三章、青嵐
九、
衣川の源流は万葉山にある。市街ならばともかく、川の上流部ともなれば、山がちで道幅は狭くなり、行き交うひとも格段に減ってしまう。桜もこのあたりには伊南に連れられて一度訪れたことがあるくらいだ。その伊南とても、猪を狩りにやってきたくらいなのだから、おのずと具合が知れよう。夏の万葉山は草木が生い茂り、空気自体は涼しいものの、草いきれがむっとする。蝶はこの国の結構偉い姫で、弟は皇祇皇子というのだという。こんな場所を皇子様とやらが歩いたのだろうかと桜はいぶかしんだが、なんだか察した風の真砂に「あのね。高貴なおひとは俺たちみたいに歩いたりしねぇの」と鼻で笑われた。
「歩かない?」
「そ。桜サン、輿って知ってる?」
「知ってる」
街中を歩いていると、たまに牛車や輿の行列を見つけることがある。煌びやかな金銀細工をほどこされ、とりどりの絹布で飾られたソレ。下ろされた御簾の合間からは、いつだってきつい香の匂いがした。嗅覚が鋭い桜にとって、焚きすぎる香は毒のようなものだ。
「万葉山には蝶の母上の御陵があっての。皇祇はいつも月命日にはそこへ通っておったのじゃ。母上の好きだったかりんとうを携えて。馬鹿で生意気で、お世辞にも頭のよい子とは言えなかったが、まぁそういうところは優しい子での」
「つまりさ。裏を返して言えば、宮中のひとたちならみんなが知ってる話だったわけ。皇祇サマが月命日ごとに万葉山を登るのは」
真砂はそこで足を止めると、ぜーはーとさっきからひどく息を切らしている少女を振り返った。
「で、ダイジョウブなの? そこの高貴なお方は」
「問題ないに決まっておろう!」
とがなり立てつつも、蝶の膝はまるで生まれたての小鹿か何かみたいにがくがくと震えてしまっている。義足の真砂はもちろんのこと、非力な桜では自分より少し背の高い姫君を背負って山を登ることはできそうにない。なので、せめて蝶に合わせて歩調を落とし、前方に好き勝手伸びている草を手折りながら細い道を開く。北の糸鈴に向かう行商がここを通り道にしているため、道はある程度は均されているが、歩くのに不慣れな蝶にこの傾斜はきついにちがいない。
「……輿は、どれくらいの行列だったの?」
ふと思いついて、桜は尋ねた。いくら皇子とはいえ、この道では街中のような長い行列を組むわけにもいかないだろう。さっきの真砂の言い方だと、手勢が少ないところを誰かが狙ったみたいな雰囲気だったけれど。言葉の裏の真意を汲んで、真砂は軽く顎を引いた。
「だいたい二、三十くらいかね。皇子の世話係が少しと、あとは護衛。油断してたんかねぇ、戻ってきた奴はいなかったらしいよ。川からどんぶらこ流れてきたのは護衛頭ひとりだったみたいだけど、血はいっぱい残ってたみたいだしね。なんかあったのは間違いないんじゃねぇの?」
仮にも『皇子』の姉である蝶の前で、陰惨な表現を使うものだと思う。桜が微かに眉根を寄せると、「だって本当のことだもの」と真砂はしれっと言った。その肩越しにぷんと濃い水の匂いがくゆった。続いて岩間に響く微かな水音に気付き、桜は、あ、と声を上げる。
「川」
前を歩く真砂を追い越して、ぱたぱたと少し先の、道が開けて広くなっているあたりへ出る。足元から吹き寄せる清涼な風が桜の腫れた足首を撫ぜた。崖から水音のしたほうを見下ろすと、どうどうと水飛沫を上げて濁った泥水が流れている。おそらく昨晩夕立があったせいだろう。水嵩が高い。切り立った崖から見下ろす衣川はひどく猛っているように感じた。少し遅れて、真砂と、それから蝶が追いついてくる。せわしなく肩を上下させて胸のあたりを押さえていた蝶はあたりを見回して、ああ、と翠の眸を細めた。
「ここじゃ。もう少し上にゆくと母上の御陵がある。小休止を取っていたところを暴漢に襲われたのだと、兄上が言っておった。護衛頭……市松はここから落ちたのか。皇祇の衣も……」
さく、と青臭いにおいを発する草の根を踏みしだいて、桜の隣に蝶が並ぶ。そこから足元に広がる景色を認めて、蝶は軽く目を瞠った。若草色の袖から微かに見える水木の花みたいな白い手のひらがこぶしを作る。蝶の気持ちがなんとなしに察せられてしまって、桜はためらいがちにその横顔を仰いだ。
「高いな……」
「真砂も、こういうところから落ちたことあったけれど、だいじょうぶだったよ」
「そうじゃな」
もっとあれこれ言い募るかと思ったが、蝶はあっさり顎を引いて、視線を解いた。何か落ちていたりはせんのかな、と呟いて、樹の根や茂みのあたりを探し始める。入れ代わりに真砂がやってきて、崖下に視線をくれるなり、ああ、と呟いた。こりゃだめだね。――そう冷ややかに嘯く男の横顔を、桜は口を閉ざして見つめる。目を合わせると、真砂は不意に優しく微笑んで、己の唇に人差し指をあてがった。しー。声もなく囁き、きびすを返す。
*
結局さしたる収穫を得ることはできず、日が暮れる前に万葉山を下りた。意気消沈した風に肩を落とす蝶の口数は少ない。桜はもともとあまり喋るたちではないし、真砂は何かの気まぐれみたいにぱったり口をつぐんでしまったので、帰りは行きの賑やかさとは対照的に、皆ひたすらに黙々と足を動かすだけの寂しい道のりになった。衣川には皇祇の衣だけが流れてきたというから、途中で誰ぞやに助けられて、という可能性はまだ残っている。ただ、あの高さから落ちたのでは。
