三章、青嵐



 五、


「そりゃー嵯峨の奴、桜ちゃん来て欲しさに腹くだしたんよ。邪魔ぁみろってんだ、見舞いなんか行く必要ねぇぞ」

 自慢の鹿毛を磨きながら、稲じい、と呼ばれている厩番の老翁はかははと笑う。葛ヶ原では大きな屋敷にいけば、どこにでも厩があったけれど、駕籠や牛車が主流の都では馬はあまりいない。代わりに、いくつかの区画ごとに集められて、雇われた厩番が馬の世話をしていた。月詠の持っている月毛もこの中に置いてもらっているので、桜もときどき足を運んで、馬を洗ったり飼い葉をやったり稲じいの手伝いをしている。今日は、気の早い夏風邪をこじらせて寝込んでしまった隣人の見舞いついでに寄ったところを、たわしを持った稲じいに引き止められて、月毛の足洗いを任されたのだった。

「聞いた。嵯峨せんせい、男やもめだって」
「そうさ。十年も前に嫁さんと娘が愛想つかして出てったんだよ。奴ぁ、小難しい本に夢中だったからさぁ」
「その頃から本がスキだったの?」

 屋敷に引きこもって分厚い書物ばかりを読んでいる気難しい都察院の長官のことを、桜は「せんせい」と呼ぶ。嵯峨せんせいは、いかにも神経質そうな細面の男のひとで、ひとりぼっちで丞相邸の隣の屋敷に住んでいた。

「あぁ。金にならねぇ仕事ばっかしてっからああなるんだ。桜ちゃんよぉ、男は金だぜ? しあわせになりてぇんだったら金のある男を捕まえにゃー」
「あー! 稲さんがまた桜ちゃんに変なこと吹き込んでる!」

 水を汲んだ桶を持ってひょいと顔を出したのは、その嵯峨の屋敷で下働きをしている雛(ひな)だ。井戸で水を汲んで、厨に戻る途中だったのだろう。月詠をはじめとした十人衆のお屋敷は半分がこのあたりの一角に集まっていて、嵯峨のほかにも白藤(しらふじ)や伊南(いな)、菊塵(きくじん)といった面々が住んでいた。

「馬鹿だな、稲さん。金子があっても大商人のお内儀なんかじゃあ夢がないじゃんね。あたしだったら、嵯峨さまに見初めてもらって、果ては嵯峨さまの後添えにおさまるよ!」

 雛は桶を置き、桜の足元からひゅるりと抜け出して飛びついてきた老犬を抱き止める。桜が『犬』と名付けた老犬は飼い主と違って誰に対しても愛想がよかった。

「うひゃあ、可愛いなぁ犬は」
「――犬。め」

 犬があんまり雛の顔を舐め回すので、桜は眉をしかめて控えめに制止の声をかける。が、犬のほうはますます興奮するばかりである。いいよいいよと笑って雛は老犬の首を抱き寄せた。そのとき、並んだ月毛がせわしなく身を震わせ始めたので、桜は蹄から土をかき出す手を止めて顔を上げる。馬の鼻面が振られる方向へ目を向けると、大きな車輪をがたごとうるさく鳴らしながら慣れない御しぶりで牛車が近くの通りを走っていった。同じように眸を眇めて垣根の向こうを見ていた稲さんがちっと舌打ちする。

「下手くそめ。牛を馬みたいにせかしてどうする」
「東のひとでしょ、アレ。土耕すの以外に牛使ったことがないんだよ」

 雛が手のひらで馬をさすりながら相槌を打つ。広大な平原を切り取って造られた都は、真ん中の太い大路を挟んで東と西の大きくふたつに分かれており、そのうちの西側には朝廷に仕える役人や公家たちの屋敷が碁盤の目みたいに立ち並んでいる。反対の東には地方からやってきた領主やその一族たちの仮住居が集まって建てられていた。丞相邸があるのは西。雛や稲じいたちをはじめとした西の人間たちからすると、東側は「よそ者の集まり」で、どことなく冷ややかな視線が向けられる。桜はしばらく遠のいていく車輪の音に耳を澄ませていたが、やがて「船」と不意に思い出したことを言った。

