三章、青嵐



 八、


 話を終えると、真砂は濡れ縁に大の字になってぐぅぐぅ眠り始めてしまった。花に水をやっていた桜は柄杓の先でこつんと真砂の額を叩いてみるが、柳眉を少しひそめるだけで目を覚ます気配はない。仕方なく巻き上げていた簾を下ろして、おなかに羽織をかけ、桜は柄杓をつっかけた手桶を持ち上げた。犬の足跡が裏庭のほうへ伸びていたので、そちらに向かう。紫陽花の群れ咲いている少し暗がりになった庭の隅で、少女はかがんで何かを真摯に見つめているようだった。犬のほうが先に桜に気付いて、尻尾を振って駆けてくる。それで我に返ったらしい、蝶がこちらへ顔を上げた。

「何を見てるの?」
「蟻じゃよ」

 節ばったところのないほの白い指先が足元のあたりを指差す。

「こやつらはどこから来てどこへ帰るのだろうと考えておった。ほら、こやつなど他の者たちの列から外れてしまっておる。きちんと家に戻れるのか心配でな」

 よそのほうを歩いている蟻を指でつついて戻しながら蝶が言う。桜が睫毛をはたりと瞬かせると、蝶はやんわり目尻を下げて苦笑した。

「などと蝶が言うとタマは、……ああタマというのは蝶の母君みたいな女人なのだがな、タマは姫さまはまたわけのわからぬことをと肩をすくめおる」
「蟻は考えたことなかった。でも、私も鳥の子を見て同じことを考えることがある」
 
 こたえると、蝶は少し目を丸くしてから、嬉しそうに相好を崩した。じゃあサクラサンと蝶は似たもの同士じゃな、と言って、桜の手を引いて地面に座り込む。その手が足元に落ちている葉っぱを拾い始めたので、桜もそれを手伝った。青々とした形のいい葉を見つけると、蝶はたいそう喜んだ。

「そういえば、あの変態はどうしておる?」
「へんた……」

 誰、と思ってから、ああ真砂のことかと得心する。

「眠ってるよ」
「ふぅむ、あやつはほんに、眠るか食うかばかりじゃのう」
「真砂は、ずっと蝶の護衛をしているの?」

 気になっていたことを尋ねると、蝶は緩やかに首を振った。

「ずっとではない。ほんの半年ほどじゃ」

 それでもあの破天荒なひとと半年一緒にやれているのなら、蝶は相当忍耐強いか、そのあたりの観念がひととちょっとずれているかのどちらかだろう。たぶん後者なんだろうな、と思いつつ、嫌な気はしなかった。出会い方のおかげかもしれないけれど、桜は自分を埠頭のほうまで案内してくれた蝶によい印象を持っている。

「まったくもってうっとおしいことこの上ないが、ひとりはだめじゃとタマがうるさくての。蝶の出歩きにはたいていくっついてきておる。腕も立つゆえな」
「であるき」
「うむ」
「どこか、ゆくの?」

 よくわからなかったので訊いてみると、蝶は少し困った風な顔つきになって首を傾けた。そうすると、雪片を思わせる白銀の髪がはらはらと肩に流れて落ちる。

「さぁてどこにゆくべきか。サクラサンには家族はおるかの?」
「ううん」

 ふるりと首を振ると、蝶はおや、といった風に眉をひそめる。人形である桜に血の繋がった肉親がいないのは当たり前のことで、それゆえ自然に口にしてしまったのだけども。でも、と考え考え桜は言葉を継ぐ。

「カゾクみたいに、とても、大事なひとならいる」
「ははーん、恋人じゃな!」
「コイビ、」
「ふふん、蝶には今見えたぞ、見えた見えた。サクラサンの恋人はずばり東の領主さまじゃろ? だから、船着場であんなに必死に見ておったのじゃ」
「ち」

