三章、青嵐



 十四、


 畳に盛大にできてしまったふたつの染みをどうするかは桜の仕事であった。
 厨から濡らした布巾を取ってくると、桜は少し酒をしみこませてしまった畳をぽんぽんと叩くようにする。純度の高い酒であったので、吸い取って、乾いた布巾でもう一度ふき取らないと畳を傷めてしまう。談笑する客人たちの声を遠くに黙々と手を動かしながら、しかし脳裏によぎるのは鮮やかに翻る揚羽蝶を思わせる黒漆の杯なのだった。直近の彼の声と一緒に、その情景ばかりが桜の脳裏で何度も繰り返される。すべらかな手のひらが水で冷たくなった桜の指先に触れたのは、数え切れないくらい翻る杯を見届けたあとだった。

「もうよいであろ。すっかりきれいになっておるよ」

 怜悧に諭す声にわずかに聞き覚えがあって、桜は顔を上げる。すぐに、あ、と小さく声が漏れた。目元を布で覆い隠した、妖艶な美貌の女。

「ももかわの、」
「紫陽花じゃ。二度目まして可愛い人形の君」

 女は口元に緩やかな艶笑を湛え、こすりすぎて指先が赤くなった桜の手を畳から離す。そのわずかな挙措に伴って、亜麻色の髪に挿された銀と紫石の簪が揺れて、しゃらんと澄んだ音を立てた。丸くはめこまれた紫石と銀細工によってかたどられた花の形は橘だろうか。墨を思わせる漆黒に白の夏椿という、目の覚めるような色合いの小袖をさらりと着こなした女は紅の刷かれた唇を吊り上げ、今しがた海紗と雪瀬とが消えた襖のほうを顎でしゃくった。

「手ぬぐいを持っていってやってはいかがかな。夏とはいえ、ああも派手に袴を濡らされては、ひそかに難儀していると思うが」

 言われて初めて、あ、と思う。目の前のことに必死で、すっかり考える余裕をなくしていたが、桜は雪瀬の袴にも盛大に酒をこぼしてしまっていたのだった。それでもわずかばかりためらった桜に、「気が向かぬのなら、私が持って行くが?」と紫陽花は少し癖のある髪房に指を絡ませながら言う。桜は慌ててふるふると首を振った。

「わたしが、持ってく」

 ともしたら逃げ腰になりそうな自分を叱咤するつもりもあってしっかりと宣言し、布巾を集めて腰を上げる。月詠のほうをそれとなくうかがうと、黒衣の丞相はあせびや他の客人たちとの談笑に意識が傾けられているようで、こちらに気付く気配はない。それとも、このひとのことだからすべてを把握した上で、傍観を決め込んでいるのかもしれないけれど。桜はそぅっと一同に対して退席の礼をすると、山盛りになった布巾を抱えてきびすを返す。少し歩いてから、ふと思いついて足を止め、客間を区切る几帳の影から顔を出した。

「……アリガトウ」

 杯に口をつけていた紫陽花にひっそり囁く。紫陽花は銀の簪を揺らして顔を上げると、謎めいた艶笑を滲ませ、ひらひらと手だけを振った。




 布巾を一度洗い場のたらいに置き、桜は乾かしてあった手ぬぐいと手燭を持って海紗と雪瀬が向かったほう――北の厠のほうへと小走りに向かう。濡れ縁を歩いていると、未だ昼の熱気と草いきれをまとう空気と反して夜の涼やかな風を頬に感じた。丞相邸のあまり大きくはない中庭には、竹で編んだ棚に蔓を絡ませ、ほの白い夕顔がぽつぽつと群れ咲いている。枯れかけていたのを桜が三年かけて手入れをして、ようやく蕾をつけさせたそれ。甘い芳香をくゆらせる花が風に揺れて花弁を震わせていた。桜はふと手燭を持つ手を下げて、足を止める。視線の先に、浅葱の袖があった。火灯形にくりぬかれた窓に浅く腰をかけ、ぶらぶらと無為そうに足を揺らしている、影。細く息をのんで、桜はすぐそばにあった柱にそっと手を這わせる。何かすがりつくものがなければ、倒れてしまいそうな、そんな気がした。
 所在なく見えるのは海紗を待っているからだろうか。夕顔棚が揺れる。急に強さを増した風に、手元の炎がじじっと爆ぜ、伏せがちに足元へと落とされていた濃茶の双眸が瞬いた。

