三章、青嵐



 六、


 水無月のついたち。その日の湊はてんやわんやの大賑わい、まもなく始まる水無月会議に向けて領主を乗せた大きな船がひっきりなしにやってきていて、狭い岸辺はそれを見物するひとびとでいっぱいだった。午後に到着する船には、南海の網代あせびやその異人の妻、瓦町の百川諸家の面々も乗っているらしい。それから、橘雪瀬。三年ぶりに都に入ることを許された葛ヶ原の領主もまた、水路を取って都にのぼる。
 ひとの集まる場所に、ひとは集まる。近頃は帝の血を引く皇子の相次ぐ死で新年の宴は催されていなかったから、この一年に一度きりの水無月会議の折には、都中の老若男女がひしめきあって見物に訪れた。
 都にはない蒼い潮のにおい。金。そういうものにみなで群がる。以前に比べればずっと数も減ったものの、大路の端っこはぬるい冷やし水や七夕にちなんだ五色の短冊を売る者たちががなりたてる声で、鄙びた喧騒を見せた。砂糖をけちったせいでただねばっこいだけの水飴をねびりながら、今か今かと船が現れるのを待つ。その中に、紙袋を抱えた桜もいた。

 月詠にはもちろん、湊に行く話はしていない。雛や稲じい、犬にだってしなかった。
 ので、いつもどおりを装って西の市に買出しに行った帰り、こっそりと湊のほうへと寄ったのだった。事前に、たくさんの見物客が集まりそうだ、と雛から話は聞いていたけれど、雛の話はいつも誇張されるきらいがあって、今回もどうせそんなものなのだろうと高をくくっていた。よもやこんなにたくさんのひとが集まっているとは。本当にお祭みたいだ。

「おや。おぬしも領主さまを見に来たのか?」

 立ちはだかるひとのせいで船着場に近づくことすらできず、桜が爪先立ちになってぴょんぴょんと沖のほうをうかがっていると、すぐ隣にいた、濃紫の頭巾を目深にかぶった小柄な影が尋ねてきた。頭巾の端からこぼれ落ちる白髪と、しわがれた声から、どうやら年のいった老婆らしいとわかる。

「りょうしゅさま」

 まだ慣れない言葉を舌の上に転がし、桜はためらいがちに顎を引く。
 領主さま、と口にするとなんだか知らないひとの話をしているようでどうにも慣れない。

「ほーう、さよか。奇遇じゃ。私もな、領主さまとやらの船がやってくるというから、見物しようと思って寄ったのだよ。連れがのう、団子を食うと騒いだ挙句どこぞやへ消えて、ちょうど暇であったからな」
「そうなんだ」
「しかしひとが多くて、よう見えぬなぁ。これじゃあ領主さまとやらの顔が見えるかどうか」
「……うん」

 確かにたくさんのひとがひしめきあっているせいで、桜や腰の曲がった老婆では船着場まで見通せそうにない。どうしようかな、と桜が考えていると、ふと遠くのほうで耳につく金切り声が飛んだ。ひとの頭の間から、酔っ払いらしい赤ら顔の男たちと、黒羽織の男たちの諍いが見える。どうやら、奉行所の役人たちが騒ぎを聞きつけて取り締まりに来たらしい。

「っおおう!?」

 と、突如隣の老婆が奇声を上げ、持病の癪じゃ持病の癪じゃ、と腰をふたつに折ってかがみこんだ。ぱちぱちと眸を瞬かせ、桜は老婆のかたわらに膝をつく。

「おなか、痛いの? だいじょうぶ?」

 声をかける間も老婆の肩は上下に激しく揺れ、呼気がどんどん荒くなる。なんだか本当につらそうだ。桜は誰か助けを呼ぶべきだろうかとあたりを見回す。が、それを老婆の手が腕をつかんで止めた。首を振られる。よくわからないけれど何か訳ありらしい、とそういうものの機微に疎い桜も察して、口を閉ざす代わりに老婆の背をさすった。
 黒羽織がひときわ甲高い声で何かを言ったが、群衆がてこでも動かないのを見て取ると、騒ぎ過ぎてどぶに落ちた酔っ払いだけをしょっぴいて去っていく。黒羽織の一団がいなくなるや、ほー、と老婆は息をつき、むくりと起き上がった。持病の癪は、と思った桜に、老婆は頭巾の下でもそれとわかる不敵な笑みを返す。

