三章、青嵐



 十二、


 五つ、鐘が鳴った。水無月会議の終いを告げる半鐘である。
 老帝御付きの女官が結びの意をあらわし、まず御簾越しにおわした老帝が女官に付き添われて退席する。姿こそ見えないが、重々しげな衣擦れの音はいやに緩慢で、するする、というよりは、ずるずる、と床を這うような足取りであった。呼気と一緒に漏れる吃音まじりの独語を、一同は口を閉ざして聞かぬふりをする。三年という月日は、枯れた老体を確実に蝕んでいた。次代を継ぐべき日嗣の皇子――四季皇子は、ご気分が優れないとかで今日は現れていない。
 老帝が退出したのを見届けると、黒衣の丞相が花ひらく睡蓮を思わせる仕草で脇に挿していた扇をぱちりと開く。それを合図に、集まっていた公家や各地の領主たちも腰を上げた。蔀戸がきっちり閉められた室内は湿潤な、うだるような熱気に包まれている。けだるい息を吐いて、百川漱は膝を崩した。廂のあたりでは小姓らしき少年が半蔀を上げており、廂との間にかけられた御簾をふわりとはためかせて、涼しげな風が入り込んできた。

「漱」

 女官たちが目に留めたらだらしないと眉をひそめられるであろう格好で、漱が緩めた衿の中に風を送っていると、背後から外気に似つかぬ玲瓏たる声音がかかる。黒衣の丞相は、夏に差しかかろう時分であるにもかかわらず、相変わらず抜けるような白磁の肌に漆黒の衣を纏っていた。

「あのさ、つっきー。ちょっと聞きたいんだけどね。その黒衣って夏と冬とでちゃんとちがうの?」

 熱気にあてられている我が身との落差に虚しくなってきて、呆れ半分に尋ねれば、この白皙の美丈夫は別にどうということもない様子で「決まっているだろう」と答えた。決まっていたらしい。

「どうだ。三年ぶりの都は」

 ひとのだいぶすいてきた室内に関心の薄い一瞥を渡しながら、月詠は暑さなど微塵も感じていなそうな顔に扇で風を送る。そうですねぇ、と言葉を選んで、漱は答えた。

「ふっつーに大忙しでしたよ。橘のお家は三年手入れがなかったせいで築地塀が破れかけててさぁ。弟くんに先駆けて到着したわたしが、雨漏りやら破れた床板やらをぜんぶ直したの。感慨なんて浸る暇もなかったね」
「それは災難だったな」
「そんな涼しげな顔で言われてもねぇ?」
「都にはいつ入った?」
「ひと月前かな。朱鷺皇子には挨拶を済ませてきたよ。玉津様にもね」

 玉津卿の耳を執拗に覆い隠した頭巾を思い出し、漱は苦笑する。
 意味深に出してみせた朱鷺殿下や玉津卿の名にもさしたる興味を示さず、月詠は「……橘柚葉の姿が見えないな」と別のことを言った。

「葛ヶ原のほうへお残りになったんです。こちらに来たのは、わたしと雪瀬さまと無名くらいですかね、あなたの知ってるのだと。あとは、あーちゃ……えーと、百川紫陽花」
「ああ、式ノ家の?」
「今は退いて、家は妹君が継いでます。少し前から葛ヶ原のほうにいるんだ」
「ほう?」
 
 月詠は互い違いの双眸にはじめて好奇らしき色を浮かべて、微笑んだ。

「そういえば、橘の君も御年十九になられたのだったな。先代の領主が家督を継いだのと同じ歳。未だそういった噂は聞かんが、そろそろ妻を娶る気ぶりはないのかな? 望むようなら、都の姫君を幾人見繕ってやってもよいが」
「……らしくないこと言うのやめてくださいよ。気味が悪い。第一、そろそろも何も、あなたが言うんじゃさっぱり説得力ありませんったら」
「ふふ。俺は男やもめゆえな」

 艶やかな黒衣へ目を落としながら喉を鳴らして嗤い、月詠は書士官の残していった筆を片付けていた小姓の少年をおもむろに呼び止めた。少年に持たせた硯に筆を浸して、淡藤色をした懐紙にさらさらと何がしかを書きつける。薄い懐紙をもう一枚取って、まだ乾ききらぬ墨を吸い取らせるようにすると、少年のほうには盆に残されていた水菓子をくれてやって、退出を促した。手に乗せられた杏の実を目を輝かせて見つめ、少年は浮き足立って去っていく。

