三章、青嵐



 十一、


 地面がやわい。昨晩降った雨のせいで緩くなった地表のそこかしこにはまだ小さな水たまりが居残っていて、足首に触れる夏草も心なしか湿っている。宮城の褪せた瓦屋根越しに広がる空は、鄙びた金。こういう色をした空の翌朝はまた、車軸をくだすような雨がしこたま降る。夕暮れの翳りを帯び始めた前方に、真砂のひょろ長い背中を見つけ、桜は足を緩める。以前であったのならともかく、今の真砂は義足に杖という出で立ちで、桜が本気になって走れば、すぐに追いつくことができた。

「真砂」

 築地塀に軽く背を預けるようにして、男は角の向こうをうかがっている。自然声をひそめてしまいながら袖布を引くと、真砂はおや、という風に器用に片眉だけを上げて、こちらに視線だけを寄越した。

「水無月会議はもうすぐ終わっちまいますよ、桜サン。いいのー、俺なんか追ってきて?」
「……いい、雪瀬のことはもう」
「ああ、尻尾まいて逃げてきたんだもんね。そういえば」

 毒をたっぷり含んだ言い方をして、真砂はくつりと忍び笑った。
 『逃げてきた』。戯言めいた真砂の指摘は、だけど的確に桜の胸のうちをついていて、一度は平静を保ったはずの心をぐらぐらと揺さぶる。わかってる、あと少しで雪瀬と再会できたかもしれないのに、口実をつけて逃げた桜は弱虫の臆病者だ。わかって、いるよ。桜はぎゅうっと胸のあたりを押さえると、溢れ出しそうになる感情を押し込めて、伏せがちだった眸を上げた。真砂の視線の先には、大儀そうに指貫を引き上げて門をくぐるさっきの男の姿がある。

「……あのひと、誰?」
「玉津卿。この国の中務卿、ってさっき説明したっしょ?」
「片耳が、なかった」

 風でめくりあげられた頭巾の下にあったものを思い出し、桜は呟く。よく見てんじゃない、と珍しく感心するような口ぶりで言って、真砂は薄い苦笑を口元に載せた。それは彼にしては珍しい、混じり気のない苦笑のように思えた。

「玉津卿の御耳はねぇ、不幸にも切り落とされてしまったんですよ。かつて、卿が戯れに踏み躙ったひとりの少年によってね。以来、卿は片時も『彼』を忘れちゃいない。ひとの目を避け、終始耳を覆い隠すあの頭巾がそのショウコ」
「……かわいそう」

 自分の耳たぶのあたりを触ってぽつんと息をこぼす。赤の他人に過ぎない玉津卿に対して特別同情の念を抱いたわけではなかったが、生きながら耳を切り落とされるというのはさぞや恐ろしかったにちがいない。桜もかつて、月詠に無理やり小指を折られたことがあったけれど、視界が真っ白になるくらい痛くて、幼子みたいに雪瀬の名前を呼んで泣きじゃくった。桜の指は元通りくっついたが、卿の耳はもう戻ってくることがないのだ。なんとなく悄然となって目を伏せると、しかし真砂はこちらへ温度のない視線を寄越しただけで、それ以上何かを言い募ることはなかった。

「あのひとを、真砂は知っているの?」
「まーね」

 玉津卿が入っていった門に、東雲殿のような門衛はいなかった。よく見れば、ぐるりと四方に張り巡らされた築地塀はところどころ崩れ、瓦の裏には蜘蛛の巣が張っていて、どこかくたびれた趣を漂わせている。桔梗殿っていうんよ、と真砂が耳打ちした。

「昔、大罪人が渡廊を真っ赤な血で染めたとかで、今は使われてない。そんなとこにこそこそと人目を忍んで入っていくっていうのはなかなかきな臭いじゃーないですか」

 そうなんだろうか。いまひとつぴんと来なくて、桜が首を傾げると、「だって桜サン」と真砂が少し呆れた風な顔で言葉を継ぐ。

「皇祇皇子がいなくなっていちばん得をしたのは、あのひとだぜ。ここらじゃみんな噂してんよ。暴漢を放ったのはあいつじゃないかってさ」
「得を、する」
「去年の今頃、玉津卿に反対する一派が皇祇皇子を担ぎ上げようってする動きがあったんよ。そしたら、先手を打たれるように皇祇皇子がお出かけ中に姿を消してしまった。変でしょ?」