「かたじけない。ふふ、やさしいのう、おぬし。婆はそなたの厚情に感じ入ってしまったよ。――ふむ、気に入った。そなた、領主さまを見たくはないか?」
「見たい、けれど」
「なら決まりじゃ。こっちに近道がある」
「ほんと!」
「うむ。憐れな老婆めをいたわってくだすった礼じゃ」

 礼じゃ、というわりには鷹揚としたそぶりで老婆は桜を手招きした。
 案内されたのは、小柄な桜や老婆でなくては通れないような狭い道で、道というよりは大きな蔵と蔵の間にできた隙間というのに近い。都の港は毬街ほどではないにせよ、船が多く訪れ、そうして引き揚げられた荷をしまっておくための蔵が多い。漆喰の壁の間をすたたたたと下駄を鳴らして老婆は駆ける。昼であるのにどこか湿っぽく薄暗い小道を駆け抜けると、眩い光とともに視界が開け、潮のにおいが強くなった。見物をするひとびとは相変わらず岸をぎっしりと埋めていたが、さっきよりもずっと近い。桜は笑みをほころばせ、ありがとうと老婆に頭を下げる。

「礼には及ばん。ひとりよりふたりで楽しむのが祭りの醍醐味だからの!」

 老婆は明るく笑い、「しかし大きな船じゃなぁ……」と沖のほうで停泊している船を仰いだ。風に飛ばされそうになった濃紫の頭巾の端を手で押さえる。袖端から現れたその手が思いのほか白くたおやかであったので、桜は目を丸くした。

「これが海を駆けていくというんだからすごいな」
「うん」
「そなた、船に乗ったことは?」
「……一度だけ」

 もう三年前になるけれど、都に向かうために柚葉たちと乗ったのがきちんと思い出せる最初で最後の船だった。都から葛ヶ原へ逃げてきたときも乗ったはずなのだが、そちらはもうおぼろげにしか記憶がない。

「ほー、さよか。私も幼い頃一度だけ乗った。柄にもなくはしゃいでしもうたよ。足元がぐらぐら揺れてなぁ。すぐそばを大きな魚の群れが泳いでいったりもした。朝日が反射するときらきらと七色の鱗が綺麗で――、おや?」

 前方の岸辺に近いひとびとがにわかに騒ぎ出したのに気付いて、老婆は顔を上げる。どうやら沖で停泊する船から出された小船が船着場に到着したらしい。

「着いたみたいじゃ。おー、あれは百川のじいさまかの。百川の兄弟たちもわらわらおる。双子に三つ子。いつ見ても、あれはなかなかに美丈夫よのう。のう、そなたは誰が目当てじゃ?」
「たちばなきよせ」
「ああ、あの天才風術師の弟のな。おお? なんぞそれっぽいのが出てきたぞ」
「ど、どれ?」
「あれ……か?」
「あれ?」
「近くの百川たちが大きすぎて見えぬのう」
「うん」
 
 ぴょんぴょんと何度も爪先立ちするが、やっぱり雪瀬の姿はおろか、老婆の言う百川の兄弟たちの頭くらいしか見えない。もどかしげに桜が飛び跳ねていると、前方で華やいだ歓声が上がった。

