三章、青嵐



 十五、


「めとる」

 これほど自分に縁のなかった言葉も他にないだろう。
 桜はゆっくり眸を瞬かせる。さりとて、言葉そのものの意味がわからぬというほど桜ももう無知ではなかった。娶る。妻となる女を。雪瀬が。月詠にそういう者はいないが、都の貴人の間ではしょっちゅう耳にする話だ。婚姻。葛ヶ原領主は百川式ノ家紫陽花を妻に選んだ。

「コンイン……」
「桜」

 早くも混迷をきたし始めた桜を、ぴしゃりと男が呼ぶ。

「酒を買いにゆけと言ったろう。聞こえなかったか」

 桜はゆるゆると顔を上げる。微かに顎を引くようなそぶりをしたのはほとんど無意識のうちだった。あるいは反射のようなものだったのかもしれない。そのあと自分がどんな受け答えをして、どんな風な拝礼をして、その場を立ち去ったか。記憶にないが、気付けば桜は玄関で客用の提灯に火を入れていた。

「ありがとうございます」

 声をかけられて、初めてそれまでぼんやりしていた視界が焦点を結ぶ。
 ももかわ、すすぎ。男の手に握られた三日月紋の提灯に目を留め、桜は自分が男に提灯を差し出していたらしいことに気付いた。桜から受け取った提灯を漱が前にいる雪瀬のほうへと渡す。桜は玄関に置いてある水瓶から無造作に数枚の銅貨を拾うと、縮緬布で包んで衿元に入れた。自分のぶんの提灯にも火を入れ、手燭の明かりを消す。
 外に出ると、少し傾いた半月が雲のたなびく合間に照っていた。酒とひといきれとで熱っぽかった室内とはちがい、外は涼しげな夜風が吹いている。桜は前を歩く青年の背と、その隣に寄り添う娘の姿を見つめる。しゃらんと月光を弾いて女の亜麻色の髪に挿された銀簪が澄んだ音を立てる。橘の花をかたどったその。ああ、あの簪はそういう意味だったのだと今さら得心がいった。東の地方で銀は誓約を意味し、銀簪を贈ることはすなわち求婚を意味するのだと、かつて青年の妹だった少女に教えられたことがある。求婚。紫陽花の淡い髪色に、艶やかな紫石はよく似合う。まぶしいくらい美しい光景であるのに、桜は胸に重い石をいくつも詰め込まれたような、たまらない気分になってきて、目を伏せた。いったい何が起きているんだろう。目の前の光景にさっぱり現実感がない。

「すいませんね、こんな夜更けに付き合わせてしまって」

 不意に隣から声をかけられ、桜は足元に落としがちになっていた視線を上げた。自然桜の隣を歩く形になっていた百川漱が申し訳なさそうに眉を下げてこちらをうかがっている。桜は首を振った。

「ひょうたん屋さんのお店はほんとうにこっちだから、“付き合ってる”わけじゃない」
「でも、つっきーもひどいじゃない。きみみたいな女の子にひとりでお酒を買いに行かせるなんてさ。あのいかにも武官です筋肉たくさんついてますって顔した伊南さんあたりに頼めばよかったんだよ」
「……うん」

 うなずくものの、前方から時折こぼれる紫陽花のくすくすという甘い笑い声が桜は気になって仕方がない。いったい何を話しているのだろう。雪瀬はそれをどんな顔で聞いているのだろう。海紗のときは苦笑で紛らわせることのできたそれが今は身体いっぱいを支配していて、桜はひどい息苦しさにか細く喘いだ。いえに、かえりたい。犬や、伊南たちの待ってる家。泣きたいくらいにそう思う。

「――わたし」

 ぽつんと上げた声は夜気に溶けて消え入りそうだったが、あたりに音がまるでなかったせいでどうにか相手の耳に届いたようだ。銀簪を揺らして振り返った紫陽花と雪瀬から目をそらし、桜は震えそうになった手を祈るように組み合わせた。

「わたしは、ここで、」

 左方にはちょうど細い小路が伸びている。櫛筍小路。桜がそちらを視線で示すと、雪瀬はああ、と諒解した風に顎を引き、傾いた月の浮かぶ空へ目をやった。ほんの少しの沈黙のあと、へいき? と問われる。幼い桜が怖い夢を見るたび、背をさすっておやすみ、と言ってくれるのと同じ、深くて、やさしい声だった。そっと目を上げると、言葉足らずの男を補うように、「もう夜も深いゆえな」と紫陽花が微笑む。

