三章、青嵐



 十、


 嫌だ、いい、と何度も首を振ったのに、真砂と、すっかりその気になった蝶とに引きずられて、文樹林のある東の官衙群へ連れてこられてしまった。
 宮城の北には帝の寝所と女たちの住まう後宮がある。南は、外から来た使者を迎えたり、大きな儀式を執り行うためのもの。残る東と西に政務を司る十二の官衙が並ぶ。月詠の在所である通称『赤の殿』――丞相の執務所はこのうちの東にあるため、桜も何度かこのあたりに足を運んだことはあった。水無月会議の行われている東雲殿は、赤の殿からさらに北へ行った、もとは東雲皇子、のちの光明帝のごく私的な客館だ。東雲皇子はたいそう庭の美しいこの客館に季節ごとにあちこちの領主を招き、夜中語りあった。これが水無月会議の始まりであり、以降会議が形式化したあとも、東雲殿は使い続けられている。ちなみに東雲殿に隣接する文樹林というのは、国史の編纂を行っている官衙なのだとか。書物好きの兄上らしい、と蝶が笑いながら教えてくれた。
 少し歩いていると、濃い土のにおいがぷぅんとくゆる。昨晩のにわか雨の水たまりが礎石をあらわにした地面のそこかしこにできていた。昨年の春に起きた『地揺れ』のせいで宮城の建物のいくつかが倒壊し、蝶姫の住まう姫宮などは建て直しがされているものの、一部は未だ手付かずのまま放置されているらしい。か細いひめじょおんが揺れる礎石に、国の中心らしい活気はない。

 東雲殿まではいくつかの門をくぐらねばならなかったが、幸い蝶姫の顔馴染みであるという門衛たちは、苦笑をひとつこぼして、中へ通してくれる。桜のほうは、赤の殿の月詠から頼まれたものを持ってきたのです、と真砂が嘘吐き一族らしい口上で話をでっち上げてしまった。その月詠は、おそらく件の水無月会議のほうに出席しているにちがいない。まさかとは思うが、白藤や伊南といった十人衆の面々と鉢合わせてしまったらどうしようと桜は絶えずびくびくあたりを見回していたけれど、幸運にも赤の殿付近で彼らを見かけることはなかった。道幅が少し広くなり、視界にひと目で古びたものとわかる青灰色をした瓦葺屋根が飛び込んでくる。東雲殿は周囲をぐるりと築地塀で囲まれた上、表には門衛らしき男たちが数人立って、中を守っているようだった。建物の内部までを見通すことはできなかったけれど、微かにひとの話し声の気配がする。ああ、ひとがいるのだ、と思うと、急に真砂の言っていた言が現実味を増した。ひとがいる。その中に、雪瀬がいる。あの、少年が。暑さにやられたわけでもなかろうに、桜は眩暈でも起こしそうな心地がした。

「さて、と。あとはここで葛ヶ原の領主サマがいらっしゃるのを待つだけやね。ふふん、楽しい展開になってきたじゃない、桜サン」

 中が見えんのう、と爪先立ちする蝶姫と真砂を門衛たちが怪訝そうな顔で見ている。慌ててふたりの袖を引いて門から離れながら、桜はこそりと重たい息をついた。想像して、しまう。こんなところで待ち伏せをする夜伽のオンナを噂好きの女官たちはどう思うだろうか。水無月会議に参加している領主たちは。雪瀬は。やめよう、と思った。迷惑になる。月詠の屋敷に住んでいる夜伽が別の男を訪ねてやってきたら、ひどい噂になる。そういうのは、だめだ。考えて、桜はゆるゆると足元に目を落とす。……そうではない。そんなキレイな理屈を並べ立ててみて、桜はただ、雪瀬と顔を合わすのが恐ろしいだけだった。

「かえる」

 搾り出すようにそれだけを言って、桜はくるりときびすを返した。
「サクラサン?」と蝶が困惑を滲ませた声を背中に投げる。

「ちょお、待ちおれ。何故? どうして帰ってしまうのじゃ」
「……あいたく、ない」
「だから、それを何故と訊いておる」

 逃げようとしていた手首をぱしりとつかみ取られ、萌えいづる新緑にも似た、深い翠の眸にまっすぐにのぞきこまれる。耐え切れなくなって、桜は目を伏せてしまった。だって。だって。だって。

「雪瀬は、知ってる」

 あの、心のやさしい少年のことなら。
 さくら、と自分の名前を呼ぶ声や、そのときの微かな拍子のとり方の癖、苦笑気味の微笑い方や、最後に握った手のひらの温度もぜんぶ。桜の身体は覚えていて、昨日のことのように思い出すことができる。