 だけど、もしもそうだというなら、皇祇は運悪く暴漢に襲われたというのではなくなる。桜は眉根を寄せ、注意深く言葉を選びながら口を開いた。

「……皇祇オウジは殺されたの?」
「さぁね。かもしれない」

 曖昧な答え方ではぐらかし、それから真砂はふと気まぐれのように続けた。

「ま。川に落ちてりゃもう死んでんだろうね」

 そんな、と口をついて出そうになった言葉を飲み込む。自然険しくなった桜の眉間のあたりをぐりぐりともんで、真砂はおかしそうに嗤う。

「だーって、桜サン? いくら鳥頭のあなたでもわかるっしょ。あの高さの崖から落ちて平気な人間がいる? たとえば万に一つ、途中で引っかかって一命を取り留めたとして? 皇祇皇子にゃ、その幸運を奇蹟に変えるだけの頭も、身体もねーよ。お馬鹿で、ひよわな皇子さまにゃあね」
「なら、どうして」

 どうして、蝶に希望を持たせるようなことをするのだ。
 無言の問いを、肩をすくめて受け流し、真砂は門のほうへ視線を投げた。

「文樹林、ってどういう場所かご存知?」
「史書を編纂する場所だって、蝶が言ってた」
「そう。国史を編纂する、閑古鳥が鳴いてる部署。蝶の兄上の朱鷺皇子ってのはさ、かつてはこの国の皇太子だったワケ。それが三年前、南海の遠征に向けられ、なんとか帰還を果たすも、身体の不調を理由に廃嫡。文樹林に追いやられた。ちなみにその前年には第三皇子が流行り病でなくなってる。この三年間だってさ、ばったばたと皇子がなくなって、喪が明けた日はないってくらい。蝶はねぇ、桜サン。不安で心が押し潰されそうなんよ、ほんとは。だから、手を貸してあげてんの。俺はね。もうだめだってわかってるのに、必死こいて俺みたいな嘘吐きにすがってる蝶は、痛痛しくて、悲惨で、可愛いよねえ」

 いっそ悲痛そうな表情でそう言うのだったら、桜は真砂の言葉を信じただろう。だけど、男はそんな悲壮さは微塵も感じさせない、心底愉快そうな表情で話すのだった。沈黙したまま見上げる桜の髪房を一筋すくい上げると、真砂はそれを戯れに引き寄せて微笑んだ。

