三章、青嵐



 四、


 ――その少女の面影はすでに追憶の彼方にある。

 それは都・紫苑にその冬初めての雪が降った日のことだった。
 従兄の目を盗んで宮中の奥深くへと迷い込んだ彼は、白い雪に覆われ始めた庭の真ん中で、くすんくすんとしゃくり上げている小さな少女を見つけた。真っ黒い喪の衣に身を包んだ少女は降りしきる雪にも構わず、まるでいっとう悲しいことがあったのだとでもいうように赤くなった眦を手の甲でこすって喉を震わせる。白銀の髪に粉雪が舞い落ち、涙に濡れた手の甲へもまた雪華が落ちる。あたりには人どころか獣や鳥の姿すら見当たらない。雪は降り続け、切々と泣き暮れる少女の足跡をも消していった。
 それはひどく美しい光景で、まるで一隻の屏風絵か何かを見るような心地で真砂は目を細めていたのだけど。少女の姿がようよう白い雪に溶け込んでしまいそうになったとき、寂しいような、惜しいような変な衝動に駆られて身じろぎをした。がさり、と思いのほか大きな音が鳴る。少女ははっとした風に目元を覆っていた手を離し、幼い顔に警戒心をあらわにしてこちらを注視した。んしょ、と深緑の茂みからようやっと頭だけを出す。

「あーくそ、いってえな」

 袴の裾が椿の枝か何かに引っかかって出ることができない。茂みから上半身だけを突き出した状態で身をよじっていると、一度は後ずさった少女がおっかなびっくりといった様子で手を差し伸べてきた。びっくりするほど小さくて、白くて、華奢な手。そんな手が力いっぱい引っ張ったところで、抜けるはずがない。抜けるはずがないのだけど、少女は頬を紅潮させながら必死に腕を引いている。都の椿は葛ヶ原のものより枝つきが弱いのか、はたまた少女の必死さが勝ったのか、ふと袴のあたりの布が裂けるかんじがして、前のめりの力がかかった。ひゃあああだとかうわぁだとかいう悲鳴が絡み合い、どすんと大きな音がしてあたりに細かな雪が舞う。
 気付けば、自分より小さくて柔らかな身体が下にあった。なんだか本当に潰れそうであったので、少しかわいそうになって身体をどけてやるのだけど、下敷きになった少女のほうは雪に突っ伏したまま微動だにしない。よもや死んでしまったわけじゃあるまい。真砂が少女の小さな頭をうかがうと、幸い微かに肩が震えているのがわかった。なんだ、と思って、悪い悪いと謝り、親切に手を差し出してやる。その手のひらを少女がじっと見つめる。そしてぺんと払った。まるで汚いものでも見るような目だった。自分で身を起こすと、少女はまたこちらのことなぞお構いなしに背を向けてくすんくすんと泣き始める。その態度に、腹を立てるというよりは呆れた。よく泣くオンナだな、と思う。真砂の知っている女どもはみんな幼い頃から男顔負けの勝気さで、涙なんか全然見せない。

「そんなに痛かったの?」

 すとんと少女の前に腰を落ち着け、訊いた。
 少女は目を瞬かせてから、やがてこくこくと首を振る。
 そのたび、少し癖のある白銀の髪がふわふわと舞って、まるで雪の花みたいに見えた。触ったら冷たいんだろうか、と気になって、額と額がくっつくほど顔を近づけてみる。吐息が頬にかかった。あたたかかった。

「――なぁそれ」
「それ?」
「違う違うそれ。水。俺そんなにぼたぼた目から水出す奴初めて見たっ。なーなー。なーなー。お嬢さん泣くのが好きなの? 目から水出すとたのしい?」

 興味を惹かれて訊いてみる。表情を強張らせたまま、少女は今度はさっきと反対にぶんぶんと首を振る。翠の眸はさっきの気弱さなんて嘘みたいに、強い光を湛えていた。

「す…っ、好きで、……泣い、てるわけじゃ……、」

 おや、と思って、そーなの?と首を傾げる。
 きつくこちらを睨み据える眸は、しなやかな花の若葉を思わせる翠。いいな、と思った。すごく気に入ってしまった。
 真砂はキレイなものが好き。キレイでウツクシイものが好き。だって、どうせ触れるなら醜くて卑しいものよりずっといい。
 慰めようと、思ったわけではないのだけど。真砂は足元の雪に落ちかけていた椿の花を見つけると、花びらが破けないようにそっと摘み取って、少女の頭に載せた。白銀の髪に絡んだ雪華を丁寧に払って耳にかける。白亜の少女に椿の赤はたいそうよく似合う。うん、キレイだ。満足げにうなずく。
 こちらの意図が伝わっていないのか、少女は不思議そうに眸を瞬かせた。新緑のような濡れた翠がきれいだったので、真砂は少女の肩に零れた白銀の髪を引いて、おもむろに、そうそれは柔らかな風が吹くかのごとくの自然さで、涙のたまった眦に唇を寄せた。涙を吸って、塩っぽい味を舌で味わって、はい泣き止んだ、と言う。驚くように見開かれた翠の眸。
 白銀の髪、翠の眸を持つ、白の姫君は。
 ――今、目の前にいる。