「――桜?」

 名前を呼ばれると、温かな奔流が身体を駆け抜けた。どうしたらよいのかわからなくて、桜が目の前の柱に額をくっつけていると、「どうして隠れてんの」と息が抜けるのと一緒に微苦笑の気配が耳朶を震わせる。その声に引き寄せられ、桜はそろそろと柱から出た。

「て……ぬぐい。さっき濡らしてしまった、から。はかま」

 手燭を火灯窓のふちに置かせてもらい、腕に大事に抱えていたものを差し出す。手に取られる、そのわずかな隙に男をうかがうと、彼は眦を和ませて「ありがとう」と言った。やさしくて、強張った心を丸く包むような微笑い方。知らず、ほっと息がこぼれる。それは、桜が慣れ親しんだ少年の微笑い方とおんなじだったから。そうして改めて手燭のぼんやりした橙の光越しに見る雪瀬は、かつての面影はそのままに、ずいぶんと大人びて見えた。背も、肩も、前よりも広い。柔らかそうな濃茶の髪はずっと伸びて、うなじのあたりでくくられた毛先が背に垂れている。洗いざらした小袖と袴の代わりに、はためにもよいものとわかる品のよい色合いをした浅葱の小袖と袴を履いていた。――だけど、それだけだった。透一のように、まるで別人みたいに変わっていたりとか、真砂のように足が一本木の棒に変わっていたりとか、そういうことはなかった。話し方も、面差しも、背にまとった空気も、ぜんぶ雪瀬のままだ。安堵からか、力が抜けてしまって、桜はその場にぺたんと座り込んだ。

「ずいぶんお疲れみたいだね」

 それを見た雪瀬が手ぬぐいを袴に押し付けながら笑う。まさかあなたのせいだと打ち明けるもできず、桜は首を振って「今日ずっと、歩いていたから」と別のことを言った。そう、と相槌を打ったきり、彼は深くを追及してこない。そのせいで逆に桜は次の言葉を考え込んでしまう。蝶姫や真砂や透一のこと。少なからず、いや、どころかおおいに雪瀬に関わりのあることばかりのように思えたが、いったいどこから、どんな風に話したらいいのだろう。蝶姫は、皇祇のことは桜と蝶だけの秘密だ、と言っていた。桜は真砂の「オトモダチ」だから信じて、話してくれたのだと。すべてを、雪瀬に話してしまってよいのだろうか。考えると、喉のあたりがつまって、桜は途方に暮れてしまう。その間も、雪瀬は袴を丸めた手ぬぐいでぽんぽんと叩いていた。ひとしきり裾まで叩き終えると、「――何年ぶりだろうね」と何でもないことのように言う。思考の深みにはまりこんでいた桜は少し反応を遅らせて、顔を上げた。いつの間にか手を止めたらしい雪瀬が目を細めて桜のほうを見ていた。

「少し違って見えた。髪は、結うようになったの?」
「ゆうようになった」

 鸚鵡返しに答えてしまってから、桜は髪に挿してある銀の簪に手で触れて、「柚にもらったの。これ。カンザシ」とたどたどしく続ける。

「柚は、げんき?」
「元気だよ。今回は葛ヶ原で留守番してる。都に着いたら、梅枝堂だか何かの香をおみやげに買ってきてくださいませ兄さま、って出るときすごくうるさかった」