「あなたはどうやら女官だけでなくお小姓さんにも人気みたいですね」
「菓子をやれば子供は喜ぶからな。――漱」
 
 月詠は懐紙から吸い取り紙をはがすと、まだ墨の匂いのするそれを漱のほうへと差し出した。

「これを葛ヶ原の領主殿に。ああ、何なら紫陽花殿やお前も共に構わんぞ」
「……あなたってひとは」

 懐紙をひと目見るや、瞬時に直感めいた勘のよさで男の意図が読み取れてしまう。漱は顔を歪めて、「そういうのをさ、悪趣味っていうんですよ」と辟易とした声音で言った。さぁて、と月詠は空惚けると、それはもう愉快げに苦笑をさざめかせて黒衣を翻してしまう。漱は今一度己の手に握られた懐紙へと目を落とし、ほとりと息をこぼした。あたりを見回せば、ほどなく、談笑する公家たちの色とりどりの直衣の影に隠れるようにして、御簾内に紛れ込んできたらしい汚い猫をひょいと抱き上げている浅葱の袖を見つける。呆れとも苦笑ともつかぬ息を吐いて、「雪瀬さま」と男の名を呼ぶ。





 月が照っている。すっかり暗くなってしまった夜道を歩きながら、桜は明かりをもらうのを忘れてきてしまった自分を悔いた。いくら都の中といえど、夜になってしまえば小路は暗く、足元を照らす光源がなければ不便なことこの上ない。道端では、白粉のにおいをぷんとまとわせた夜鷹の女が春を売るのと一緒に、蜜蝋もいくらか売っていたが、ほんの少しの道のりのためにわざわざ明かりを買うのももったいない気がして、結局早足で歩いている。月が皓々と明るいのが救いといえばそうだった。
 
 ――じゃあ、ユキ。

 目を伏せると、自分の前に現れた青年の姿が鮮明に蘇る。うなじのあたりでくくった色素の薄い髪も、まあるい眸も変わっていなかったけれど、首筋に残った生々しい傷痕やこけた頬には三年の生活を滲ませる荒んだ何かがあった。そして、冬の虚空にも似た灰色の双眸。異質な気色を宿したそれに射すくめられると、緩みかけた心が凍りつくような心地がした。

『ゆき、ひと?』

 顔かたちは蕪木透一そのものであるのに、中身は別のひとに入れ替わってしまったみたいだ。にわかに不安に駆られながら、それでもかつての柔らかな微笑が返ってくることを願って、桜はおずおずと青年の名前を口にした。けれど、果たして返事の代わりに与えられたのは『彼らが卿のあとをつけていた者たちですか』という冷めた声音だけであって。透一の手のひらは相変わらず用心深そうに刀の柄に乗せられている。桜は迷子になったみたいな気持ちになって、ただ透一を見上げた。

『ここで斬ってしまえば、血痕が残る。後始末に困りましょう』
『では、昏倒させたのち別の場所に移すか?』
『ええ』
 
 首肯しながら、向けられた視線はまるで桜たちを選別するかのようだ。男たちに脇を固められ、腕を取られる。この数では隙をつくのも難しい。もうだめなんじゃないかという諦念が胸をよぎり、桜はぎゅっと唇を噛んだ。

『桜さま!』

 突如として甲高い女の声が割って入ったのはそのときだ。
 紫を基調とした落ち着いた藤の襲に身を包んだ女官らしき女性は、『ああ、おふたりともこんなところにいらっしゃった』とほっとしたように息をつき、『姫さまがお呼びですよ』とのたまう。いかにも親しげな様子で腕を取られるが、女官の顔に覚えはない。はたはたと目を瞬かせる桜の肩を抱くようにして男たちから引っぺがし、『まったくこんな奥深くまで迷い込んでしまわれて』と女官はおっとり首をすくめた。

『真砂さまも真砂さまです。どうせ、卿に道をお聞きしたくて、けれど、お声をかけることもままならず、困り果てていたのでしょう。何せ玉津卿と申せば、国を見回しても知らぬ者はいない高名な御方。今の日嗣の皇子の祖父上でもあらせられる。わたくしどものような卑しき者が気後れするのも無理からぬこと』