「外からやってくる船も、さいきん多いね」
「ああ、桜ちゃん。それはね、水無月会議がもうじき始まるからだよ」

 雛は抱えた犬を地面に下ろして言った。
 桜はほとりと首を傾げる。

「みなづきかいぎ?」
「夏のはじめのあたりから執り行われる大きな会議のこと。知らない?」
「うん」

 桜がうなずいて、じっと見上げると、この親切な隣人は年上らしい苦笑をして話を続けてくれる。

「一年間のことをみんなで集まって話し合うんだよ。だいたい春から夏の間に開かれるから、その月の名を取って、文月会議とか早苗会議とか呼ばれる。今年は六の月だから、水無月会議だね。少し前に帝から召集がかかって、各地の領主さまがこっちに集まり始めているの」
「りょうしゅ」
「って言ったらあれか。久しぶりに老帝サマも顔を出すんかね」
「嵯峨さまはそう言ってた。皇子さまが次々亡くなったせいで、ずっと新年の宴も開かれていなかったでしょう? だから、数年ぶりの大きな集まりになるんじゃないかって。特に今年は葛ヶ原の新しい領主が――」
「く、ずがはら!」
 
 桜が突然大声を上げたので、雛と稲じいはびっくりした風にこちらを振り返った。ふたりから注がれるいぶかしげな視線に気を止めるのも忘れて、桜は「それで?」「葛ヶ原のりょうしゅさまがそれで?」と勢い込んで雛にせっつく。

「う、うん? ええと、だからその葛ヶ原の領主サマがね? 三年間の出仕停止が解けて都にのぼるらしいから、これはまたひと嵐起こるんじゃないかっていう噂があんの」
「うわさ」
「何せ今代の葛ヶ原領主は、かの高名なる天才風術師橘颯音の弟。三年前志半ばにして斃れた兄の遺志を継ぎ、帝に刃を差し向ける気なんじゃないかってさぁ、朝廷のお偉方はみーんなぴりぴりしてるんだよ。嵯峨さまもだけどさ。なら、謹慎を解かなきゃいいのにねぇ?」

 雛が苦笑気味に肩をすくめると、「偉いひとはいろいろむずかしんだよ」と稲じいが笑い、「でも、ほんとに帝に刀を向けたりしてな」とのんびり言った。

「あたしはやんないと思うな。老帝にそむくなんてそんな大それたこと、橘颯音じゃなきゃできないよ」
「なら、俺はやるほうに一個賭ける。桜ちゃんは?」

 稲じいから急に水を向けられ、桜は「え、」と言いよどんだ。

「どっちに賭ける? やるほう? やらないほう?」
「ええ、と」
 
 口を開きかけ、それからまた迷って閉じる。脳裏にふうわり淡くよぎった面影があったけれど、それは夜にうまく寝付けなかった桜の背を叩いてくれた温かい手のひらや、胸にぎゅっと顔を押し付けたときに嗅いだ草木の吸い込む水に似た、透き通ったよいにおいであったので、今の話とは何か別のことのように思えた。

「……葛ヶ原のりょうしゅさま、は会ったことがないから、よくわからない」

 結局桜は目を伏せて、ぼそぼそとそう答えることしかできなかった。






 都の中でも一番端のほうにある丞相邸に面した菖蒲小路は夜になると、ほとんどひとの通りがない。夏の盛りのよく晴れた晩や、蛍の季節ならばともかく、今日のような夜はしとしとと寂しい雨音ばかりがする。それに耳を傾けつつ、炭壷に蓋をしていた桜はふと外のほうで微かにするひとの話し声に気付いた。それから、りん、と鈴の音。駕籠にぶら下がっている小さな鈴の音だ。桜が手燭をもって表玄関のほうへ出て行くと、敷台に灰色の影が落ちた。現れた黒衣を見て、桜は明かりを持ったまま立ちすくむ。黒衣に載った雨雫を払っていた男は、桜のほうへ一瞥をやって「なんだ」と言った。

「まるで化け物でも見たような顔をしておるな」

 白い喉がくつりと鳴る。実際、桜の細々とした明かりに照らされる男の顔は幽鬼か何かのように青白い。この屋敷に彼が戻ってくるのはいったいどれくらいぶりなのだろう。前に出迎えたときは、そう、春の終わりの水混じりの雪が降っていた気がする。
 月詠は呆けて突っ立っている桜をないものと扱うことにしたのか、何も言わずに敷台を上がり、廊下を歩きながら長い銀の髪や衣についた雨雫をうっとおしげに払った。桜は男のあとをそろそろと追って、明かりを燭台に移す。ほんのり明るくなった室内で見る男は久方ぶりであるのが嘘のように、前と何ら変わりがなかった。ほんの少し頬のあたりが痩せた気がするのは、明かりの加減か、本当に疲れているのか。濡れた黒羽織を脱いで衣桁にかけた男はこちらを振り返らずに「なんだ」とさっきと同じ言葉を繰り返した。