「なんぞこのど変態があああああああああ!」

 てっきり頬を染めて手を取ってくれるのかと思いきや、ひどい罵声を浴びせかけられて手を振り払われただけでなく頬まで叩かれた。この自分の、珠の肌を引っぱたくなぞありえない。傷がついたらどうしてくれる。憮然となって、真砂は剣呑そうに眸を眇める。しかし少女のほうはお付きの侍女らしき女――確か「タマ」だ――を気丈に庇いながらも、車の端まで後ずさり、「蝶らに不埒なことをしてみろ、ここで死ぬ、死んでやる!」と翠の眸に燃え上がるような色を湛えて睨み据えてくる。なんだかものすごく面倒くさい展開になっている。ぎゃんぎゃんと、さっきまでしおらしく泣いていたのが嘘みたいに噛み付いてくる姫君をいったいどう丸め込めばよいのか。面倒だから腹にこぶしを一個ほど食らわせて眠らせようかな、でもそうしたらフケイザイで捕まっちゃうかな俺、としばし黙考してから、結局真砂は「蝶」と言った。ただ一言。それで、嘘みたいに騒いでいた娘は静かになる。今しがた処分して差し上げた男の、死骸だかまだ生きてるんだか知らないものを義足でぞんざいにどけて、真砂は屋形のふちに肘をついた。

「ねぇ忘れちゃった? 『もしも再びあいまみえた暁には』我が姫に一生変わらぬ愛と忠誠とついでに貞操を誓って差し上げるってお約束したでしょう俺」

 翠の眸がひとつ瞬かせられ、驚いた風に瞠られる。
 それが真砂を捉え、みるみるより激しい驚きの色に染まっていった。

「あああああああ!? おまっ――」
「思い出されたんなら結構。俺はずぅっとあなたに会いたかったんよ、蝶姫? 今上帝と皇后杜姫の血を引く末の姫君」

 にっこりと、せいぜいこの娘の好きそうな貴族らしい清廉とした笑みを浮かべて言ってやる。八年近くぶりに再会を果たした姫君は、相変わらず気の強そうな、それでいて童女のように無垢な眸で自分を見つめてきた。上々、これは愉しみ甲斐がある。






 平栄四年の桜は嵐のせいで一晩で散ってしまった。
 後世にまで語り継がれる「一夜桜」である。
 代わりにやってきた燕がひゅるりと啼いて、雨雲を次々連れてきた。珍しい牡丹を育てるのに精を出す琵琶師の庭もさることながら、前庭にたくさんの紫陽花が植わっている丞相邸の聞こえは名高い。煙雨が紫陽花の花葉をしとりと濡らすさまに言い知れぬ風雅がある、と名のある歌人が詠んでから、邸の外には多くの歌人が訪れるようになり、あるじの興ならぬ不興を買った。


 けぶるような初夏の雨の中に、紺色の傘が一輪咲いている。
 その番傘は長い間微動だにせず、目の前に広がる月曲湾を見つめているようだった。灰色の霧靄に覆われた海をいくつもの船が過ぎ去ぎる。少女の足元には雨で毛をしょぼくれさせた老犬が一匹座っていて、時折思い出した風に彼女の身体に鼻先をくっつけるのだけども、空と海の交わるあたりに一心に向けられる視線が解かれることはない。
 まだ少し、幼さを残した顔立ちの少女であった。雨がひどかったせいか、紺色の被布はうっすら濡れてしまっていて、その下から見える初夏の青い花を散らした小袖も沈んだ色をしていた。背に軽くかかる程度の黒髪は今は後ろで結われ、花をあしらった銀の透かし彫りの簪が一本挿されている。
 まるで何かを恋しがるかのように海のほうへ向けていた眸をやがて力なく伏せ、娘は紅を刷いていない子供らしい唇をそぅと噛んだ。と、湊に面した小路のほうからわぁと歓声があがって、筆と紙とを持った子供たちがはしゃぎ声を上げながら少女の脇を駆け抜ける。そのうち、遅れたひとりがぬかるみで足を滑らせ、べしゃりと転げてしまった。派手な泥しぶきに、物思いに沈んでいた少女は我に返ってぱちぱちと目を瞬かせる。ぬかるみに顔面から突っ込んだせいで、転んだ童女の衣は泥でぐちゃぐちゃ、膝小僧も血が滲んでしまっている。ひどいありさまの膝小僧に気付くと、少女は傘を回してかがみ、「へいき?」と問うた。細い足を少しさすって、それから己の袖で童女の顔を拭ってやった。丁寧に泥水を拭かれているうちに痛みが蘇ってきたのか、童女は目にいっぱいの涙をためる。少女はそういうものに慣れていない。伝い落ちる涙をおろおろとぬぐってから、思いついて、腕に抱いた包みの中から紙に包んだ塩飴を取り出した。包み紙を開いて、それを子供の口に押し込む。しばらく目を白黒させていた童女は舌先から飴の甘さが伝わってきたのか、固く引き結んでいた口元を綻ばせた。やっと笑顔になって道を駆けていく子供を見送ると、桜は尻尾を振ってまとわりついてきた老犬の頭を撫ぜ、立ち上がった。