三章、青嵐
三、
十日後の夕暮れ、船は都・紫苑の港に着いた。
真砂は下船の手続きを済ませると、さっそく本日の宿を探す。宿というのは一番格上が黒い柱の「玄楼」、遊女つきの宿が「紅楼」、中級の船宿が「青楼」となっていて、こちら中級の値段は厩つきか、湯殿つきかなどでさらに上中下にわかれる。真砂はというと、銭が少し……否かなり心もとなかったので、中級ですらない、格下の飯盛り女つきの掘っ立て小屋のような宿の戸を叩いた。その宿に決めたのは、呼び込みをしていた娘がなかなかの器量よしだったからで、その夜は娘が出してくれた粗末な麦飯と味噌汁と一緒に、娘のほうもいただいて眠りについた。寒いと女の柔肌が恋しくなる。真砂は冬は好きだが、寒いのとひとり寝はキライ。だって若い雄だもの。
明くる朝、娘が起き出さぬうちに身支度を整えて、宿屋の主人に銭を渡し、真砂は宿を出た。お急ぎですか、と雪用の藁靴を出してくれながら尋ねた主人に、「探し人が二、三あってね」とあせびに言ったのと同じことを返す。
「ほう、探し人」
「うん。俺の愛するヒト。大切なんよ」
ふふっと蕩けるような笑顔で言った真砂に、主人は目を瞬かせて「はぁ」と言った。嘘だと思ったのだろう。少なくとも、飯盛り娘をおいしくいただいた翌朝に言う台詞ではない。それでも特に聞きとがめることなく、あなたの旅路に幸がありますように、とお決まりの文句をつけて雪靴を渡してくれた店主に、真砂はアリガトウとこたえて、粉雪のちらついている外に出た。
真砂は、いつもそう。女はおいしくいただくだけいただいたら、後朝の余韻も味わずにサヨウナラをする。真砂が最初に寝た女はさる長老の令嬢で、橘宗家嫡男――つまり橘颯音の許婚候補だった。颯音にあいまみえる前に真砂が草陰に誘って寝取ってしまったので、責任を取って娶れだのなんだのと鬼の形相で親子に迫られひどい目にあったのだ。それは心優しき颯音兄さまが丸くおさめてくだすったため、事なきを得たのだけど、以来真砂は女は絶対「家」だの「格」だのいうしゃちほこばった看板のついていないのを選ぶし、面倒なことになる前に雲隠れをする。あせびは、お前はいつか女に刺されて死ぬ、という。それもそれで華のある人生じゃんか、と真砂は思っている。こういうところが結局、真砂はどうしようもない。
「さぁぁぁぶっ」
不意に雪混じりの木枯らしに吹き付けられ、小さく身をこごめる。
あたりはまだ薄暗く、雨戸を開け始めたばかりの通りは倦怠とした早朝の空気が漂っていた。その中を、真砂はこつこつと杖を鳴らしながら歩く。都の大路は真っ白い雪に覆われていたが、牛車のよく行き来するところはいくつも轍ができていて、そこを選んで歩けば、雪に沈む心配はない。道の両脇には溶けずに残った古い雪が積もり、それに混じってぽつぽつとひとの死体が転がっている。衣服がないのは、彼らのまとっていたぼろ布すらも、近頃跋扈している追いはぎが奪っていったからだろうか。凍って白蝋めいた色をする死体は美しくもあったが、春になったらヒサンだな、と真砂は冷えた眼差しをする。しばらく歩くと、雪と死体は「掃除」され、外観だけは清潔さを保たれた高級役人の屋敷の連なる通りに入った。手にした紙切れに書かれた地図を頼りに、さらに少し歩いて、真砂はさる屋敷の前で足を止める。顔を上げ、目の前にそびえ立つ屋敷を仰ぐ。都にて、琵琶師の異名を取る宮内卿の屋敷である。周りの屋敷ほど立派ではないが、しっかりした造りの門構えと屈強な門衛は容易にはひとを寄せ付けない風だった。ふぅむ、と真砂は杖を鳴らして濃茶の眸を眇める。
*