 突如素っ頓狂な方向へ飛んだ会話に、桜はふるふると慌てて首を振った。

「ちがう、コイビトじゃない。そうじゃなくて、そうじゃなくてもっと、」

 そうじゃなくて、もっと。もっと、なんだっていうのだろう。
 肉親と呼べるほどに近しいわけではなく、かといって友人というにはあまりにも。根深い。かの少年をかの少年の名前以外で語るのは、桜にはひどく難しい。蝶が急に変なことを言い出すので血がのぼってきてしまい、もげるくらいぶんぶん首を振り続けていると、「わかったわかった恋人候補だったんじゃな」と蝶が全然わかってない訂正をした。むぅと眉根を寄せれば、小さな鈴が転がるような笑い声を立てて、蝶は桜の眉間のあたりを指でぐりぐりする。なんだか、本当に真砂みたいなひとだった。

「サクラサンは可愛いのー。蝶は、変態の友達は変態ばかりだと思っていたから、びっくりしてしまったぞ」

 両手を繋いで、戯れのように握り締める。真砂が姫、と呼びならわすひとの手のひらは白くて、柔らかくて、それからすべらかだった。

「実は蝶にも、大事な弟がおってな。馬鹿で泣き虫でいつまでたっても餓鬼んちょで、どうしようもない弟なのじゃが、やっぱり可愛い。だけど、あやつ、もう半年くらい前にいなくなってそれっきり行方知れずなのじゃ。護衛の者は死んで、あやつの衣は真っ赤に染まって川に浮かんでおった。たぶんあやつは死んでしまったのだと、みなが言う。蝶の兄上もな、諦めよと」

 握られた指先から伝わってきた微かな震えに、桜は顔を上げた。
 先とは打って変わって、蝶の表情はするりと感情の色が失せてどこか白蝋めいている。

「出歩きの理由。蝶は弟を探しておるのじゃ。変態は蝶が追い剥ぎに襲われかかっていたところを助けてくれての。以来、弟が見つかったら報酬をやるという約束で、蝶の用心棒をやっておる。サクラサンは変態の友達みたいだから、話した。でも、ぜんぶ蝶とサクラサンとのささめきごとじゃ」

 淡々と紡がれる言葉の裏に、切実な気迫のようなものを感じて、桜はうなずいた。すると蝶はほんの少し眸を和らげて、血の通った顔をした。

「あのあたりには弟の護衛をしていた者が流れ着いたと聞いたから行ってみたのじゃ。さして得るものはなかったが……確かめないよりはましかと思うてな」

 ああ、さっきから感じる微かな気迫のようなものはぜんぶ、決意のあらわれだったのだと気付く。そんな蝶の横顔を見て、桜の中にむくむくと別の気持ちがわきあがってきた。大事なひとがいて。だけど、離れ離れになってしまって、再会を願っている少女。それにたぶん、自分が重なった。重ねてしまった。

「蝶」

 繋いだ手をぎゅっと握り締め、桜は言った。

「私も手伝う。手伝いたい。……だめ?」





 大きな鍋に湯を沸かし、朝豆腐売りから買ってきた木綿豆腐を切ったものをぽんぽんと放り込む。壷に入れてしまってある赤味噌をひと匙溶かしてかき回し、ほのかに甘いよいにおいがくゆってきたところで味を見る。こくりと桜は神妙そうな顔つきでうなずいて、蓋を置いた。完成。と、小さな台に載った桜のすぐそばに小柄な影がぬっと顔を出す。おかっぱ頭に紫紺の眸。蝿を肩に乗せた彼女は。

「白藤」

 すでに慣れ親しんだ十人衆の少女の名前を呼んで、桜は微笑んだ。

「おはよう」
「……オハヨウ」
「どうしたの? おなか減った?」
「ヘッタ」

 こっくり、さながらからくり仕掛けの人形か何かみたいに少女は首を振る。表面上は無表情にじっと味噌汁を見ている白藤であるが、やがてぐぅとお腹が大きな音を立てた。どうやらずいぶん待たせてしまっているらしい。桜はいそいそと重ねていたお椀を取って味噌汁をよそい、少女にそれらを運んでもらうと、次に炊いておいた白飯がめいっぱい盛られた櫃を見据えて、腕まくりをする。んしょ、と持ち上げて、ふるふる震えながら居間のほうへ持って行く。さして大きくもない居間にはすでに『客人』たちが勢ぞろいで、自分用の箸と茶碗を片手に正座をしていた。左から、伊南(いな)。肩が広くて、手も大きな武人。その横にちょこんと座る小柄な影が白藤(しらふじ)。おかっぱに紫紺の眸の少女。紫色をした眸なので、半分しらら視の血を引いているらしい。その隣が嵯峨(さが)。細面ときゅっと吊り上った眦のせいでみんなから狐、と呼ばれている都察院の長官。最後が菊塵(きくじん)。丸い硝子をふたつくっつけた「めがね」をかけているひと。よく算盤を弾いている。まるで戦に赴く兵隊のように整然と横一列に並んだ面々は、桜がよろめきながら櫃を置いたのに気付くと、一斉に空の茶碗を差し出した。
 
