三章、青嵐



 十三、


「きよせ」

 うわ言のように喉奥から漏れた声はかすれていて、その場に集った者の耳には届かなかったにちがいない。桜は、男を見た。水茎を思わせる浅葱の上着に身を包み、膝を崩して座の一番端に座っている若い男。橘雪瀬だった。何も考えられなくなるくらい、雪瀬だった。隣の娘に緩い相槌を打っていた男は伏せがちだった睫毛を不意に震わせて顔を上げる。目があった瞬間、急にくるおしいくらいの情動が桜を貫いた。何かが爆ぜるみたいに、怖いであるとか恐ろしいであるとか、そう思っていたのが嘘のように散り去る。ただ、目の前の少年に向かって駆け出したい気持ちに駆られた。その胸に顔をうずめて、彼のぬくもりやにおいをいっぱいに感じたかった。

「桜」

 薄氷がごとき透徹した声音が背にかかったのは刹那。微動だにできず、それこそ人形のように身体を強張らせていた桜はびくりと我に返る。ほのかな苦笑を湛え、月詠がこちらを見つめていた。

「いつまでそこに突っ立っているつもりだ。客人に礼もせんで許されるほどお前は高貴なご身分だったかな」
「ゴメン、ナサイ」
「この屋敷で飼っている小鳥だ。緋色の眸が珍しかろう? 名は桜」

 まるで犬か猫でも見せびらかすような口ぶりで紹介をされる。いつもなら憮然としたところであろうが、今は目の前が変な風にふわふわしていて現実感がなく、月詠の言葉が頭の中までちゃんと入ってこない。ぼんやりした顔で桜がさっぱりさまになっていない礼をすると、奥のほうにいた女君たちが扇で口元を隠しながら何がしかを短く囁きあった。

「よう、久しぶりだな、桜殿!」

 沸きあがる感情の奔流にのまれ、引きずられ。危うくなった桜の意識をすんでですくい上げたのは、男の馬鹿明るい笑い声だった。赤や緑といった派手な色を使った見慣れぬ形の衣に、龍の紋を掲げた大男。網代(あじろ)あせびである。見れば、小さな童女を膝の上に載せた奥方の淡(タン)が心配そうな顔つきで桜のほうをうかがっていた。淡、と消え入りそうな声で喘ぐ。桜の表情をどう読み解いたのだろう、淡は母親が娘を慈しむような笑みを朱を差した眦に滲ませ、桜を手招きしてくれた。

「お久しゅうございますね、桜さま。さぁ、こちらへ。お酒は嗜まれますか? よろしければ、淡に酌をさせてくださいな」

 助け舟を差し出されたことは明らかだった。そのようなものを差し出されてしまわれるくらい、今の自分はどうしようもない表情をしているのだ。そんな自分を情けなく思う一方、今だけは藁にもすがる気持ちで淡の手を取りたかった。だって、桜は逃げたい。一時の激しい情動が流れ去ってしまうと、変な震えばかりが身体に残って、なんだかひどく心もとなかった。加えて、見知らぬ『客人』たちの好奇と奇異の目にさらされる。それがひと馴れしてない桜にはたまらなく怖くて、不安で、落ち着かなくて、叱られた子供みたいな顔で俯いてしまう。皆が、丞相の夜伽、を見ている。どんなオンナなんだろうって観察している。値踏みするように四方八方からまとわりつく視線が、桜は怖い。早くこの場から逃げ出してしまいたくて、桜は、今一度手招きをしてくれた淡に導かれるがままのろりと腰を上げようとする。

「酌か。それはよいな」

 くつりと笑う声がした。声の主、月詠の薄い唇にはさながら綻んだ花のごとき艶やかな笑みが載っている。誰もが目を奪われるそれも、桜には不吉な悪寒をもよおさせただけだった。

「右から――そう、そちらの葛ヶ原領主殿のほうから酌をして回れ。桜。うまくできたら、褒美をやろう。領主殿はなんでも愛馬が足を悪くしたと聞くが、美しいお前の酌を受ければ、たちまちに傷は癒え、野を駆けるようになるだろう」

 月詠の滑らかな口上に誘われて、座の者たちが桜と、丞相の視線の先――葛ヶ原の領主とを見比べる。眸をすっと眇めただけの領主様とは違って、桜はそこらじゅうから無遠慮に注がれる視線に耐え切れず、目を伏せてしまった。だってこれじゃあ、まるで見世物だ。やめて、と桜は思った。心の奥のほうにしまっていたいちばん大切なものを引きずり出されてめちゃめちゃに踏み躙られるような、そんな気持ちだった。やめて、と声にならない声で呻く。だって、どうして、こんな。だれか。だれか、たすけて。
 すっと微かな衣擦れの音がしたのは刹那だった。

「それでは一献」

 浅葱の袖が振られて、漆黒の杯が差し出される。今度は衣擦れひとつ立てないさやかな所作であったが妙に鮮明に、その中に描かれた銀色の月まではっきりと桜には見えた。おずおずと顔を上げれば、青年は優しく、春風がまろぶがごとく微笑む。