どうだろう、と桜は考えた。真砂のようにどこかに引っかかって一命を取り留めることだってありえる。だけど、そのあと、山道をまともに歩くことすらできない非力な皇子がひとりで生き延びることは果たして可能なのか。皇子はきっと、ひとに食べられる実と食べられない実の区別だってできない。
「そういえば、桜サンさぁ。雪の字くんには会えてないの? この三年」
「へ?」
まったく藪から棒に問われて、桜は目を瞬かせる。気付けば、山中から市街のほうへ入っており、道はずいぶんと均されて、広いものに変わっていた。ほこほこと甘い湯気を立てている団子屋の蒸篭へ濃茶の眸をやりながら、真砂は「へ?じゃなくって」と笑った。
「こないだ船着場で捨て犬みたいな目ぇしてじっと見てたじゃないデスカ。葛ヶ原の領主様がいなくなったあとの船。その様子だと、月詠サマには乗り換えなかったみたいだねぇ」
「べつにじっと見て、なんか」
「そう? 相変わらずぜーんぜん変わってないなぁって俺笑いをこらえるのに必死だったんだけど。文は? 出さなかったん? それくらいならできたっしょ」
文。気まぐれのように真砂が持ち出した言葉に、苦い記憶がじわじわ蘇ってきて、桜は目を伏せる。
「あ。出したんだ」
「だしてない」
「で、返って来なかったんだ」
「だしてないよ」
「ふふ、そう。かわいそうにねぇ」
しししと愉快そうに忍び笑って、真砂は杖を持っていないほうの手のひらで桜の頭をこれみよがしに撫ぜ回す。くしゃくしゃと髪をかき回す男の手の下で桜は胸にせりあがってきた苦いものを必死に飲み下さねばならなかった。でなければ、鼻奥がつんとして今にも泣いてしまいそう、だった。
真砂の言うとおり、文は一度、書いたのだ。
そして、二度と返ってくることはなかった。
あれはちょうど嵯峨のもとで読み書きを習って一年くらいが経った頃だろう。桜は葛ヶ原にいた頃にかなの読みはほとんど覚えていたから、あとはかなの書きや漢字の読み書きを習えばよかった。嵯峨は妻と一緒に出ていった娘の置いていった絵草紙を押入れの中に山と持っていて、それを読ませながら、桜にかなと漢字とを教えてくれた。桜が最初に覚えた漢字は「桜」。次は「嵯」「峨」であると嵯峨は思っているけれど、本当はせんせいの目を盗んで「雪」と「瀬」を覚えた。キヨは雪という字で、それは白いユキを表すのだという。瀬のほうは、川の流れをいう。彼の名前は、春の雪解けの季節に山の麓では川が流れる音がして、と彼が以前語った由来のとおりであった。あのごちゃっとした糸くずみたいな漢字のひとつひとつにそういった風景がついてくるというのは桜にとって大きな発見で、以来、勉強は嵯峨がちょっと驚くくらいはかどった。かなをぜんぶ書けるようになったとき、嵯峨から筆と墨、硯と文鎮、それから質のよい和紙をもらった。墨を丁寧にすって、下ろしたての筆をそこに浸し、瞼裏によぎった少年の名を書く。それは、戯れだった。本当に送るつもりなどこれっぽっちもなかった。なかったのに。言葉を考え考え、何度も書き直したりしながらようやく筆を置いたとき、急に惜しくなってしまったのだった。
桜は柚葉に申し訳なく思いつつ、もらった銀の簪の端っこに嵌めこまれていた小さな小さな真珠を取り去ると、それを銀貨に換えて、文と一緒に飛脚に渡した。文を届けるお金としては破格である。飛脚は頬を緩ませて、必ず請け負った、と胸を張った。――そして、二年。文は、返ってこない。行ったきり、桜のもとに戻ってくることはなかった。桜は飛脚が届け間違えたのだろうと思うことにした。そうでなければ、きっと道中どこかに紛れ込んでしまったのだろうと。もしもかの少年の手にきちんと届いていて、返ることがなかったのだとしたら。悲しくて、胸が潰れてしまう心地がしたからだ。
「――ってね、桜サン。そんな黙りこくって真剣に遠い目しないでくんない。きもちわるいから」
ひらひらと目の前で手を振られて、桜は軽く瞠目し、伏せがちだった睫毛を上げた。濃茶の眸を認めて、また目を伏せる。はー、と頭上で盛大にため息がつかれる音がした。
「姫、姫。お疲れんところ申し訳ないけど、文樹院に行きますぜ」
「は? 朱鷺の兄上のところへ、か?」
「そう、朱鷺の兄上のところへ、ね。ほーら桜サンも」
ぐいと腕を引っ張られるに至って、桜の未だおぼつかなかった意識は完全に現へ引き戻された。いったい何を言っているのだと、首を振る。
「私、家にもどらないと」
「いいじゃんいいじゃん、だいじょーぶ。どうせ月詠サマは今日も帰ってきやしねーよ。俺の愛する姫君の我侭に付き合ってくだすった褒美をしんぜよう。橘雪瀬に会いたいんでしょ?」
あっさり心中を言い当てられて目を瞠った桜に、男はにやりと策士がごとき笑みを返す。ちょうど大内裏のある方角を顎でしゃくって、真砂は囁いた。
「連れてってあげんよ、あすこへ。何せこの蝶姫の兄上のおわします『文樹林』と水無月会議の開かれている『東雲殿』はすぐそばですから? ふっふっふ、真砂さまに不可能はなーい!」
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