「飯」
「メシ」
「米」
「銀舎利」

 ハイ、と若干辟易としながらうなずく。差し出された茶碗を左から順に受け取ってごはんをよそって返し、桜はお茶にお代わりにと奔走する。このとてもとても自己中な四人組は桜が休む暇なんてものをさっぱり考えてくれていないようだった。おまけにひどい大食らいで、十人分くらいはと思って用意した朝餉を瞬く間に平らげてしまう。桜がまだ日の上がる前からせっせと作っていたたまご焼きもきれいになくなった。

「おいムスメ。今朝の僕の味噌汁は豆腐が三切れしか入ってなかった」
「とうふ?」
「だが、嵯峨のは四切れだった。おかしいだろう、一切れぶん僕は損をした! こんな不条理な仕打ちがあるか! お前は僕が豆腐一切れぶん嵯峨に劣ると判じたわけかそうかそうなのだな嗚呼なんという仕打ち死んでしまいたい!」
 
 ごはんが終わるとすかさず算盤を取り出してきて珠を弾き、嘆き始めたのは菊塵である。ええと、と桜は戸惑い、嵯峨のほうを見た。狐顔の都察院長官はといえば、出仕に向けて髪を整えている最中で、菊塵の言い分などそ知らぬそぶりで「おい小娘。櫛をもってこい、今すぐにだ、私がひのふのみぃと数えるまでにだ」とまくし立てる。こちらがうなずくのを待たず、ひの、ふの、と数え始めてしまった男にこそりと息をつき、桜は仕方なく自分の櫛を嵯峨へと差し出してやる。

「ハイ」
「あと椿油」

 この男が髪をくしけずるのにやたらと時間をかけるのもいつものことである。鏡台に映る自分へと関心が移ってしまった都察院長官から視線を解くと、桜は次の用事を言いつけられる前にてきぱきと食べ終わった茶碗を片付けていく。

「豆腐一切れ……死にたい……」

 と畳に突っ伏すようにしてまだ恨めしそうに呟いている男には「ゴメンナサイ」と謝ってしまうことにして、袂から取り出した飴玉を渡す。包み紙を剥いて飴玉を口の中に放り込むと、菊塵は算盤をぱちぱちと弾いた。差し引き零。やっとこさ黙ってくれる。

「サクラ」

 やっとふたり静かになったと思って、片付けに戻ろうとすれば、今度は白藤が袖を引く。首を傾げた桜に、白藤は「ヒル」と呟いた。もう昼ごはんの心配をしているらしい。ううんと考え込んでから、桜は小さく顎を引くと、余っていたごはんと梅干を持ってきて握り飯を作る。みっつ大きいのを作って葉で包むと、それを少女に持たせてやった。感情のなかった紫紺の眸がきらきら光る。満足したらしい。

「桜」

 今度はなんだ。思わず桜が身構えてしまうと、すでに身支度を終えた伊南が苦笑気味にこちらを見ていた。散乱していた茶碗をたらいに入れるのを手伝って、たらいごと井戸のほうへ運んでくれる。眸をぱちぱちと瞬かせてから、桜はそれについていった。

「いつもごくろうさん。めし、お前のぶん余ってるか?」
「ちゃんと、最初によけておいたから」
「ならよかった」

 伊南は常は鋭い眼光を少し和らげる。懐をごそごそとあさると、伊南は「ほれ」と言って大きな饅頭を桜にくれた。手のひらひとつにおさまりきらないくらいの饅頭に桜は目を丸くして、わ、と呟く。