「おおーなんぞ娘らの色めきたつ声はなはだしきこと。もしや相当の色男なんじゃあるまいか、橘雪瀬っていうのは」

 そう言う老婆の声もどことなく浮き立っている。
 桜は眉根を寄せて、ほとりと首を傾げた。

「……いろ…?」
「そういえば橘颯音なら、一度見かけたことがあったのう。朱表紙の皇子さま像とはちと違ったが、ううむなるほど、凛とした空気をまとった品のよい男であったよ。兄弟というからにはやはり似ておるのだろうか」
「うー、ん」
「何せ弱冠十九歳の領主というじゃろ? 十九といったら、あれだ、男の盛りだ。きっと、とぉってもかっこよいに決まっておる! のう?」
「……」

 うきうきとした翠の眸に見つめられ、桜はつい口ごもった。
 冷たいものがお腹から胸のほうへせり上がり始めていた。それにあわせて動悸が激しくなる。今になって急に、怖くなってきた。だって雛や、この老婆が噂する『りょうしゅさま』が全然雪瀬じゃないのだ。本当に葛ヶ原で領主をやっているひとは雪瀬なのだろうか。桜が知っている、あの肉刺や細かな傷でぼろぼろの、でもやさしい手のひらを持つひとなのだろうか。顔が見られる、と思ったら今度は怖くて怖くてたまらなくなった。――それに、もしも。もしも、雪瀬がもう桜のことなんか忘れていたら。
 ひときわ大きなざわめきがして、桜ははからずも前に押し出された。
 どくどくと打ち鳴る自分の心臓の音ばかりがうるさくて、反対に喧騒が後方に遠のいていく。桜はぎゅうっと目を瞑ったあと、祈るように手と手を組み合わせ、おそるおそる顔を上げた。海のにおいのする湿った潮風が吹き抜ける。
 
「いや、なかなかに。ほんに美丈夫ではあるまいか。少し渋めじゃが」

 老婆に遅れること少し、船着場に降り立った長身の影を見つけて。
 ――桜は怪訝そうに目をこしこしとこすった。

 巨漢だ。
 巨漢にすぎる。
 確かに、ひどい別れ方をしたあの夜から三年以上の時間が経っていて、それはつまり十五歳の少年を十九歳の青年に変えているわけで、外見が少しばかり、否かなり変わっていても不思議ではない。とはいえ、いくらなんでも三年と少しで。かように肩幅が広くなったり背が常人の二倍くらいの丈まで伸びたり、筋肉が隆々としてしまうことなどありえるのだろうか。いや、だってよく見たら髪の毛の色すらちが――

「むみょう」

 桜は唐突に気付いた。
 ちがう、雪瀬じゃない。このひとは無名だ。
 そう思って、男のそば近くを見回そうとしたところに後ろから群衆がなだれこむ。桜の小さな身体はあっという間にのまれ、しまいにはひとごみの外へと弾き飛ばされた。とっさ紙袋のほうを庇ったので、地面にしたたか腰を打つ。桜は小さく呻いて、とりあえず紙袋の中身が無事であることを確かめた。
 そのとき、ひとびとの足の間から、船着場のほうへ羽ばたいていく白鷺の姿を見つけて、桜はあれ、と思う。鳥が嘴にくわえている札――独特の赤い半月形をしているから、おそらくは船の割札である――を掲げると、それを受け取る、長身の影があった。ひととひとの間からのぞいているせいで、桜にはそのひとのちょうど足元から腰のあたりまでしか見えなかったが。
 白鷺が無名のいるほうを嘴で指して何かを言う。それを聞いた相手は、長い人差し指をしぃというように鳥の口元にあてた。あ、と桜が思った瞬間、相手は半月形の割札を近くの船子に渡して、青藍の袴を翻してしまった。
 考えるよりも先に身体が動いた。
 桜は紙袋をひっかむと、ひととひとの股下をくぐり抜け、足で踏まれたり、蹴られたりしながらなんとかひとごみを抜けて、いましがた白鷺が消えていったほうを仰ぐ。だが、すでに求めた人影はどこにもなかった。先陣を切ったせいでひとに取り囲まれ、身動きがとれなくなっていた無名もまたぎょっとした顔になる。