「かように可憐な人形の君を危のう目に遭わせては、丞相に申し訳が立たぬ。送って差し上げよう。荷物もちならそこの漱がするぞ」
「……ううん」
 
 男の袖にそれとなく絡められた女の白鳥を思わせる腕に気付いて、桜は目を伏せた。

「ひょうたん屋さんは、とおくないし、……道も、知っているし、わたし」

 次第に顔を俯けてしまいながら、わらわなくては、と思う。わらわなくては。もっと、ちゃんと目をあわせて、嘘だってわかんないように。わらう。だけど、桜の思いとはうらはらに頬はぎこちなく強張って懸命に作ったはずの笑みも中途半端なまま消えてしまった。

「ほんとうに、へいき。ありがとう。……紫陽花も漱も、雪瀬も、おやすみなさい」

 ともすれば震え出しそうになる声でなんとか言い切って、桜は逃げ出すように身を翻した。ぱたぱたと小走りに歩く。はやく。はやくはやくはやく。この場所から離れたくて仕方がなかった。ほんにくるくる表情の変わるお人形さんよのう、とくすくすと笑う紫陽花の声が背にかかったが、桜は振り向かず、足を止めることもなく、暗い櫛筍小路を走り続けた。
 ……本当は、本当の本当は、どこかで夢を見ていた。
 領主様になった雪瀬はいつか桜を迎えにきてくれるのではないかって。桜がずっと雪瀬が大好きなように、雪瀬も桜を忘れないでいてくれて、いつか迎えに来て、葛ヶ原に連れて行ってくれるんじゃないかって。甘い夢を、見ていた。二度と戻ってくるな、と三年前あのひとは確かに桜にそう言ったのに。桜は、何を期待していたのだろう。

 いったいどれくらい走ったのか。
 ふつ、と足元で何かが切れる音がして、桜は足を止めた。見れば、右足の下駄の鼻緒が切れてしまっている。あいにくと替えの鼻緒のほうは持ってきていなかった。桜はかがみこんで、切れた鼻緒を結び合わせようとする。だが、切れ方が悪かったのか、どうにもうまくゆかず、しまいには脇に置いていた提灯の明かりが風に吹かれて消えてしまった。
 月が悪戯に雲に身を隠した空は暗い。ほとんど見えなくなった手元に途方に暮れて、桜は額から伝う汗をそっと拭った。そうして初めて、自分の頬が濡れていることに気付く。知覚したとたん、堰を切るかのように溢れてきたそれの存在を認めたくなくて、桜はごしごしと手の甲で乱暴に目元を拭い、下駄を脱ぎ去って歩きだした。泣かない。泣かない。泣かない。自分に向けて念じるのだけど、暗闇の中では余計、別れる間際の雪瀬の声や、銀と紫石の簪や絡められた腕や、そういったものが思い出されてしまって、胸がぎゅうっと締め付けられる。雪瀬に会えた、会えた雪瀬は前とおんなじでやさしかった、これ以上ないくらいしあわせなことであるはずなのに、桜はひどくみじめな気分になっていた。いっそ、どうして現れたのだとかつてのように罵られたほうがよかったのかもしれない。なじられ、肩を揺さぶられ、組み敷かれ、一時の情動に堕ちるようにからだを重ねた、あのときの雪瀬はぜんぶ、桜のものだった。声も、からだも、こころも、つたない嗚咽すらもすべて、余すところなく桜のものだったのだ。――心の奥底から急につきあがってきた情念はあまりに激しく、桜はしばし呆然としてしまった。ふるふると首を振り、いつの間にか止まっていた歩みを速める。
 じぶんは馬鹿だったのだ、と桜は思った。透一もそうだった。真砂だって、そうだった。桜自身ですら、そうなのだ。変わらないものなんかない。たとえ、雪瀬が何も変わってなくたって、桜と雪瀬の間にあるものは変わってしまったんだ。もうなくなってしまったんだ。そう思うと、嗚咽がぶり返してきて、桜はすん、と鼻を啜った。
 しゃらん、と玉を転がすような玲瓏とした音色がしたのはそのときである。
 とっさに紫石と銀の簪を挿した美貌の女を思い出し、桜は身体を固まらせる。おそるおそる顔を上げる。厚い雲の合間からふっとさやかに射した蒼い月光の下、揺れる柳さながらにたたずむ麗人の姿があった。
 
「こんばんは、よい月夜だね。お嬢さん」

 白銀の髪が、夜に舞う雪花のごとく煌く。ぱちぱちと音を鳴らして開かれていく扇を緩やかに口元に持って行くと、麗人は翠の眸を細めて微笑んだ。