「いとおしいってね、憎らしいっていうのと同じなんよ。ま、お子様の桜サンはまだわかんないだろうけどさ」

 茶化すように言うものだから、桜は憮然としてしまう。唇を噛んで、目をそらしたら負けだとでもいうように男を見つめ続けていると、真砂はふと別のことに気を取られた様子で手を離した。はらりと黒髪が落ちる。真砂の視線を追うと、頭を剃髪にした男がもうひとり門をくぐっているのが目に入る。四角い箱のようなものを肩に担いだ小姓らしき少年も男に続いた。桜は一瞬探るような視線を真砂と交わしあう。それからふたりで築地塀に沿って忍び足で歩き、門柱からそぉっと顔を出した。開けた視界には、桔梗殿と呼ばれる――寝殿が見えたが、肝心の男たちの姿はない。見張りがいないことを確認して、門をくぐる。先年の地揺れのせいか、寝殿のいくつかの瓦は落ち、張り出した廂は破れていたりする。うらぶれた外観に反してきちんと締め切られた蔀戸の内側から、微かなひとの声がして、桜は足を止めた。
 いったい何の話をしているのだろう。いいのかな、と思いつつも自然聞き耳を立ててしまう。「……オウジ…」「シキ、皇子が……」という言葉がこもった会話の中からかろうじて聞き取れた。と、不意に隣で同様に耳を澄ませていた真砂が何かに弾かれたように顔を上げる。杖がしなる鞭のように動く。腕を強く引かれ、抵抗するような間もなく気付けば桜は廂の下に真砂に抱き取られて押し込められていた。身じろぎをしようとすれば、しー、と耳元で囁かれ、口を手で覆われる。桜を抱えたまま、真砂は廂のさらに奥のほうへと動かない片足を這いずって移動する。ぎし、と頭上で足音がした。ぎし。ぎし、ぎし。一箇所で行ったり来たりをする足音は、廂を通過するという風ではなく、何かを探しているような気配がした。――もしかして、わたしたちを? よぎった考えに、背筋が冷たくなる。そのとき、真砂がおもむろに袖を振った。瞬間、鍔鳴りの高く澄んだ音が頭上で打ち鳴る。板敷きの破れかけた隙間からのびた刃は――前方の、バッタを一刀両断にして、鞘に戻った。はずみにバッタの透明な翅が散る。それを認めたのか、上のほうから軽い舌打ちとともに袴の衣擦れがして、関節を鳴らす小気味よい音を立てながら足音が遠のいていく。はー、とどちらともなく息が漏れた。桜はそれから、自分たちの身代わりになったかわいそうなバッタのほうへ目をやる。真砂のほうはというと、自分の投げ放ったバッタには構う風でもなく廂の上へまた耳を傾けた。

「…を、シキ皇子に……」

 四季皇子、という言葉をもう一度拾う。やっぱり、何か四季皇子に関わる密談をしているのは確からしい。眉根を寄せて黙考していると、ひとの出入りする引き戸の音がして、玉津卿と先ほど刀をつき立ててきた卿の護衛らしき男、あとからやってきた剃髪の男、それに箱を担いだ少年が少しずつ間を置いて何事もなかったような顔をして階を下り、外へ出て行く。ひとの気配が完全に途絶えるのを待ってから、桜と真砂は廂下からもぞもぞ身体を這い出させた。喉のあたりに砂埃が入り込んでしまい、けほ、と少しむせる。

「四季皇子、って言ってたね」
「言ってた? さすがお犬サマ。耳のよさがちがいますなぁ」
「……何してたんだろう」
「さぁね。ま、こんな人目を忍んで落ち合ってるんだからろくなことじゃねぇんじゃないの。一緒にいたのはアレ、御殿医だしね」
「ゴテンイ……お医者さん?」
「おうともよ。頭つるつるだったっしょ。御殿医のしるし、アレ」

 説明しながら、真砂は杖で身体を支えるようにして階を一段一段のぼっていく。廂にたどりつくと、おもむろに腰を落として板敷きに顔をくっつけ、くんくんと犬みたいににおいを嗅ぎ始めた。桜は胡乱げな顔をして、這い蹲る青年のかがめられた背中を見やる。

「何、してるの?」
「犬のマネー」
「マネすると、何かわかるの?」
「わんわん」
「真砂」
「わんわん」
「……」

 桜はほとと息をついて、視線を解く。この青年はときどきよくわからないことをおっ始めるが、そういうときは深く考えずにほっといたほうがいいと桜はこれまでの経験から学び始めていた。なので真砂を置いて、建物の裏手に回りこもうとする。と、未だ締め切られた艶光りする蔀戸がふと目に止まった。何かそこに、うまく言葉にはできないのだけど、微かな違和感のようなものを覚えて、桜は眸を瞬かせる。とん、と背中に鋭い切っ先が突きつけられたのを知覚したのは刹那だった。

「動くな」

 腹の底から搾り出すような低い声が桜を制止する。眸を眇めてあたりを見回せば、いつの間にやらさっきの護衛と同じような黒装束に身を包んだ男たちに四方を囲まれていた。

「おぬしらには気付いていた。こそこそと卿のあとをつけ回して何が狙いだ?」
「……真砂」
「わん」

 返ってきた返事、というか鳴き声に桜は肩を落としそうになる。
 こういう胡散臭い口上が必要とされる局面こそ、嘘吐き一族の出番であるはずなのに。犬はもういいから、という祈りをこめて男の袖端を引くと、ふと男の大きな手のひらが桜の手をぎゅっと包み込んできた。「だいじょーぶですよ、桜サン」と深い安堵を与えるように真砂は桜の耳元へ囁く。