「クソッ置いていかれたじゃねぇか! だああああ邪魔だお前らどけ!」

 忌々しげに舌打ちをして、無名は携えていた二本の刀を腰に佩いた。端っこのほうで馬を磨いていた男に銭を握らせるや、鮮やかな所作で馬に飛び乗り、大路を駆け出す。おお……!と群衆から歓声が沸いた。

「ううむ。まんまとしてやられたな……」

 一部始終を見ていたらしい老婆がこちらに手を差し出しながら、何やらつまらなそうに呟く。桜は無名の乗った馬が砂塵をまきながら曲がり角を消えていくのを見届けて、老婆を振り返った。

「してやられた?」
「そうじゃ。だって、そうだろう? みながあの男に群がっている隙に、本物の領主さまはまんまと屋敷に直行してしまったというわけ」

 ちぇーつまらぬのう、と荷を下ろす船子たちを見つめて老婆が首をすくめる。その声に曖昧にうなずきながら、やっぱり、と桜は思った。
 さっきのあの長い指の持ち主。
 わかってしまった。顔を見なくても、わかってしまった。
 だって、あの手のひらが、桜は大好きだったから。あの手のひらに髪を撫ぜてもらって、頬をくるんでもらうと、身体中がくるおしくってもう胸がいっぱいになってしまうくらい大好きだったから。だから、すぐにわかってしまった。ずっと想いを馳せていた面影の一端に触れられたという喜びと、それをあと少しで逃してしまったという落胆とが一緒に桜に押し寄せる。なんだか足元から力が抜けるようで、桜はすとんとその場に座り込んだ。

「って、おお? どうしたおぬし。腰でも抜けてしもうたか」

 急に座り込んでしまったこちらに気付いて、老婆が慌てたそぶりをする。

「き、気を落とすでない。たかが領主ではないか、いい男ならこの世に五万とおるぞ! そりゃあ時にはひとの唇を無断で奪うような変態もおるが、そんなものはごくごく少数の変態であって、ほら、娘――」
「何がそりゃあ時にはひとの唇を無断で奪う変態もおるが、だ似非婆」

 こちらに手を差し伸べようとした老婆の頭を、背後から現れた長身の影がぐわしとつかみとる。

「賊に襲われかかっていたあなたさまを身を挺してお救い申し上げたのはワタクシだってのにずいぶんと失礼な物言いをしてくださるじゃあありませんか。ねぇ似非婆さま。そこんとこどうなの?」
「おおおおおぬし聞いて、聞いて!?」
「っていうかイイ男がこの世に五万もいてたまるかっての。イイ男ってのは天上天下この俺さまをおいて他にいるわけないでしょ、おわかり姫君おわかりですか姫君ぜーんぜんわかってなさそうだけど姫君っていうか似非婆」
「い、痛いじゃろうが! やめよ! 痛い!」

 老婆の耳をぐいーっと引っ張って人気のない路地裏へと連れて行き、青年はやかましく騒ぎ立てる。もみあっているうちにはらりと頭巾が落ちた。そうして肩から滑り下りたのは白髪よりはもっと輝きのあるすべらかな白銀。翠の眸にけぶるような長い睫毛、健康そうな頬色。老婆ではない、若い娘である。びっくりして桜が目を瞬かせると、娘の耳を引っ張っていた青年が「おや」といった風にこちらを振り返る。

「あ」
「あり?」

 ふたりでとっくり寸秒見つめあい、ゆっくりと瞬きをする。
 瞬間、青年の顔にぱぁあっと晴れやかな笑みが浮かんだ。

「なーんだ、桜サンじゃーん! 久しぶりー! あいたかったー!」
 
 こちらより遥かに身の丈がある長身がぴょんと跳ねて首に手を回してくる。糊の張った小袖から微かにくゆる墨のにおい。
 橘真砂と桜の三年半ぶりの再会だった。