がたごとと牛車の振動が下から伝わってくる。常よりも荒々しい感じがするのは積雪で道が悪くなっているからだろう。蝶姫は痛んできた腰に縞が差し出した腰巻を巻いて、ふぅと息をつく。厩の飼い葉やりの娘から蝶姫さまはいいなぁとよく羨ましがられるが、牛車というのは華美な見た目ほどに乗り心地がよろしくない。夏は狭いからむれるし、冬は冬で薄板の隙間から入ってくる風で凍えそうになる。何より、この揺れだ。一刻も乗っていれば、尻が痛くなって、泣きたい気分になってくる。とはいえ、今日ばかりは蝶姫も尻が痛いだの寒いだのと文句を言う気分にはとてもなれなかった。
蝶姫の双子の弟である皇祇皇子が杜姫の墓参りの帰りに姿を消してから、季節がひとつ過ぎた。三月に及ぶ捜索は何の手がかりも得られぬまま、雪が深くなるに至り、いったん打ち切られることになった。蝶は今日、仮住まいをしている琵琶師の屋敷から大内裏のほうへ登り、実兄である朱鷺(とき)殿下からその旨を聞かされたのであった。二年前、虚弱を理由に廃嫡をされた朱鷺皇子は、今は『文樹林』と呼ばれる官衙で国史の編纂に携わっている。別名『閑古鳥の墓場』と呼ばれる左遷された役人どもが最後に置かれるおんぼろ官舎である。そのような場所に飛ばされたにもかかわらず、相変わらず呑気な蝶の兄皇子は、やっぱりのんびりとした顔で、皇祇探しは今日でいったんおしまいだ、と蝶に告げた。そのときの絶望を、蝶はどうたとえたらいいのかわからない。
皇祇はもう、見捨てられてしまったのだと思った。
朝廷の役人たちは、三月で、皇祇を見限ったのだと。
「……じゃが、蝶は決して諦めぬ」
だって皇祇の蝶のただひとりの弟なのだもの。
朱鷺皇子の前でも言ったことを今一度口に出して呟いて、蝶は知らず引き寄せた腰巻を握り締めた。そのとき、がたん、と大きく牛車が揺れて止まる。したたか背を壁に打ち付けてしまい、蝶は眉をしかめた。だが、牛車はそれきり動かなくなってしまう。どうしたのだろう、よもや雪で車輪をとられてしまったのだろうか。以前にもそんなことがあったと思い出し、蝶は対面に座っていた侍女の縞に物見の窓を開けさせるように言った。少し開いた窓から外をのぞいて、車を引いていた男に「おい」と声をかける。
「如何したのじゃ。急に動かのうなってしまったが……」
言っているさなか、不遜にもこちらに背を向けていた男の身体がぐらりと傾いだ。蝶は目を瞬かせる。「姫さま?」と問うてきた縞を押しのけるようにして、物見の懸戸に顔をくっつけると、びゅううと目の前でいっそ馬鹿みたいな赤い噴水が吹き上がった。あまりにも勢いよく迸るので、芸人か何かが水芸をやり始めたのかと思ったくらいだ。だが、蝶のいっぱいに瞠られた眸は、馬引きの男の首がぱっくり裂けるのを捉えていた。ひとしきり血を吹き零した男は地面に倒れ、一度陸揚げされた魚のようにびくんと背中を跳ねさせた末、微動だにしなくなる。蝶は息を詰めた。知らず汗をかいたこぶしを握り締め、倒れた男のほうから目を上げると、そこにはひとふりの刀を握った男がいる。だらんとぶら下がった刀の、脂ぎった血ともなんともつかぬもので黒くなった刃を認め、――蝶は尻餅をついた。ひっと口内で声なき悲鳴を上げる。体温が急激に下がっていって、貧血もどきを起こしそうになった。
「ひ、姫さま? どうなさいましたのですか」
「タマ」
声を上げる侍女の口を慌てて塞ぐ。だが、しっかりあてがったはずの蝶の手は幼子のように震えていて、ろくに塞ぐという役割を果たせていなかった。今しがた目に入った光景が脳裏に蘇り、蝶は目を固く瞑る。
刀。刀、であった。本物の。