「死ぬときは一緒だから」

 ……だめだ、と思った。このひとは頼りにならない。全然頼りにならない。きちんと考えてわんわん鳴いたりしているのかな、と儚い期待を抱いた桜が馬鹿だった。桜はぺちんと真砂の手の甲を叩き返すと、もはや邪魔なだけの男のひょろ長い身体をぞんざいに後ろに追いやって、研ぎ澄まされた刀の切っ先を向ける黒装束を見据えた。こうなったら、隙を突いて逃げ出すしかない。

「じ、つは、」

 こくん、と唾を飲み込み、桜は口を開く。桜とて、ただぼんやりと怠惰に毎日を過ごしてきたわけではない。この三年。嘘のひとつやふたつ、つき方くらい覚えたのだ。磨きに磨き、以前に比べ格段に飛躍した三年の集大成を今――

「わたしたちは、えと、ええと。迷子に、」
「ほう。そなたらは道に迷うと、卿のあとをつけたり、廂の下に隠れたりするのか」

 ぜんぶ見られていたらしい。思わず言葉を詰まらせてしまうと、黒装束は感情の薄い眸を眇めて刀の刃を桜の頬に這わせた。すっとなぞられれば、微細な痛みが走る。

「目的を言え。どこの子飼いの者だ?」
「こがい」
「お前の主人は誰だと聞いておる」

 ここで月詠、と答えたらどうなるのだろうか。
 事態は好転するのか、あるいは悪転するのか。桜は沈思する。そのとき、頬にあてがった白刃の向こうで男が別のことに気付いた風に眉を寄せた。

「緋色……珍しい色だな」
「サカキ。緋色の目の夜伽なら黒衣の丞相のところにおりますぜ」
「丞相?」

 桜が考えていた以上に、「丞相」の言葉は男たちに動揺をもたらしたようだ。険しい顔で黒装束が詰問する。

「お前は、丞相家の者か」
「……ちがう」
「そんなわけがねぇ! 緋色の眸は丞相家の夜伽だ!」
「丞相なんかしらない」
「っの餓鬼!」

 ひゅ、と一度頬を離れた刀が振り下ろされる。桜はとっさ目を瞑ったが、刹那、訪れる衝撃の代わりに男ががっと呻いた。そろそろと目を開ける。黒装束の男は太腿から血を吹きこぼし、湿った地面に大きな音を立てて倒れた。見れば、桜のちょうど脇のあたりから先端に刃のついた杖が伸びている。

「まぁ、杖が仕込みなのは王道ってヤツ」

 一度かしゃんと鳴らして杖を引っ込めると、真砂は前へ踏み出した。太腿を押さえて背を仰け反らせる男へ冷ややかな一瞥を送り、少し怯んだ風の黒装束たちへはにっこり肩をすくめる。

「あーあー、わたくしめの可愛いお犬サマに傷をつけてくれちゃって、いったいどうしてくれよう? この超絶天才貴公子真砂様にお前らみたいな一山いくらのみじんこが勝てるとお思いで?」

 すっと青暗い光を帯びた筆先が宙に線を描く。それと、

「動かないでください」

 怜悧な声が割って入るのとは同時だった。
 筆を構えた真砂が眉をひそめる。

「ユキ」

 黒装束のひとりが呟いたその単語を桜はとっさに雪、と頭の中で置き換えた。 だが、目の前に現れた、大柄な男たちの中ではいくぶん線の細い人影は、それが間違っていたことを暗に告げる。柔らかそうな薄茶の髪に、灰色の眸。そのかんばせには確かに見覚えがあったが、彼は少年と言うよりはすでに青年と言ったほうが近く、また、桜の記憶にある面影よりも幾分やつれて見えた。男は桜と、眸を眇めた真砂とを無感動に見つめると、腰に佩いた刀の柄に手をかけた。桜は小さく息を呑み、その男の――蕪木透一の顔を仰ぐ。