 なつかしい。兄妹のおなじみのやり取りや表情が目に浮かぶようで、桜は嬉しくなった。

「梅枝堂は東市の通りの端にあるよ。すごく、いいかおり。梅花も荷葉も」
「ふぅん、“バイカ”に“カヨー”ねぇ」
「……雪瀬、わかるの?」
「ぜんぜん。香はみんな同じ匂いに見える。自分につけられてる香もなんだか全然わからない」

 ほのかに澄んだ、夏らしい清涼とした香りのする袖を振って平然と言うものだから、桜はおかしくなってしまう。ああ雪瀬だ、と思った。全然変わらない、出会ったときの雪瀬のままだ。

「よかった」

 まろんだ声は自然にこぼれ落ちた。

「よかった。柚も雪瀬も。げんきだ、よかった」

 うれしくて。胸をじんわり温める気持ちがあまりにも優しくて。心地よくて。しあわせで。桜は緋色の眸を細めて、初夏の夜気に淡い笑みを溶かした。濃茶の眸がひとつ瞬く。そして彼は。まるで玻璃か何かが散り去るようにふつりと表情を消した。急に何かが冷えいったのがわかった。突然の変化に戸惑って、桜は口をつぐむ。いったい、何か。自分は、わるいことを言ってしまったのだろうか。わからなくて、不安がぶり返してきて、桜もほんのり湛えた微笑を嘘みたいに消してしまった。注がれる視線を受け止めきれなくなって、目を伏せる。それをどう思ったのだろう、不意に衣擦れの音がして腕を伸ばされた。視界の端で揺れるきれいな浅葱色をぼんやり目で追う。袖からくゆる、しらないにおい。男の指先は桜の髪には触れず、す、と銀の簪に透かし彫られた花の紋様を確かめるかのように触れて、滑らかな丸い銀をなぞり、そして。

「海紗、おしっこ終わったー!」

 明るく弾けた声に、桜はびくっと肩を跳ね上がらせた。

「海紗」

 とたとたと若干危うげな足取りで駆け寄って、腰に手を回してきた海紗を雪瀬が抱き止める。まるで何事もなかったかのように、身じろぎすれば触れ合えそうなほど近くにあった手のひらは下ろされていた。

「ずいぶんながかったねえ」
「おっきいのもしてた」
「あー、そ」

 あけすけな海紗の物言いに雪瀬は苦笑気味に肩をすくめる。海紗は上目遣いにちらりと桜のほうをうかがったが、すぐにぷいっとそっぽを向いて、雪瀬にだっこをおねだりした。どういうわけか知らないが、海紗は雪瀬にひどく懐いているらしい。自分がいない間にそばにいた桜が気に食わないのだろう。
 桜も、そうだった。雪瀬が可愛がっていると、猫でも鼠でも片っ端から何にだって嫉妬した。彼の優しい手のひらを独り占めしたかった。自分だけのものにしたかった。――ああ、なんて、幼い自分。桜はもう、彼の手のひらに女童のように頬をすり寄せることができない。きっと、拒まれる恐怖のほうが先に立つ。さざめき立った気持ちを苦笑で紛らわせると、桜は手燭を持って、海紗を背負って立ち上がった雪瀬を追う。そのとき微かな違和感に囚われ、桜は目を瞬かせた。歩きだした雪瀬の背を目で追いながら、あ、と思う。目の高さが、変わったのだ。さっきは彼が窓に座っていたから気付かなかった。けれど、今はよくわかる。前は顎を少し上げれば目を合わせられたのに、今は同じ角度で仰いでも彼の肩くらいにしか追いつかない。あたりまえだ、と桜は思った。まだ毛もろくに生えていないちいさな生きものに過ぎなかった海紗が、立って、喋るようになったのだから。長くはない、だけど桜にとって決して短くはなかった。それだけの時間が流れたのだから。