以前よりずっと治安の悪くなった都の大路では、近頃たちの悪い追いはぎが跋扈している。先日、琵琶師の妹姫の婿殿もひどい目にあわされた。だから、牛車も地味なものにして気をつけていたのだけど、よもや、自分の車が襲われようとは。恐ろしさに身体は震えて、悲鳴を上げようにも喉が塞がったかのように声が出ない。せめて、せめて、自分たちが中にいることに気付かないでいてはくれないだろうかと儚い望みをかけて、蝶姫は息をひそめた。言葉らしい言葉は交わされなかったが、縞のほうも何か察するものがあったらしく蝶の身体を抱き締めるようにして息を殺している。外は静かだった。そろりと物見のほうへ目をやるが、高さのせいで、暗闇に月が照っているのしか見えない。音は、ない。もしや、自分たちを見逃して去ってくれたのだろうかと蝶が期待しかけた刹那、垂れ込められていた絹の下簾と御簾の端が少し揺れた。無骨な、男のものとわかる指先が御簾を引き上げようとする。
「……っ!」
とっさに蝶は縞の腕から抜け出して、引き上げられそうになっていた下簾と御簾端を押さえる。嫌じゃ、という独白めいた泣き声がこぼれ落ちた。嫌じゃ嫌じゃ嫌じゃ。とにかく、恐ろしくて、恐ろしくてたまらなくて、蝶は入ってくるなとでもいうように御簾端を死守する。外側から手ごたえがあった。御簾越しに本当にひとがいるのだ。こわごわ目を上げると、すぐそば、息が触れ合うほど近くに、見知らぬ坊主頭の顔があって、蝶は今度こそ、悲鳴を上げた。はずみに押さえていた御簾がめくれ上がって、毛の生えた肉厚の手のひらが屋形ののふちにつかれる。蝶はあとずさったが、長い衣の裾が外に引っかかってしまって、思うほどに下がることができない。
「タマ、タマ、タマ、タマ、」
混乱のあまり蝶は無我夢中で身をよじって、縞の腕にすがりついた。いつもは縞です、と訂正する縞もこのときばかりは「姫さま、姫さま」と震える蝶の身体をきつく抱き締める。そのまま背の後ろに押しやられる。女の背に守られたことに一瞬安堵のようなものを覚えるが、しかしそれはすぐに別の恐怖に取って代わってしまう。だって、男の肉厚の手には刀が握られている。刀が。あんな太くて固い鉄の塊に貫かれたら、血がたくさん吹き出るに決まってる。ころされる。縞がころされる。縞が。縞が。蝶の縞が。ころされてしまう。
いやじゃ、と蝶は縞の衣を握り締めて喉を震わせた。
「いやじゃいやじゃいやじゃああああああ!!」
そのとき。どす、と生々しい音が蝶の耳朶に触れた。いつの間にか泣き濡れていた頬をひんやりとした風が撫ぜる。蝶は濡れた睫毛を瞬かせ、おそるおそる縞の背から顔を出した。毛の生えた肉厚な手のひらがめくり上げられた下簾と御簾の下にあるのが最初に目に入る。だが、それはほどなく力を失った様子で外れ、少ししてひとの倒れる衝撃が伝わった。縞、と侍女のほうを見上げると、女もまたいぶかしげに眉をひそめている。その眼前で、御簾が再度めくられた。蝶は涙で濡れた眸をそちらに向ける。さやかなる月光を背にしたそれは、男であった。暗がりのせいで色彩はよく見えぬ。ただ、明るい雪面に照らされた男はほの白く、血のにおいがして、翳りを帯びた琥珀の双眸だけが獣のように光って見えた。その眸がふと蝶のほうへ焦点を結ぶ。彼は、蝶をその眸に映すと、眦を和らげた。ひらりと白い手のひらがこちらへと差し出される。さながら御伽噺の貴公子の挙措でもって袖を裁き、男は高らかに告げた。
「白馬の皇子さま、参上しました。助けに参りましたよ、『姫』」
かくして――
東の男と、西の姫君が再会し、それはやがて国を巻き込む青嵐となる。
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