三章、青嵐



 二、


 ソレに最初に気付いたのは、川岸で鞠つきをしていた童女だった。
 ついていた鞠がはずみに川のほうへ転げてぽちゃんと水に落ちてしまったのだ。幸い、紅葉がたくさん落ちた衣川の流れは緩やかで、手を伸ばせば、鞠は童女のもとへ戻ってくる。さほど労せずして、「かあさま」の買ってくれた大切な鞠をすくいあげると、童女はほっと息をつく。そうして、ふと眼前にひらひらとたなびいて流れる白い布のようなものに気付いたのだった。童女は大きな眸でしばらくソレを見つめていたが、やがて「あにうえ」と近くでひっくり返した船にこびりついた藻を取っていた長兄の袖を引いた。なんだよ、と引かれた袖を煩わしそうに振って、少年は固い藻をひっぺがすかたわら声を返す。

「ひとが流れてる」

 童女は赤色をした鞠を胸に引き寄せながら言う。
 
「ひとぉ?」
「うん。わかい男のひと」

 童女の小さな手が衣川を指差した。
 紅葉がどっさり落ちて赤く染まった水に浮いた白い塊はいやがおうにも目を引く。たいそう品のよさそうな狩衣が最初に目に入ったので、なんだただの衣じゃないかと少年は笑いかけ、次の瞬間口元を引き攣らせた。まるで助けを求めでもするように空に向けて伸ばされた、人間の手のひら。紙のように白いその色はすでに血の通った人間のものではなかった。さむくないのかなぁと童女が不思議そうに小首を傾げる。
 あとになって判明した。胸から腹にかけてを斜めに斬られて死んだ男の名は市松。今上帝が第十九皇子皇祇の護衛を務めていた男である。彼とともに万葉山に墓参りに出かけた皇子皇祇は姿を消し。三日後、衣川の上流から皇子皇祇をあらわす月石の嵌めこまれた懐刀が鞘だけの形で見つかった。





「それでは!」

 橘真砂は杖を使ってくるんと器用に義足を回すと、背後で呆れた顔で突っ立っている壮年の男を振り返った。その背には旅行李がふたつ、紐でくくり付けられており、中には火打道具や替えの草鞋、糸針やら関所の通行手形などが入っている。青年自身も、片方の足には脚絆を履いて、すっかり旅人風の装いとなっていた。

「本当に行くのか」

 娘の海紗を抱えた網代あせびは信じられないといった顔つきで本日十度目にはなろう言葉を吐く。今しがた船着場にたどりつくまでの道のりでしたやり取りが頭をよぎった。あせびは何度も「春になるを待つか、せめてひと月は待て」と言い、そのたびに真砂は「思い立ったが吉日という言葉をご存知ですか船長」と鼻で笑うのだった。
 今日は、正月である。年に一度の、新年を祝うめでたい日である。この国では新年にみな一斉にひとつ年を重ねるので、二重にめでたい。もとは都以北の本島が持つ風習であったが、今では南海とて同じで、新年には家族や一族郎党集まって餅をつき、餅を焼き、みなでほおばるのだった。その餅をしっかり食いきったあとであった。今年二十一になった青年は不意にすっくと立ち上がって「それじゃあ皆さまさようなら」と言ってのけたのだった。食後の熱い茶を啜っていた網代家一同はみな一様に目をぱちくりさせた。
 
「なぁほんとに葛ヶ原にけぇるってのか」
「まーね」

 船着場に停泊する龍の紋様の商船を眺めながら、真砂はうなずく。
 眠ってしまった海紗の頬を胸にくっつけるようにして、あせびはその隣にどっかと座った。

「あのなぁ真砂。わかってんのか、そこの船は都行きだぞ。ひと月待ちゃあ葛ヶ原行きの直行が出るってのにわざわざ都行きの船に乗んのか?」
「だから、乗るってさっきから何度も言ってるじゃないですかオジサン。四十入って耳悪くなったんじゃねぇの? ――だっ!?」

 瞬間、あせびの鉄槌が下り、真砂は奇声を上げた。
 オーボー、と涙目で頭をさする。

「これだからオッサンは」
「拳固二度目行きてぇのか?」
「勘弁、暴力反対」
「第一、俺はまだ三十八だっての」
「知ってる? 『まだ』ってオジサンしか使わな」

 ごんっ。

 二度目の鉄槌がくだって、ついに真砂も押し黙った。

「お前もいい加減その減らず口治せ。いつか恨み買って殺されっぞ」
「ふははは、治らんねぇ。ムリムリ。いいんよ、俺いつか綺麗なおねえさんの上で腹上死するのが夢だから。馬鹿な夫あたりに殴り殺されてさぁ、『あな悩まし』とかいいながらばたんきゅう。理想の死に方でございますよ。――で、なんだっけ、船の話?」