 海紗は宴の席へ戻るまでの道のりで眠ってしまったらしい。すぅすぅと雪瀬の肩に頬を乗せるだけになった海紗を下ろして、雪瀬は淡に何がしかを囁く。おかしそうに目元を微笑ませて淡が頭を下げたから、きっと海紗のことを話したのだろう。雪瀬は海紗の小さな身体を淡の膝の上に乗せると、その足で上座に座る黒衣の丞相のもとへと向かった。紺の袴を翻して、拝礼する。雪瀬のこざっぱりとした所作に慣れていた桜は、たおやかな、艶然としてすらいるその動きにびっくりした。

「今日はわたしのような者までお招きありがとうございました、丞相」

 滑らかな口上が紡がれる。柔らかな声音は決して大きいわけではないのによく通った。

「早々で申し訳ないのだけど、わたしどもはこれにて。今日はとても、楽しかった」

 杯を傾けていた丞相は脇息から身を起こして、「残念だな」と嘯いた。

「まだ月も高い。今宵はゆるりとくつろいでゆかれればよかろうに」

 男の誘いに雪瀬はくすりと微笑って、「うちの鷺鳥が寂しがりますから」と首を振った。あせびの大きな膝の上に頭をもたせていた海紗が目をこすりながら、「雪瀬さま、おやすみ」と言う。それに「おやすみ」と応えて、雪瀬は足を返した。周りと別れの挨拶を交わしていた百川漱が腰を上げる。目の前を颯然と通り過ぎていく紺の袴を、桜は海紗が指をくわえているのと同じように見ていることしかできない。――まって。そんな言葉が塞がった喉をせり上がる。だって、まだなにも。なにも、伝えられていない。祈るような気持ちで顔を上げる。紺の袴が戸口のところで止まった。はぁ、と苦笑混じりの息がつかれる。桜は雪瀬を仰ぎ、その双眸が自分を通り越して別の娘のほうに注がれていることに気付いた。

「――紫陽花」

 彼が呼んだのは、几帳の影で酒を酌んでいる娘であった。銀と紫石の簪をしゃらんと鳴らし、紫陽花は駄々をこねるように唇を尖らせる。

「つまらん男よのう。丞相殿も仰ったではないか、もうしばしのんびりしておってもよかろうに」
「つまらなくて結構。ほら、わがままゆってないで帰りますよ」

 雪瀬は戸口まで向かいかけていた足を引き返すと、かがみこんで女に手を差し出す。ちぇ、と舌打ちして、紫陽花は雪瀬の手を取った。目元を覆い隠した娘を導くためだろうか、雪瀬は紫陽花の手を引いて歩きだす。それに肩をすくめた漱が続いたので、桜はほとりと首を傾げた。漱が三年前のあの事件以来橘宗家に身を置くようになったことは月詠から少し聞いて知っていたけれど、紫陽花も同じだったのだろうか。

「桜」

 考え込んでしまった桜を月詠が呼ぶ。三人の背から視線を解いて声のしたほうを振り返れば、男は甘やかな笑みを湛えてこちらを見ていた。女子と見まごう細い手首が翻って、空の杯を返す。

「酒が切れてしまった。櫛筍小路まで行って、追加の酒を運ぶよう頼んできてはくれないか」
「くしげ……ひょうたん屋さんのところ?」
「そうだ」

 馴染みの赤ら顔の店主を思い出して桜が尋ねると、月詠はゆるりとうなずいた。

「ついでに、言祝ぎの酒を一俵買って、橘殿に贈って差し上げてはいかがかな」
「ことほぎ。……お祝い?」

 雪瀬が葛ヶ原の領主を継いだのはもう三年も前の話だ。いったい他にどんな祝い事があるのだろうかと首を傾げた桜に、「ああ、“お祝い”だ」と月詠は桜の何がおかしかったのか、面白そうに喉を忍び鳴らす。

「あせび殿のように行き遅れずよかったな。橘殿も齢十九、よき年頃であるから、この秋に妻を娶られるのだという。めでたきことゆえ、祝い酒を贈ってやらねばな。橘殿と、奥方になられる紫陽花殿とに。だろう、桜?」

 果たして男の告げた言葉は、桜を混迷の渦へと叩き落とす。