから遠ざけていた。
旅の間、ユキ、と男は名乗っていた。名字は教えない。そういう者は流れ者には多かったから、不審がられもしなかった。ユキは合羽を軽く一度振って水気を払うと、隣で同様に合羽を脱ぎ去っている男に気付いて、ふっと灰の眸を細めた。
「やっとつきましたね、アカツキさん」
東の風貌をした男がふたり都に入ったのは、平栄二年、まだ平和な秋のこと。
南海遠征後の体調不良を理由に廃嫡された朱鷺皇子に代わり、第四皇子四季が立太子し、一度は宮中から離れた玉津卿が孫の慶事を祝って、表舞台に姿を現したのと同じ時分であった。
*
蝶姫。蒼海に囲まれた鄙びた島国に、そう呼ばれる姫皇女がいる。高齢ゆえに老帝と揶揄される今上帝の末の姫君だ。御年十六。年が明ければ、花も綻ぶ十七の乙女になる。蝶姫は今より半年ほど前、ちょうど平栄三年の晩春頃から、御座所を後宮の一角にある姫宮から大内裏の外にある宮内卿琵琶師の屋敷に移していた。というのも、平栄三年の春の終わり、都では大きな『地揺れ』があって、古い建物が軒並み倒壊してしまっていた。蝶姫の住まう姫宮―通称椿御殿―とて災厄は免れきれず。幸い、椿御殿の梁が真っ二つに折れて倒れたのは、蝶姫が不在の際であったのだけど、周辺の側妾たちの御殿も含めていくつかが崩れてしまったので、それの修繕をしている間、蝶姫は母方の祖父の従兄弟にあたる琵琶師のもとへと移ったのだった。
蝶姫というのは、今上帝と皇后杜姫の血を引く、この国一高貴といわれる姫君である。皇族の尊き血脈にのみにあらわれる、雪華と見まごう白銀の髪に、異国の宝石を思わせる翠の眸を備えた姫君はたいそうな美姫であり、異国の書物を読みこなす才媛としても名高い。まさに才色兼備。それほどの姫がもうまもなく十七になるというに、未だ誰のもとにも嫁がず、膨大な草紙を慰みに日々を重ねているのははなはだ疑問であったが――、姫君の高貴にすぎる身分を思えば、それも致し方ないことなのかもしれない。まさしく誰の手にも届かぬ高嶺の花、であるのだった。
さて、その高嶺の花である姫君といえば、本日は朝より何やら悩ましげなそぶりで額に手を当てたりなどしながら書見台に置かれた草紙をめくっている。ああ、いったいその草紙の中では自分めにはわからぬどのような高尚な葛藤が可愛い姫君に突きつけられているのだろう、ああ代わってさしあげたい、と十六年乳飲み子の頃から蝶姫のおつきを勤め上げてきた縞(しま)は思うのだけども、そんな縞の心とはうらはらに蝶姫はますます苦しげに首を振るばかりだ。ああ、とついに花色の唇から物憂げな吐息がこぼれ落ちる。そして姫君はおもむろに、白くたおやかなる手のひらで――形のよい鼻を押さえた。ぼたぼたぼたと姫君の五指の合間を縫って赤黒い血が伝い落ちる。
「む、いかん」
蝶姫は畳に落ちた血に気付いて呟いた。だが、縞にしてみれば、たまったものではない。喀血か!? わたくしの大切な姫君が! 悩みぬいた挙句喀血してたもうたのか!? 「ひ、ひ、ひ、姫さまぁ!?」と縞は情けない声を出して、おろおろと大事な姫君の背をさする。ああ、かわいそうに! 姫君の細い背は微かに震えているようだった。
「た、タマ……」
この姫君は縞を縞ではなくタマと呼ぶ。何度直しても縞ではなくタマと呼ぶ。
「縞です、姫さま」
今生の別れであってもそこだけは指摘しておかなければならなかった。即座に訂正すると、「どうなさいました姫さま」と縞は蝶姫の肩をそっとさする。ああ、と蝶姫は貧血を起こした風に縞の手にしだれかかった。
「ちょうのおうじさまが……」
「お、皇子様が?」
「蝶の唇を奪いおったのじゃ……」
と呻き、蝶姫は大量の吐血もとい鼻血を噴いた。
この国一の高貴なる姫君、類稀なる才媛。またの名を、この国一の変わり者。夢見る蝶さながらの空想家、妄想家。縞の愛してやまない蝶姫とは、そんなおそらく憐れな姫皇女である。