 ぺらぺらと水に立てた板を流す勢いで喋って話をまとめてしまうと、女官は右腕に桜を、左腕に真砂をひっつかみ、『ですので』と一同を見渡してにっこり微笑んだ。

『わたくしどもはこれにて失礼させていただきます。ご無礼致しました』

 洗練された身のこなしで礼をし、女官は桜と真砂を引きずってどんどんと歩いていく。彼女が縞という蝶姫つきの女官で、これが他ならぬ蝶の差し金であると知ったのはあとになってからのことだ。

 東雲殿に戻ってくる頃にはすでに日は落ちて、水無月会議も散会したあとだった。微かな落胆と安堵の両方を覚えつつ、桜はひとまず真砂たちと別れ、遅い帰路につくことにした。いくら月詠がほとんど屋敷に戻る日がないとはいえ、桜が朝まで戻らなければ、十人衆が気付く。というより、あの四人が飢え死にする。
 月に照らされ、足元に伸びた影を眺めながら、桜は透一の知らないひとみたいだった横顔を脳裏に描いた。いったい何があったんだろう。三年前の出来事のあと、瓦街で死んだとされる透一の遺骸が葛ヶ原に戻らなかった、というのは噂で聞き知っていたけれど、生きていた、のだろうか。だけど、それならどうして雪瀬のもとではなく、まったく縁もゆかりもない玉津卿のもとに身を寄せているのだろう。桜にはさっぱりわからなかった。

「――サクラ」

 混迷する思考を呼び覚ますような澄んだ声音が耳に触れ、桜は知らず俯きがちだった顔を上げた。それで、きょとりと目を瞬かせる。気もそぞろに歩くうちにいつの間にやら丞相邸の門前までたどりついていたようだ。門柱には弓張り提灯を持った少女がぽつんと立っている。

「しらふじ?」

 所在なさげに佇む少女をいぶかしげに見やり、それから桜は少女が背にした表門がすべて開いていることに気付いた。息をのむ。夜半を過ぎると普段は暗がりに沈む月詠邸には橙色の明かりが灯り、微かな談笑の声を響かせていた。

「月詠……、もどってるの?」
「オソイ。まちくたびれた」

 白藤は細い眉をしかめるだけで、桜の問いに答えらしい答えを返してくれない。しかし、月詠が珍しく帰ってきたのに、それを迎えるはずの桜が不在というのはまずかった。よりにもよって、と苦い気持ちになりながら、桜は白藤の腕を引いて、屋敷のほうへと急ぐ。玄関に入って、驚いた。いつもはうたた寝ばかりをしている梅婆が起きて、杯を運んでいたのだ。機敏な動きで廊下を駆ける梅婆をしばし呆けて見つめてしまってから、桜は「誰か、きてるの?」と梅婆の小柄な背中を追う。明かりの見える広間に近づくにつれ、いつもと違うことに気付いた。月詠とは別の幾人ものひとの気配。それに、時折大きくなる談笑の声。やっぱり客人がいる。とても珍しいことだけど、月詠が屋敷にひとを招いたのだ。梅婆はお盆を持っているせいで両手が塞がっていたので、代わりに桜が「月詠」と中に声をかけて、柔らかな光が細く漏れ出している襖に指をかける。触れたとき、何故か、ためらった。くるおしいような、それでいて怖くてたまらないような、不思議な衝動が胸を襲う。いったい何を。桜は苦笑混じりにゆるゆると首を振って、襖を開く。いくつもの灯台に火が灯されたまばゆい室内で、最初に目に入ったのはやはり黒衣の丞相だった。こちらに気付くと月詠は杯から顔を上げ、「ああ」と鷹揚に顎を引く。

「放浪癖のある件の小鳥が帰ってきたな。なんとも遅いお戻りだが」

 辛辣に皮肉りつつも、けれど次の瞬間ふっと双眸を優しく細める。己が囲った夜伽にというよりは、娘を見守る父親のような、深い慈愛すら感じさせる表情で男は桜を手招きをした。そろりと襖から顔を出せば、視界が一息に開ける。寂れた丞相邸に籠もっている桜には、目にしたことがないくらいの大勢の客人。その中に、目立たない、ひっそりと佇むような水茎と同じ色をした浅葱の袖を見つけて、桜の呼吸は止まった。息をぜんぶ、持って行かれた。目を瞠ったまま、声を上げることもままならない。どくどくと心臓は激しく打ち鳴り、幼子みたいに足は震え。眩暈すらしてきそうになって、桜は一歩あとずさる。
 ――きよせ。
 橘雪瀬がそこにいた。