三章、青嵐



 七、


 白磁の湯飲みを琥珀色がかった甘い茶が満たす。南海からやってきたという茶葉は都で出回っているものより色が少し淡くて、ふんわりと柑橘の香がくゆる。桜は傾けていた急須を置くと、湯飲みを三つお盆に載せて、真砂と少女の待つ客間へと向かった。月詠は昼は宮中のほうへ出仕しているし、唯一の使用人である老婆も日向のあたりでうとうとと眠っていることが多いので、見つかる心配はない。尻尾を振ってこちらを見つめてくる老犬に、しぃ、とよく言い聞かせておき、桜は襖を開いた。

「おー! 水羊羹じゃあありませんか! おいしそー! すげえ不恰好だけど!」

 お茶と一緒に切った羊羹を膝の前に置くと、真砂は手を叩いて褒めているのだか貶しているのだかわからないことを言った。老婆ではなく少女だった少女のほうにもお茶と菓子とを出して、桜もひとまず腰を落ち着ける。

「……まさご」
「はいはい、なーに?」

 切った羊羹をさっそく口に放り込みながら、真砂は鼻歌でも歌い出しそうな勢いでこちらを振り返ってくる。その鼻筋から目元にかけての面影はほんの少し、大人びたものに変わっていたけれど。

「ていうか桜サン、全然変わりませんねー。なんかもはや生きる化石というか、生ける屍というかっ。お人形さんだからまぁ当たり前なんだけど。あ、髪短くなった? 失恋?」

 このこちらの気持ちとか感傷とかをさっぱり無視した上、むしろ逆撫ですらしてるんじゃないかと思えるようなすざまじい無神経ぶりはやはり真砂だった。真砂以外ありえなかった。

「やっぱり、真砂なんだ」
「そりゃあ。俺は俺以外になった覚えはないねぇ、今んとこ」

 しれっと答えて、真砂は羊羹を咀嚼した。

「真砂、三年前……」
「うぃ」
「わたしを庇って崖から」
「ああ、落ちた。落ちた、がっつり。あ、見てみる傷痕? ちなみにこれ肩に入ってた銃弾な。銃に撃たれました記念、すごいっしょ」

 真砂は袴に挿している墨壷と筆の絡まった根付を引っ張り出して、そこに一緒にぶら下げている鉛の欠片をつまみ上げた。表面にこびりついている赤茶色の痕は、錆ではなくよもや血だろうか。声を失った桜に、真砂はどうだといわんばかりの自慢げな顔をして、根付をかちゃかちゃ鳴らした。

「落ちたのに、へいきだったの?」
「そりゃあアナタ、俺を誰だと思ってらっしゃる。あのなー俺が落ちた瞬間、突如かっと天の雲が裂け、光が降りこぼれ、風の精霊がやってきて言ったんよ。汝は英雄なり、橘真砂。かような場所で死んではならぬってさ。俺は天啓を受け、三十九の英霊を打ち下し、現れた黒船を率いて南海にたどりついたっつうわけ。でも桜サンが呼んでくれたので、このたび帰還しましたー」

 また適当なことを。
 と、桜は思ったが、それまで黙々と羊羹を頬張っていた少女が急に目をきらきらと輝かせて「風の精霊ってどんなじゃった?」と聞いているので、きっと余計なお節介だろうと思って突っ込むのをやめた。真砂は滔々と、さながら物語でも読み聞かせるみたいに風の精霊の美しさについて語っている。その、何気なく置かれた右足がやけに心もとなくなっているのに気付き、桜は軽く瞠目した。

「で、えーと、なんだっけ。なんだったっけ、桜サン」

 真砂がふとこちらを振り返る。男の濃茶の眸を桜はしばらく真摯に見つめていたが、やがて「ううん」と言い、視線を解いた。代わりに、対面に座る少女のほうへためらいがちに、あの、と声をかける。

「なまえ」

 白銀の睫毛にふちどられた翠の眸がぱちぱちと驚いた風に瞬く。女性というにはまだ幼いところのある顔に花が咲くような笑みが広がった。

「蝶じゃ! そなたはサクラサンかの?」
「ううん。“桜”」

 桜は首を振って、小さく笑い返した。





 そのあとふたりの会話の端々から聞いたことをまとめると、蝶と真砂はかつてとある場所で出会っており――蝶に言わせれば幼心を弄ばれた挙句唇まで奪われ――八年ぶりに再会を果たしたのだとか。なんだか仲がよさそうだったので、コイビトなのかな、と思って聞いたら、真砂はそうそう俺の愛するヒト、と言い、蝶はまさかこのような変態などと、と顔を蒼褪めさせたので、両者の見解はおおいに異なっているようだ。真砂は今この少女に雇われて、身辺の護衛などをやっているらしい。
 蝶というのはどうやら真砂以上に一所に留まっていられない性質の持ち主のようだった。羊羹を食べ終えたあと、しばらくうずうずしていたが、そのうち「庭を見てくる!」と言って外にすっ飛んでいってしまった。桜は濡れ縁に降りると、腹を出して日向ぼっこをしていた犬の首を叩き、蝶のあとを追うよう言った。犬はこれでも賢い犬なので、供にはもってこいなのである。蝶に寄り添って歩く犬の後姿を見送り、桜は真砂のほうを仰いだ。