「いやぁ、まったくあわや出血死するかと思うたわ。兄上の筆致があまりに彩り豊かで、美しゅうてな、危うく蝶の唇に口付ける皇子さまの凛々しいお姿や吐息の感触まで見えてしもうた。ああ、美しかったのう……」
ほぅと息を漏らし、蝶姫は何やらあさっての方向を見つめてにやにやと口元を綻ばせる。かんばせは愛らしいというのに、不気味としか思えない笑みであった。何しろ蝶姫の慕う『皇子さま』というのは、蝶姫の兄皇子――こちらも変わり種の呼び声が高い、元皇太子朱鷺殿下が戯れに綴った草紙の住人で、この部屋のどこを見回しても、かような凛々しい皇子のお姿や吐息などは存在しないのだから、仕方がなかった。縞としてはそういうモウソウやモウゲンのたぐいはできる限りよして欲しいばかりであったが、蝶姫は鼻に懐紙をあてがいながら「皇子さま……」とぼんやり呟いている。『あちら側』にいってしまった蝶姫はなかなか縞の世界に戻ってきてくれない。
「姫さま」
試しに失礼を承知で眼前にて手を振ってみる。
反応なし。
「ひ、め、さ、ま」
耳元にてお声をかけてみる。
反応なし。
「蝶姫、さ」
「蝶――――――!!!」
次瞬であった。控えめな縞の声を打ち破るようにして、実際半ば几帳を蹴り倒すようにして現れたのは、蝶姫とかんばせだけは瓜二つの、真白き皇子であった。空想に浸っていた姫君もこの声には我に返る。何事じゃ、と振り返った蝶姫の背に飛びついて、「蝶蝶蝶蝶ーーーーー!!」と皇子は子犬が甘えるように額をすりすりとする。今上帝が第十九皇子、皇祇(すめらぎ)。蝶姫とは双子の、弟にあたる。
「ようやくあえた! 蝶にあえないと、おれ寂しくて死んじゃう。死んじゃうよう蝶。ちょーおぅぅぅぅぅぅぅ」
久方ぶりの再会が叶ったためか、皇子の脆すぎる涙腺はあっさり限界突破したらしい。皇祇皇子は新緑を思わせる翠の眸をうるっと潤ませると、天を見上げてびええええええええええんと泣き始めた。赤子でももう少し遠慮くらいはするであろうという大きさの泣き声であった。
「おお、皇祇、泣くでない。泣くでないというてるに。おぬし男子であろう? 男子がびぃびぃ泣いてどうするのじゃ」
あの蝶姫も弟皇子には甘いひとりの姉であるようだ。困り果てた風に眉根を寄せると、懐紙で皇子の涙で濡れた頬を拭い、鼻をかんでやる。ひとしきり泣いて鼻をかむと、少しは落ち着いてきたのか、皇祇は「蝶のばかぁ」と蝶姫に抱きついてきた。
「おれは外に出られないのに、蝶だけ、琵琶じぃんとこ行っちゃってずるい。おれも琵琶じぃんとこ来たかったのにー!」
琵琶じぃ、というのは琵琶師の愛称である。琵琶じぃの馬鹿、蝶の馬鹿、と今度はふてくされ始めた皇子を持て余し、蝶姫は「……稲城(いなぎ)」と皇子の子守役である老臣を呼んだ。
「いったいどうしたというのじゃ。皇祇は本来、宮中にあるはずの身。何故ここにおる?」
蝶姫のもっともな問いに、いかにも生真面目そうなこの老臣は弱りきった様子で首を振った。
「いえ、蝶姫さま、それが……。春に蝶姫さまがこちらに移って以来、皇祇さまの駄々がいっそうにひどくなり、近頃などは気分も塞がれがちで……」
「それで、連れてきたというのか? おぬしほどの男が」
「ちょうど杜姫さまの月命日が明日でございましたので。毎月の万葉山への供養参りがてら、琵琶師さまの屋敷をお訪ねするというはこびに」
「まったく。どちらが本題になってしまったのやら……」
頭が痛んできて、蝶姫はこめかみを指で揉んだ。
とはいえ、皇祇皇子が毎月欠かさず杜姫の供養のために万葉山に登るのは嘘ではなかった。決して山歩きには向いていない小さな足で、これだけは一度も弱音を吐かず登っている。仕方のない弟じゃ、と蝶姫は苦笑し、未だ不機嫌そうに頬を膨らませている弟皇子を手招きした。