 あせびがこぶしに息を吹きかける前に、青年はするりと話の矛先を変えた。

「葛ヶ原直通? だめだめ。俺都らへんに寄りたいと思ってたからちょうどいいんよ」
「都に? なんでだ?」
「ひと探しを二、三したくてね。葛ヶ原に着くまであちこち見ていくつもり。あとさぁ、各地の名産をちと」

 青年はふと子供のような無邪気な笑みを浮かべ、懐から一枚の紙を取り出した。探しびとの人相が書いてあるのかと思いきや、そこには『栗羊羹』『ひよこ形饅頭』と各地のお菓子が汚い字で書きつけられている。ご丁寧に上には「俺の食べたいお菓子その三」と書かれていた。よもやその一とその二もあるのだろうか。

「しかし――」

 この青年と付き合ううちに「無視」という技術にさらなる磨きをかけたあせびはさっくり今見たものを流して、別の話を振った。あせびにしてみれば、こちらが本題でもある。

「ひと探しはいい。だが、なぁんだって今なんだ。春になってからでもいいだろ? 冬に雪ん中旅するだなんてお前馬鹿のすることだぞ。しかもその足で」
「だって呼び声が聞こえたんだもの」
「……は?」

 男の言葉を聞き取り損ねて、あせびは顔をしかめる。男は淡くひとらしい笑みをその横顔に浮かべたが、それも次瞬にはするりと消して「わかってませんねぇ店長は」といかにも小馬鹿にした風に肩をすくめた。

「だって、この俺ですよ? この、まともに直視できないとまで言われた輝ける美男子真砂サマにやってできないことなどあろうか!? いやない!」
「はっ、馬鹿か。のたれ死んのが関の山だぞ」
「おやおやぁ? 心配してくれんの船長?」
「するか、こんちくしょう。ただ三年前くたばりかけてたお前を助けたのはこの網代あせびさまだ。こんなところで犬死されちゃ割りにあわねぇ。三年ぶんの衣食住その他お前にかかった金はきっちり耳を揃えて返してもらわんと」

 第一、とあせびは、ぶらぶらと地面に落書きを始めた青年の横顔を睨む。

「三年動かなかったお前が今さら。何を企んでる?」
「企むとは人聞きの悪い」

 船が一艘、二艘。帆をつけて完成させると、真砂は木の棒を捨てて顔を上げた。濃茶の――光の加減で時折淡くさざめいて見える眸を海の向こうへと投げやる。

「この三年、楽しかったよ。これはホント。いろんな島を回れたし、いろんなもん食えたし、知らない言葉だって覚えられたしね。俺ねぇ、船長。おっきくなったら一艘船を買って世界を旅すんのが夢だったの。俺、海はスキ。陸とちがって果てがないから。この三年は毎日海を見上げて、潮くさいにおいを嗅いで、なまぬるい風に当たって、楽しかったよ。次生まれるときは、東でなく、南海の女の胎から生まれ落ちるよううまく取り計らってくださいね、『南海の王』」

 聞きようによってはずいぶんと湿っぽい言葉をなんでもないことのように言う。真砂は地面に描かれていた船を足で消した。

「それはそうと、アナタの娘の妃ちゃん。十年経ったら俺の側女にしてやんよって約束覚えててくれるかなぁ」
「なっ!?」

 愛娘の名前を出されて、とたんあせびの顔色が変わった。

「ちょっと待て。なんだ、その不遜極まりない約束は」
「あー、知らないの? なら、こっちの話こっちの話。娘は父親に秘密を作って大きくなるもんなんですぅ。ごめんね、妃ちゃんってばあせびおじさんより若くて美しい俺のが好みみたい。次会うときはお義父さんって呼ばせてくださいね、オジサン」

 にこ、と屈託なく微笑むと、真砂はぐずり始めた海紗の額を「うるせぇな」と爪で弾いた。横暴である。今にも泣き出しそうな顔でひっくと嗚咽をこぼした海紗をあやしつつ、あせびは真砂の足に蹴りを入れる。それを身軽にかわして、青年は乗船を呼びかけ始めた船を仰いだ。

「んじゃあ、まぁ、そういうわけで船長。今日までお世話になりましたっ。お前はのちに英雄橘真砂を救った男として歴史に名を刻むであろう!」

 びしりと杖をあせびの額に突きつけると、青年ははーっはっはっはと騒々しい笑い声を上げながら船のほうへと向かっていく。ひょろ長い上、義足に杖という青年の出で立ちはよく目立つ。いったい何事だ、といぶかしむ周りの視線は露とも介さず、橘真砂は意気揚々と船に登っていった。

「なーんか気まぐれな嵐みてぇな奴だったな……」

 法螺笛が鳴る。まもなく出発した商船の帆影が水平線の彼方へ小さくなっていくのを見送り、あせびは苦笑した。それから、うとうとと眠り始めてしまった海紗を背負い、愛妻と子供たちが待っているであろう家に向かった。