「お茶……あたたかいの、いる?」
「いる」

 男の返事は簡潔だった。
 桜は曖昧に顎を引いて、とたとたときびすを返す。さっき壷に入れておいた炭火を出して、火を起こし、水を沸かす。湯が出来るのを待っている間に、いつも使っている急須に茶葉を淹れる。今日、屋敷に寄ったときに「せんせい」からもらったものだった。南方のほうの、柑橘の香がするお茶。一緒に、「せんせい」のところに持って行った、葛粉やかのこ豆を甘く蒸して固めたのを取り分けて皿に置く。少し硬くなっていたが、まだ食べられるはずだ。お茶と菓子を持って戻ると、月詠はすでに着替え終えていて、御簾を取り去った濡れ縁に悠然とあぐらをかいて外を眺めていた。運んできたものを男の横に置き、数歩ぶんの間をあけて、自分もまた濡れ縁に座る。茶の湯気を嗅いで、「柑子だな」と男は香りを言い当てた。このひとはどうやらことのほか嗅覚が鋭いらしい。目を伏せて、茶を啜る。おいしいともまずいとも言わない。実際、何も思っていないのかもしれない。菓子も口に入れる。出されたものは残さずに食べるものの、やはり言葉はない。

「嵯峨が礼を言っていたぞ」
「せんせいが?」
「だが、これはあまりうまくないな。硬い」

 感想があったかと思えば、容赦のない言葉が返ってくる。だが何もないよりはましなので、そうか硬いのか、と月詠の言ったことを心の中で反芻した。

「毎日は、退屈か」

 月詠は空になった湯飲みや皿を眺めながら言う。
 桜は考えた末、ふるりと首を横に振った。

「これは誰に習った?」
「……雛に」
「ヒナ?」
「嵯峨せんせいの家の」
「使用人か」
「そう」

 ――肩透かし、というのが近かったと思う。桜が都にやってきて、最初に感じたことだ。あれほど恐れていた月詠はほとんど屋敷に戻ってくることがなく、ひとり飯炊きに雇われている老婆は話しかけてみてもほとんど返事が返ってこない。仕方なく桜は黙々と炊事と掃除だけをこなす老婆の背中をぼんやり追って朝と昼と晩を過ごした。そうして、最初に覚えたのは火のつけ方と始末の仕方である。次に覚えたのは、ものの洗い方。包丁の扱い方と、煮焚きの仕方。桜は老婆の手ぶりを見よう見真似で覚えて、半年経つ頃にはそばでぱたぱた動いて手伝い始めた。桜が手伝うようになると、老婆は反対に炊事をやらなくなってしまって、今では動き回る桜をよそに濡れ縁ですぅすぅ眠っていることが多い。

「月詠は、ひま?」

 思いついて尋ねてみる。

「ああ、退屈だ。こうも退屈にすぎると悪い虫が騒いでよくないな」

 男はあぐらをかいた足に頬杖をつきながら苦笑する。屋敷に戻ることのないほど政務に多忙なひとが退屈だと言い切る。不思議に思ったけれど、なんとなくこのひとが言うとそういうこともありそうな気がした。

「『きくかぞえ』はどこまで行った?」

 庭の紫陽花の葉を濡らす雨を眺めながら、月詠が独り言のように言った。『きくかぞえ』というのは三絃を使って弾く子供用の譜だ。桜はときどき「せんせい」のところに通って三絃や算盤や読み書きを教えてもらっており、そのことは月詠も知っていた。こぉまで、と桜は「せんせい」に教えてもらった譜を思い出しながら答える。

「なら、みぃまでここで弾け」
「……聞きたいの?」
「眠りたい」

 『きくかぞえ』は別に子守唄ではなかったはずなのだが。
 桜は不満げな間をもたせてから、やがて首を振って、自分の部屋においてある古い三絃を持ってきた。緩めていた絃をきりきりと巻いて、音を合わせ、桜の手には少し大きい撥を右手に握る。

「……こぉ、まで弾いてもいい?」
「みぃまでだ」

 聞かせてもらう側であるにもかかわらず、男の返事はすげない。
 やっぱり不満げな間をもたせてから、桜は小さく息をつき、そうして撥で絃を押した。深く湿った音が鳴る。雨の日は晴れの日よりもずんとした潤った音が出る。音を出してしまえば、不満も、腹の底でくすぶり続ける暗くて、冷たくて、自分ではどうしたらよいのかわからない漠々としたものも何もかも。薄らいで消えていく。桜は一の節を弾いた。二の節に入る頃には男は己の腕を枕に横になっており、三を弾き終わる頃には微かな寝息すら立てずに静かに寝入っていた。桜はひとりでこぉまで弾いた。