「ほら皇祇。琵琶じぃからもらった異国の菓子がある。一緒に食べよう。それでここ半年の話を姉にしておくれ」
縞のほうに菓子を持ってくるよう目配せしながら言うと、現金な弟皇子はぱっと目を輝かせて、「蝶好き!」とのたまうのだった。
異国かぶれと笑われる琵琶師は月曲港を通じて入ってきた渡来品を、暇を見つけては見に行って、両手に抱えきれないくらいの「戦利品」を屋敷へと持ち帰ってくる。であるので、琵琶師の屋敷には、西洋大陸から入ってきた取っ手を回すと楽を奏でる「おるごーる」やら丸い地球儀やら「れぇす」と呼ばれる繊細な編みこみの施された布やらたくさんの不思議なものが所狭しと置いてあった。菓子もそのひとつだ。金平糖と呼ばれる、色のついた星の形の飴玉が蝶はたいそう気に入って、琵琶師にねだり、瓶詰めでもらっていた。
「うむ? 皇祇。おぬし腹が減っておらなかったか?」
きっと皇祇も気に入るだろうと思って、飴を並べたのだが。皇祇は最初こそ嬉しそうに一粒二粒と飴を食べていたものの、しばらくすると、その手をぴたりと止めてしまった。今も飴を摘んだままぼんやりと窓の外のほうを見つめている。いったいどうしてしまったのだ、と皇祇の視線を追ってみるも、そこにあるのは紅葉の老木だけで、はらはらと散る落葉以外は何があるというわけでもない。稲城が先ほど呟いていた「気分も塞がれがちで」というのはあながち嘘でなかったのだろうか。心配になって、皇祇、と蝶が今一度弟皇子に呼びかけると、皇祇ははっとした風に翠の眸を瞬かせ、「ああ」とのろのろ小首を傾けた。
「なんだったっけ」
「いや、金平糖だが。あまりおいしゅうなかったか?」
「ううん? そんなことない、おいしい」
そう言って皇祇は金平糖を口に入れたが、またしばらくすると呆けた顔で庭のほうを見つめている。秋の冷気がそうさせるのだろうか、翠の眸はどこか透明な薄い膜のようなものに覆われて見えて、不吉な予感を蝶に抱かせた。
「蝶」
ふと皇祇が呟く。弟皇子は稲城や縞がその場にいないことを確認すると、膝をつめて、まるで内緒話か何かをするように蝶の耳に手をあてた。
「蝶は、おばけを見たことがある?」
「おばけ、とな?」
いくら空想が趣味とはいえ、そちらは範疇外である。蝶が眉をひそめると、うん、と皇祇はこっくり首を振り、膝元に目を落とした。
「蝶、あのねぇ、おれ、夏の終わりにおばけを見た」
「そ、そうなのか?」
「うん。おれがね、部屋で絵を描いていたら、きれいな揚羽が迷い込んだの。黒い翅が艶々していて、小さなお星さまみたいで、捕まえて蝶に見せてあげたいなぁと思って、おれ、蝶を追って外に出たんだ。夕暮れで、ひとがいなくて、はじめての場所を歩いていたら、兄上のおばけに会ったの。兄上のかたちなのに、おばけなの。兄上、って言うのに、喋らないし、目をあけないし。かなしいよね」
「う、うむ……?」
皇祇の言葉に脈絡がないのは常のことであったが、今のはいつものそれともどこか趣が異なっていた。果たしてどう答えてよいものか考えあぐねてしまって、蝶が首を捻ると、皇祇はふっと淡く微笑んだ。
「おれたちは、業が深いから」
それは蝶の知っている弟皇子に似つかわしくない大人びた笑みであった。
ぎくりとした蝶に目を合わせ、皇祇は花色の唇を開く。
「いつか、罰があたるんだよ蝶」
「――皇祇」
いったいこの弟はなんだ。この弟はどこの誰だ。それこそ半年見ないうちにおばけか何かが乗り移ったようであった。表情を失った蝶にぎゅうっと子猫がそうするように甘えて、「大好き蝶」と皇祇は囁いた。
「あえてよかった。蝶はおばけになんかならないでね」
そんな、まるで今生の別れのような言葉を言うな。蝶は笑ったが、皇祇は首を少し傾げただけで、まるで儚い雲間の月のごとく蝶のもとを去っていった。
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