「おっきい」
「だろう。あとで食え」
「ありがとう」

 うれしくて、淡く笑みを綻ばせると、伊南は大きな手のひらでわしゃわしゃと犬にそうする風に桜の頭を撫ぜた。
 十人衆。彼らの朝の面倒を見るようになってもうずいぶんになる。もともと月詠邸の近くには、十人衆のお屋敷がいくつも取り巻くように置かれていた。妻のある者はそれなりに広い屋敷で不自由なく暮らしていたけれど、伊南、白藤、嵯峨、菊塵の四人は独り身のせいか、たいそう生活が悪かった。最初は、そう。風邪をもらって床に臥せり、餓死しかけた嵯峨のために水粥を作ったのがきっかけだった。放っておけば、男が死んでしまいそうな気配すらしたので、桜は毎日嵯峨のもとに足を運んで、本人曰く「まったくうまくない」飯を作った。そのうちひとが増えて、ひとりがふたりになり、ふたりが三人になり、今は四人になった。この三年の間に桜が覚えたのはひとつきり。包丁の使い方。ごはんの作り方。たったそれだけ。でもきっと、ひとりぼっちだったら寂しくて、もっと退屈だったから、これでいいのだとも思っている。
 やがてばたばたと慌しく屋敷を出て行った彼らを見送ると、桜は洗い終えた茶碗を片づけ始めた。


 近頃は梅雨時ゆえか、よく雨が降っていたけれど、今日は久しぶりの快晴のようだ。まっさらな初夏の青い空。午前をかけて屋敷の廊下を拭き終えた桜は、太陽が空の真ん中にのぼりかけたのを見て取ると、お端折を解いて、身支度をする。軒下で日向ぼっこしていた犬に留守番を頼んで、屋敷を出た。桜が買い物などで外に出ることはしょっちゅうなので、周りに怪しまれる風でもなく、厩のところでは稲じいがいつものように手を振って見送ってくれた。それになんとなく後ろめたさを覚えつつ、桜は衣川に架かっている太鼓橋のふもとへたどりつく。待ちびとのほうはまだ着いていないようだった。ひとびとの待ち合わせ場所になっているため、何かとせわしげな迷子石の端っこに腰をかけて、桜はほうと息をつき、衣川の水音を聞く。ひとが飛び込むことが多いため、屍川と不吉な名前で呼ばれることもあるこの川は、しかし夏の昼下がりにはきらきらと水面を輝かせていて、陰鬱さのようなものは感じられない。河原で赤い鞠をつく童女の、金魚の尾みたいに揺れるへこ帯を桜は目を細めて眺める。そのとき、不意に夏の彩り豊かだった視界が真っ暗に転じた。

「捕獲完了。ただちに降伏したまえ。さもなければ」
「……真砂」

 今度は何ごっこだ。呆れて、桜が手を外そうとすると、「――くすぐりの刑なりっ」視界が急に明るくなるのと同時に、無防備な両脇にさっと手を伸ばされた。思わず、ひゃう、と妙な声を上げてしまう。自分の上げた声に恥ずかしくなって背後を睨めあげると、おかしそうに笑い声を立てる男と少女の姿があった。

「蝶」
「いや、悪い。蝶は止めたのじゃよ。止めたのじゃ。だが」
「だーって桜サンたら、ぽけっとしたアホ面で座ってるんだもーん。そんなぽやぽやしてると、どこかの姫君みたいに追いはぎに襲われちゃいますよ」
「誰がじゃ。どこの姫君の話じゃ」
 
 ころころと腹を抱えて笑っていた少女は、真砂の言を聞くなり今度は目を吊り上げて憤慨し始める。くるくる変わる表情がまるで万華鏡みたいだと桜は思った。かつて、桜を指して、どうしてそんなにくるくる表情が変わるのだと、かの少年は苦笑混じりに言ったものだが、蝶に比べたら、桜の顔なんてほとんど変わってないに等しいんじゃないだろうか。

「おーい、サクラサン?」

 目の前で手を振られ、桜ははたと我に返った。見れば、翠の双眸が不思議そうな色合いを湛えて桜をのぞきこんでいる。近過ぎてとっさにうまく焦点が結べず、桜が眸をゆっくり瞬かせていると、「ほんにぼーっとしておるのじゃなぁ」と蝶は微笑み、桜の手を引いた。

「衣川の上流……皇祇がいなくなった場所へ行きたい。案内してくれるか?」
「うん」

 うなずき、桜は蝶の柔らかな手のひらを握り返す。