「馬を治してくださるんでしょう? ちょうどかわいそうに思ってたんだ」

 懐かしい音調をもって紡がれる声は桜の記憶のものよりもいささか低い。懐かしさと違和感の両方を覚えたせいで、桜はきょとんと幼子のように目を瞬かせてしまった。それから、眼前に掲げられたままになっている空っぽの杯に気付いて、手近な提子(ひさげ)を探す。黒漆に銀で紫陽花の描かれた提子に手を添え、男の持つ杯のほうへ傾ける。難しいことでは、ないはずだった。月詠はともかくも、酒好きな伊南を相手に桜はしょっちゅう酌をしてあげていたから、それは慣れた、今さら考えるまでもない行為であるはずだったのだけど。提子の口をうまく杯にあわせることができず、桜は手間取った。じわじわと焦燥が這い上がってくる。震えているのだと、わかった。指先も、手も、膝も、爪先も、身体ぜんぶ。桜の意思に反して身体は、すぐ間近にある男の息遣いを、眼差しを、あますことなく感じ取ろうとする。ついに、大きく揺れた提子の口から流れ出た芳しい酒が杯のふちを滑り出て、青年の紺の袴へぽたり、と落ちる。それが広がり、大きな染みになっていくのを桜はどこか遠いことのようにみていた。はっとして手を引いたときはすでに遅い。ふちいっぱいまで満たされた酒は青年の袴どころか畳にまで染みを作っていた。
 あ、と小さな声が漏れる。失敗、した。ちゃんとできなかった。その事実が桜をかろうじて支えていた弱い糸を断ち切り、視界を暗転させる。「もうしわけ……」、そのあとが続かない。潰れるような吐息をこぼして、桜はこみあげてきた嗚咽をなんとかこらえる。床を拭くことすらできず、提子を抱き締めたままうなだれた。怖くて、かのひとがどんな顔をして自分を見ているのかと思うと、消え去ったはずの恐怖がぶり返してきて、顔を上げることすらできない。

 くすりと。ひそめた笑い声が背後からこぼれた。上目遣いに視線を上げれば、くすくすとさっきの女君たちが扇で口元を隠しながら笑い声を忍ばせ合っている。弓なりに細められた目が扇の向こうからいくつものぞく。珍獣でも観察するような、愉悦を含んだ。くすくす、くすくす。得体の知れないそれらはさざなみのようにあたりに広がっていった。わらいごえ。哄笑。気付いたとたん、頬が熱くなって、反対におなかのあたりがすぅっと冷えていった。わらわれているんだ、わたし。今にもこの場から逃げ出したいのに、足がすくんで動くことができない。桜は、今の窮地を切り抜ける気の効いた切り返しも、愛想笑いも何ひとつできない。自分がみじめで、情けなくてたまらなくて、桜は小さく小さく、さながら人馴れしてない獣の子みたいに身を縮ませた。
 つ、とやにわ浅葱が揺れた。黒漆の杯が、蝶が翅を震わせるがごとくひらりと翻る。きれいにひっくり返された杯からこぼれ落ちた酒は青々とした畳を濡らして、小さな水たまりを作った。さしものこれにはその場に集った者も皆笑い声をおさめて、目を丸くしてしまう。あたりの注目をまるごとかっさらった男は、逆さまにしていた杯を回して、「失礼」と薄く笑った。

「こぼしてしまいました。東の辺地の不調法な者ゆえ、どうぞお許しを」

 目礼するのと一緒に、たん、と杯を置く。
 静寂を貫いたその一音に、座の者は我に返った様子で視線を解いた。あっはっは、とあせびが豪快な笑い声を上げる。

「かわいそうに、これじゃあ風音の足は治りそうにないな」
「うん治りそうにない。アレはまぁ自業自得だからしょうがないんだけどさ」
「よそ者が触ろうとしたら蹴り上げようとしたんだって? ふふん気難しい馬ほど心は気高いっていうじゃねぇか。大事にせんと罰が当たっぞ」

 ひとたび口を開くと、この話し上手な南海の領主はあっという間に場を和ませて、己の空気に作り変えてしまう。さっきは桜を笑っていた客人たちもすっかりそちらに気が向いて、桜のことは視界から忘れ去ってしまったようだった。男の左手が提子を取って、まるで何事もなかったかのようにゆるゆると酒を注ぐ。少し骨ばった、大きな手のひら。知らず息を詰めてしまっていると、軽やかな足音をさせて、淡の膝を抜け出してきたらしい海紗(ミシャ)が顔を出し、「雪瀬さま」と浅葱の袖を引いた。

「ねえねえ、みしゃ、おしっこ」

 ついついと袖端を引いてせがんできた童女に気付くと、怜悧な色をした双眸はふんわり柔らかな微笑で細まった。

「じゃあ俺もおしっこ。一緒にゆこう、海紗」

 大きな手のひらが海紗の小さな手を握って、腰を立たせる。歓談にふける一同を残して、ふたりは襖の向こうへと消えた。