「だけど、葛ヶ原のりょうしゅさま、は知らない」

 だから、と桜は弱く喘いだ。

「だから、怖いの……」

 考えることがある。普段はほとんど都にまで伝わってくることのない、東の果ての領主様の名前を耳にするたび。あるいは、夜ごとかの少年に想いを馳せるたび。彼はとっくに桜のことなど忘れて、桜の知らない領主様になっているのではないかと。面を合わせても、もう桜の知っている顔ではわらってくれないかもしれない。昔みたいには、戻れないかもしれない。だって、文を、返してはくれなかった。きっとあの文は、本当は雪瀬のもとに届いていて、だけど、あのひとは返事を書かなかったのだ。思うと、胸が潰れて、桜は息もできなくなる。

「――んあ?」

 蝶との間に流れた重苦しい沈黙を破ったのは、真砂の間の抜けた一声であった。ぎくりと桜は心臓を跳ね上げさせる。首のあたりを緊張で強張らせ、ぎこちない動きで東雲殿のほうを仰ぐ。しかし門は相変わらず閉ざされており、真砂の視線も別のところにあった。
 初老の、男だ。絹の光沢が艶やかな紫の頭巾で耳までを覆い隠し、文官らしい雅な三重襷紋の直衣越しにもなおわかる突き出た腹を揺らしながら、東雲殿とは別の方角へ歩いていく。身につけている衣服から高位の公家ではないかと思った。直衣姿は公家が好むものであったし、高位の公家でないと直衣に紋を入れることはできない。こちらには気付かぬ様子で遠のいていく男の背をなんとはなしに眺めながら、見覚え、ないな、と桜は思う。月詠はごく稀に屋敷に客人を招くことがあったけれど、その中に頭巾姿の公家はいなかったように思う。そのとき、やにわに右から着物裾を巻き上げる突風が吹いて、押さえるのがわずかに遅れた男の頭巾をもめくりあげた。あらわになった男の容貌を目にして、桜は微かに息をのむ。あるべきものが、――左耳が、男にはなかったのだった。残されたもう片方の耳が形よく突き出ているだけに、それはどこかちぐはぐな印象を桜に与えた。

「ああ、やっぱり玉津卿じゃんか」

 男が完全に視界からいなくなったのを見届けて、真砂が呟いた。

「タマツキョウ?」
「うん。ご存知でない? この国の中務卿ですよ、桜サン。ついでにいうと、今の皇太子四季皇子の妃はあのヒトの愛娘のお珠ちゃんで、つまりあのヒトは皇太子の外祖父にあたる。しっかし、どこ行くんかねアレ。中務省は西じゃね?」

 真砂は眉間に縦皺を寄せて珍しく黙考するそぶりをしていたが、寸刻もたたぬうちにぽんと手を打って、玉津卿の去ったほうへやっていた視線を解いた。

「俺、いち抜―けたっ。あとは感動の再会に持ち込むなり、うじうじとそこで駄々こねてるなりテキトーにやってくださいな桜サン。蝶姫、あとでお迎えに上がるから、文樹林へ先に行ってていただける?」
「それは構わぬが。おぬしはどこへゆく」
「秘密」

 にやりと気ままな野良猫のように眦を細めて、真砂は軽やかに身を翻す。義足をものともしない俊敏さだった。玉津卿の向かって行った方角へ瞬く間にいなくなった男を蝶は眉をひそめて見やり、「いったい何だというのじゃ」と桜のほうへ問いかけるような視線を送る。桜はふるりと首を振った。腑に落ちないのは桜も同じで、あのよくわからないひとの頭の中身が桜などに読み取れるわけがない。

「蝶は、ブンジュリンへ行って。私、真砂を見てくる」
「だが、しかしな。もうすぐ水無月会議は終わってしまうぞ?」
「それまでには戻ってくるようにする。だから」
「桜」

 白銀の睫毛がふわりと揺れる。
 なまえ、と思った。雪瀬が自分の名前を呼ぶとき、胸がじわじわ温かいもので満たされて、言葉にはきっと不思議な力があるんじゃないかと思ったものだが、蝶のそれはまた別種の力を持っているようだった。引きずられて言葉を切った桜に、蝶は翠の眸を細めて微笑んだ。

「あぶのう真似をしてはならぬぞ。約束じゃ」
「う、ん」
「そうすると、蝶は文樹林に行っておればよいのだな?」

 急に物分りのよくなった姫君に内心首を傾げつつも、こくんと桜はうなずく。機を失い、ずっと握っていた桜の手首をほどくと、「また明日、じゃな!」と蝶はひらりと手を振った。