「真砂は、これからどうするの」
「ってゆうと?」
「葛ヶ原にかえるの?」
「冗談。あんな辛気臭いとこ誰が帰るかっての」

 真砂は羊羹のときに使った楊枝で歯をしごきながら行儀悪く濡れ縁にあぐらをかく。蝶の残していった皿をお盆の上に載せてひととおり片づけを済ますと、桜は真砂の隣にちょこんと座った。

「どうして?」
「だって、あすこ帰って雪の字の馬鹿にこき使われるなんざご免ですもの」
「でも、待っているひとがいるよ」
「だれ?」
「家人の」

 あるじをなくした屋敷の庭をせっせと掃いていた老人の背中を思い浮かべて、桜は言った。真砂はしゃぶっていた楊枝を庭先へぺっと吐き捨てる。

「ああ、あの頭が禿げた。どーせもう心労でくたばってんじゃねぇのー?」
「確かめにいけば」
「行かない」

 にべもなく突っぱね、真砂は沈黙する。その横顔を桜がこそっとのぞきこもうとすると、おもむろに伸びた両手のひらが頬を引っ張った。

「大福の皮みたいですネー桜サン。なぁ俺大福食べたい、大福買ってきて」
「……じぶんで」

 買いに行け、という意味をこめて手をはたき返せば、真砂は肩を揺らして機嫌よさそうに笑った。ついついと懲りずに指で頬を突っつく。眉根を寄せて逃げようとすれば、それはよりひどく。

「和むなー。変わんないねぇ桜サンは」

 陽の光を通して淡い色になった眸を細め、男は呟く。軒下の草に止まっていた黒揚羽がふうわり離れて、庭先の紫陽花のほうへ飛んでいった。昨晩も雨が降った。紫陽花の葉に宿った雨露を蝶が吸う。それを同じ名前の少女が物珍しそうに見ている。

「……足」

 桜は青年の右足のあたりを手でさすった。そこにあるべき人肌の感触はなく、ただ固い、木の棒が無機質に横たわっている。

「なくなっちゃったの?」
「うん。なくなっちゃった」

 真砂は桜の言葉をそっくりそのまま繰り返し、懐のあたりからごそごそと一本の筆を取り出した。濡れ縁に腹ばいになって、柄のほうで土に絵を描き始める。それは切り立った崖だった。

「俺が落ちたのは崖と海の真ん中くらいの草むらでございました」

 真砂は崖のちょうど真ん中あたりにまるを書いた。

「とりあえず上にのぼる気力はもうなかったから、岩肌を伝って下におりたんだけど、そこで足を滑らせて気付いたら崖下に転がっている俺となんか妙な方向にねじくれている足。身動きもろくにとれないで、しばらくそこにいたね。打ち上げられた魚の死骸と岩にたまった雨水とで食いつないだんだけど、いつまでたってもひとは来ない船も来ない、そこで俺は決意をした」

 筆の柄が斜めの線を引く。

「右足をぶったぎる。これ以上ほっぽったら壊死が進んで、俺も死んじまう。もうほとんど千切れてたからねぇ、俺はひょいひょいと懐刀で右足をちょんぎって、その血で岩盤に橘真砂ここに在りと書いたあと、ふくらはぎのあたりのまだちょっと柔らかそうな肉を炙っていただきますしました。南方の黒船が現れたのは何日後だったかね? どうでもいいし覚えてないけど」

 むくりと起き上がると、真砂は左足で絵を消した。
 薄暗い濃茶の眸に冷笑を湛えてこちらに一瞥を送る。

「とまぁ、こんなかんじ。華々しい英雄譚でなくって失礼。がっかりした?」
「そうは思ってない」
「どうだか。ほら、もともと俺頭おかしかったからねぇ。いやはや、盗みに殺し姦通に人食、この世の悪事はおおかたやったんじゃねぇのー? 末は地獄ゆきかね」

 くつくつと喉を鳴らして冷ややかに嗤う。桜はその横顔をしばらく見つめてから、そっと青年の右足になったものをさすった。